第16話 凍てつく心を溶かす者は①

 フィデル・ロレンソの心は、十五年前から凍りついていた。


「ごきげんよう、ロレンソ伯爵。もしお時間がおありでしたら、この後お茶でも……」


(うるさい)


「まあ、フィデル様! お会いできて嬉しいわ!」


(僕は、ちっとも嬉しくない)


「ロレンソ伯爵にはうちの娘がぴったりだと思うのだが、どうかね?」


(おまえの娘になんて、興味がない)


 誰にどんな言葉をかけられても、フィデルの凍りついた表情が揺らぐことはなかった。


 唯一フィデルに人間らしい表情をさせてくれた祖父も、二年前に没した。もうこの世に、フィデルが家族と呼べる人は誰一人として存在しない。


 十五年前、フィデルは最大の失敗を犯した。


 大好きな叔母が、護衛の騎士と仲よくしている。それを見て、嫉妬した。

 大きくなったら結婚してくれると、約束したのに。今のところどこにも嫁ぐ予定はない、好きな人はいない、と言っていたのに。


 レイチェルもフランクも、自分を騙していた。フランクはレイチェルを連れ去ってしまうのだろうし、レイチェルはフィデルの前から消えてしまうのだ。


 行かないで、僕のそばにいて、と言えばよかったのに、言えなかった。

 代わりに出てきたのは、『叔母上なんて、嫌いだ』という言葉。


 ……それが叔母にかけた最期の言葉になるなんて、思わなかった。


 魔道具の黒い世界に叔母が吸い込まれていく場面は、今でも鮮明に思い出される。子どもの頃は何度も悪夢を見ては、夜中に飛び起きていた。


 何度手を伸ばしても、叔母には届かない。精一杯の笑顔を見せた叔母はフィデルの目の前で黒い世界に吸い込まれて、消えてしまう。


 遺された帽子を、フィデルは抱きしめた。追いついてきた護衛がならず者たちを倒して縛り上げている間も、帽子を胸に抱いて泣きじゃくっていた。


 しばらくして、襲撃事件の主犯がフィデルの大叔父であるサントスだと分かった。祖父は、孫を襲い養女を奪った弟のことを許さなかったようで、国の司法にかけられた結果大叔父は死刑になったという。それを聞いても、フィデルの胸には何の感情も湧かなかった。


 レイチェルとフランクについての勘違いは、間もなく解消した。結局は、幼い自分の勝手な思い込みと嫉妬が原因だったのだ。フランクとその恋人のビビアンというメイドは真っ青な顔で謝ってきたが、フィデルは彼らを罰するつもりはなかった。


 ビビアンが、レイチェルの絵を描いてくれた。彼女は絵の才能があったようで、縦長のキャンバスに描かれた叔母の絵は本当にそっくりで、フィデルはそれをレイチェルの部屋に置かせて毎日眺めていた。


 どうしても気分が落ち着かない日は叔母の部屋に泊まらせてもらい、絵の前に布団を敷いてそこで寝た。そうするといつも、悪夢を見ずにぐっすり寝られた。きっと絵の中の叔母が守ってくれたのだろう、と思っている。


 しばらくして一人で馬に乗れるようになると、フィデルは毎日のようにあの草原に向かった。

 レイチェルが行方不明になって五年経つと死亡扱いになり、空葬いをしなければならなくなる。それまでに絶対に、叔母を見つけて連れて帰るのだと決意した。


 だが時間は虚しく過ぎ、フィデルが十五歳の春にとうとうあの事故から五年を迎え、叔母の名が刻まれた空っぽの棺を埋葬することになった。

 祖父は渋りつつも養女の埋葬を受け入れたが、フィデルは土に埋められようとする棺にしがみつき抵抗した。最終的には祖父に引き剥がされたが、その祖父の目尻にも涙が光っていた。


 その一年後、フィデルは故郷を離れて王都の騎士団に加わった。叔母の葬儀が終わったことで、フィデルの中でもいろいろと変化が起きていたのかもしれない。


 元々文武両道の天才肌だったため、フィデルは騎士団でも着々と昇進した。自分の顔かたちは優れているようで王都に来てからすさまじくモテたが、関心が湧かなかった。


 そして二十二歳のときに祖父の体調が思わしくなくなったのをきっかけに爵位を継ぎ、後に祖父は永眠した。彼は最期までフィデルのことを案じ、「幸せになりなさい」という言葉を遺した。


(……僕はもう一生、幸せなんて感じられそうにないのに)


 どんな出来事もどんな出会いも、フィデルの表情を動かすには至らない。さすがに祖父の葬儀のときには涙が出たが、教会を出るなり「このたびはご愁傷様でした。そういえば伯爵閣下も、そろそろご結婚の時期かと……」とどこぞの貴族に絡まれたときには、涙も引っ込んだ。


 祖父には悪いが、おそらくフィデルは一生幸せにはなれないだろう。


 大好きな叔母に暴言を吐いた末に、死なせてしまった。

 あの日あのとき、フィデルが勝手な行動を取らなければよかったのに。


 レイチェルを、殺したのは、自分だ。

 人殺しの自分がのうのうと幸せになるなんて、許されることではない。


 ずっと、罪を背負って生きていくべきなのだ。

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