目醒め
霜月 偲雨
目醒め
夜中に食べるスイーツ。
罪悪感や背徳感の蜜に包まれた、凶暴な美味しさを纏い、我々の舌を誘惑する。
一度知ったこの味は思い出の苦味。
ひっそりとした時間が流れる名前のない店。
カウンター席にはこんな話にはお決まりのこの上なくお気楽そうな猫が我が物顔で居座っている。猫になることができたら。そんなことをつい考えてしまう。
ここにくると筆が進む。息苦しくなると、決まってここに来るがいつも何を頼んでいるか忘れるので、いつも同じものを飲食しているような気が勝手にしている。私がここにくるのは決まって真夜中だ。
夜には寂しさと悲しみと神秘さを兼ね揃えた香水が辺りに充満して、形のない獣がすぐそこまで迫ってくる。ベットの上で目を閉じて、見ないふりをする事にも飽きてきて、目を開けて、体育座りでうずくまってみるけど、汚された空気が部屋の隙間のそこかしこから私に向かって吹き出しているように感じてしまって、それでもそこから逃げ出す勇気も逃れなければならない理由も特になく、いつもはスラスラと出てくる立派に飾り付けられた建前もこの時ばかりは出てこない。
そんな時に何ヶ月かぶりの夢を見た。真夜中の街を自由に歩き回る猫がいた。夢を見ると記憶が整理されるとは本当のことみたいで、翌朝は脳を丸ごと洗ったかのような心地よさだった。こんな時は私を気だるくさせる夜の香水もあまり効果を発揮しない。夜中まで仮面を被った優等生を演じて、また一人の孤独の巣へと帰る。その後もなんだか気分が冴えていた。今ならば、私に覆いかぶさった帳を破れるかもしれないと、ふと思って、布団から一歩を踏み出した。
ちゃんと息を吸えた気がした。
都会の空気であることには変わりないのに、甘ったるい味のする香水を纏った空気より排気ガスとゴミの匂いに満ちた空気の方が美味しく感じた。窓から見える都会の喧騒を匂わせる明かりも今なら私の手の中に閉じ込めてしまえそうだ。今だけ、私は都会を蹂躙する君主になったようだった。おもむろにブルーライトを光らせて、プレイリストを再生する、今日は『夜明けと蛍』の気分だった。
口ずさんでいたような気もするし、口ずさんでいないような気もした。ただ、すっきりと目覚めたと何時かぶりに思った。
高校時代から夜に寝ること以外は時間も場所もバラバラだから、目が覚めたという感覚だけを人と共有できた試しが人生で一度も無かった。ひたすらにあてもなく歩くたびに頭が冴えていく感覚がした。
細い路地の入り口に猫がいた。その子はなんだか夢で見た子に似てる気がした。きっと人間特有のご都合主義が乗り移ってしまったに違いない。首を振って前に歩き出そうとするも、一向に気になってしょうがない。その辺のコンビニで猫のご飯でも買って持ってきてやるかと思い、歩き出そうとすると、猫はどこかへ向かうそぶりをみせ、振り返って、私を見つめてきた。私を待っている。直感がそう言っていた。
人の気配が全くしない道をひたすらに歩いていく。別に不安なわけではないが、どこからか漂ってきたモヤによって、前も後ろも霞んでいることがよりこれから起こることへの期待を風船ガムのように膨らませた。
一軒のカフェというべきかバーというべきかコーヒーの香りとも甘いカクテルの香りともとれる匂いが充満した店だった。薄暗い店内にはカウンター席とボックス席、chill味を感じる曲が音質の悪い状態で流れていた。レトロという流行りの言葉でも言い表せない何か中途半端な店だった。それがはまっている店だった。店主ともマスターとも呼びたくなる風貌のおじさまがカウンターの奥でずっと何かを読んでいた。
猫が鳴く。店主が振り向く。私は一言も発せず、カウンターの端に陣を取った。
何をするわけでもなく虚空を見つめた。それは雨の音を聴くのに飽きるほどの時間だった。
「カステラ」
静寂を破ったのはマスターだった。私はただ頷いた。
コトッという音と共に置かれたのはなんの変哲もない不均等な二層のスポンジ。
機械的に口に運ぶ。
感じたのは渇きだった。物理的であり、感情的な渇き。それこそ渇望していた渇きであった。満たされないという不満。腹は満たされども、満足感を得るという欲を満たさぬジレンマのような何か。渇望していた渇きであることがその日、その場限りで確かであった。
私は夢のない話を書きたかった。意味のない話を書きたかった。一度読んだら忘れてしまうような話を書きたかった。小説だったら切り取られないような話を書きたかった。誰の記憶にも残ってなるものかと、躍起になって描きたかった。ただ、一度読んで、ああよかったとなることもなく。ただ、読み終わった。次行くか。そんな気持ちになるような話が書きたかった。書けなかった。でも、書き続けた。いくら描いても、書いても、掻いても変わらない私の中の空腹感?飢餓感?満たされないなにかが創作意欲を掻き立てていた。自分が人間じゃなく、獣だと気づいたのはいつの話だったか、書いているうちに現実が遠のいて、自分の意識が消えていった。その感覚が心地よかった。
足りなかった。満足したなんて言葉を最後に発したのはいつだろうか。私はいつだって何かに飢えていた。この飢えの先にあるものを想像しては狂おしいほどの愛おしさを感じた。
区切りのない空の美しさを書いた。
飛び立つ鳥の力強さを書いた。
楽器の紡ぐ繊細さを書いた。
ロックの叫びを書いた。
いつだって書いたのは自分の一部だった。
身を切るように書き綴った。
当たり前のことを当たり前じゃなく綴ることに快感を抱いていた。
言葉がとめどなく流れていく。
掴まなければ、どんどんこぼれおちていくほどに。
だのに、できなくなったのだ。あんなに頭に浮かんできた言葉の数々も今じゃ跡形もなく消え去って、書いてみようとパソコンに向かっても、なれない原稿用紙を買って鉛筆を持ってみてもそこには無があるだけだった。
思いついたことが、作品の欠片が手のひらからこぼれ落ちていくようになった。
すぐそこにあるのに届かない。
そんな在り来りなことばを消費しても、この気持ちを言い表すことは決して出来なかった。
飽くという言葉が1番似合わない人間が私だったはずだった。
不安と焦りで走りたくなる。そんな気持ちと裏腹にただキーボードに向かう指が私の体を椅子に、机に結びつけた。
それでも、段々と思いついた物語のかけらを口に出すことすらもできなくなってしまった。私の頭の中には私の生きる世界とは違う、他のどんな世界も無くなってしまった。
指が止まる。
私はもう、何者にもなれない。
考えられなくなった頭で思いついたのは一度は誰もが言ってそうな諦めるための言葉だった。
それは限りない無からの創造を冒涜する行為であった。
何が足りないのか。
何が必要なのか。
どうすればいいのか。
考えれば考えるほど闇は拡がっていく。
結局は望みがないと諦めるしかないのだろうか。私の物語は誰からも望まれないし、誰かの物語の1ページにすらならない人生だったのだろうか。
夢をあきらめるにはこの状況は充分な理由なのかもしれなかった。
それでも縋ってみたかった。何かにすがっていたかった。
私は紛うことなき子供であった。
そこからは、自分を無にすることだけに心血を注いだ。
SNSは画期的な方法だった。脳を腐らせる、その観点において。歌もそこそこ有効だった。ストレスを出し切ることは同時に自身の感情を出し切ることだった。勉強というものだけは忘れなければならなかった。この世界にやらなければならないことなんて何一つない、しかし、人々は何かに縛られたがる。流動的であることに耐えられないのだ。だが、そこに囚われていては無になることなど到底できない。私は義務の存在を忘れることにした。読書は自分を世界から分離する点においては有効だが、分離した自分が他世界に入ってしまうことが問題であった。しかし、他世界への旅は心地よく脳を疲れさせ、無への旅路を楽にした。そして何よりも、寝食をしないことだった。無色透明の水のみと生活することで、無という瞬間は訪れたような気がする。それでも、その瞬間が現れることはなかった。
限界まで酷使し、そして死なないよう癒し、また限界まで切り詰める。それでも訪れることのないあの時間。何もかもを忘れて、全てを捨ててしまいたかった。
それくらい何も考えずに没頭できる時間が欲しかった。
最後の一口を食べ切ると、新しい物語のかけらが生まれた。
希望の光であった。
不思議と焦りはなかった。
消えゆくものならそれまでのものなのだと思えた。
私にそう思わせたのは猫とカステラだった。
カラカラな私も満たすもの。
それは創り出す行為。
カステラ。異国から訪れし食。
黒船がきた。
今、気づく時。
今、変わる時。
今、知る時。
今、戦う時。
今、立つ時。
「珈琲」
ここからが目醒めだ。
目醒め 霜月 偲雨 @siyu_simotsuki_11
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