第10話 守るために
レイチェルはフィデルの機嫌が直ることを期待したのだが、残念ながら出発の時間になってもフィデルは無口で、レイチェルの隣に馬を並べて並足で歩き始めてもなにも言わなかった。
(一度ふてたら、長引く子なのよね……)
普段が素直で感情表現もストレートな分、こじれたときには後が面倒くさくなる。子どもの頃は頬にキスをしたり一緒に寝てあげたりしたら翌日には機嫌を直したが、さすがに十歳になった今はそれくらいではなびかないだろうし、そもそも添い寝などは年齢的にアウトだ。
(でも、精神的に不安定だと乗馬中は危険だし……原因があるのならちゃんと解決しないといけないわね)
「ねえ、フィデル。コーリーと何かあったの?」
コーリーとは、先ほどの騎士の家名だ。フィデルはいつも彼のことを「フランク」と名前で呼ぶくらいだから、そもそもの仲は悪くないはずだ。
だがその名前を聞いた途端、フィデルの肩がぴくっと揺れた。
「……別に」
「何かあったでしょう? 今言いたくないのなら……分かった。次の休憩のときにもう一度聞くから――」
「叔母上、あいつと結婚するの?」
「……はい?」
思わず顔を横に向けると、フィデルもまたレイチェルの方を見ていた。並足とはいえ馬に乗っているのだから前を向きなさい、と思ったが、自分も人のことを言えない。
それよりも。
(結婚? 私とコーリーが……あっ、もしかして?)
先ほど、レイチェルはコーリーにビビアンから預かっていた菓子の袋を渡した。もしかしてフィデルはそれを見ていて、レイチェルからの贈り物だと勘違いしたのではないか。
この前レイチェルが釘を刺したのが効いたのか、フィデルは「結婚しよう」と言わなくなった。やっと分かってくれたようだとレイチェルは安心していたのだが、やはりよその男が自分の叔母からの贈り物をもらっているのを見るのは、気持ちいいものではないのだろう。
「さっき、コーリーに渡していたものを見たの? それなら、心配しないで。私と彼は、そういうのじゃないから」
「じゃあ、さっきのは何?」
「……それは」
レイチェルは言葉に迷ってしまう。
ビビアンとコーリーの交際は、レイチェル以外には知られてほしくないと言っていた。それは当然フィデルについても同じことで、おそらく一年以内にコーリーがプロポーズするだろうからそこでフィデルに教える予定なのだ。
……ここで即答できなかったのが、まずかったようだ。
フィデルはきっとレイチェルをにらむと、思いっきり手綱を引いた。
「っ……叔母上なんて、嫌いだ……!」
「えっ!? あ、こら、フィデル!」
思わず声をかけるが、フィデルに手綱を取られた馬はいななくと、レイチェルの横から飛び出してしまった。子どもの体格に合った小さな馬ではあるが、フィデルを乗せてあっという間に駆けていってしまう。
(いけない……!)
周りの護衛たちがざわめく中、レイチェルも手綱を掴んだ。
「皆、フィデルを追うわよ!」
レイチェルは護衛たちに命じて、誰よりも速く馬を駆らせた。本当に、馬術だけは得意でよかったと思う。
(何をやっているのよ、あの子……!)
被っていた帽子が脱げそうになりながらも、レイチェルは必死に馬を走らせる。
レイチェルの乗っている馬はフィデルのそれより大きいので、幸いすぐに彼の姿が見えた――が。
(襲われている!?)
フィデルの馬が、何者かに取り囲まれている。馬がいなないて大きく前脚を振り上げ――その背中から、フィデルが転がり落ちた。
「フィデル!」
レイチェルは近くまで馬を走らせて、素早く下馬した。フィデルのもとまで行きたいが、彼の周りには覆面を被ったならず者たちがいる。
「……そこをどけなさい!」
「……なんだ、この女?」
「知るか。護衛が来る前に、ぼっちゃんごと消せ!」
ならず者――おそらく全員男性――のうちの一人が、懐に手を入れた。そこから取り出されたのは、小さな腕輪のようなもの。
(何……?)
護身用に一応持っているナイフを取り出そうと腰に手をやったレイチェルだが、ぽん、と男の手から放られた腕輪がみるみるうちに巨大化していったため、息を呑んだ。
「まさか、魔法……?」
「ご名答。……これでぼっちゃんを消せって言われているもんでな」
呆然とつぶやくレイチェルに男の一人が答えるが、信じられなかった。
魔法は、太古に存在したものの今では絶滅したと言われている。
昔は多くの魔法使いたちがいて便利な道具を作っていたそうだが、自然とその数を減らした。今では稀に、魔法使いたちの作った道具が遺跡から発掘されるくらいだ……と教わったのだったと、かろうじて思い出した。
レイチェルが見ている間に、腕輪サイズだった輪は大人一人が余裕でくぐり抜けられるほどの大きさまで巨大化した。そして、最初は向こう側が見えるだけだった輪の中の景色が歪み、真っ暗な闇が浮かび上がる。
まるで、漆黒の鏡面を持つ姿見。
その表面がゆらめき、風が巻き起こる。
(吸い込まれる……!?)
「あ、やだ……叔母上……!」
辺りの草や花がちぎれて、黒い世界に吸い込まれていく。それはある意味無差別だったらしく、男たちが「おい、こんなの聞いてないぞ!」と言いながら、自分たちまで吸い込もうとする風から逃げるように走っていく。
……だがそのうちの一人が、土の上に倒れるフィデルの襟首を掴んだ――のを見た瞬間、レイチェルは走り出した。
「フィデル!」
叫んだのと、男がフィデルの体を投げたのはほぼ同時だった。
大人より軽いフィデルの体が、黒い歪みの中に吸い込まれそうになる。
だがわずかな差でレイチェルの動きの方が早く、レイチェルは力の限り甥の体を突き飛ばした。
「叔母上!?」
吸い込もうとする風の支配から
草原の向こうから、コーリーたちが走ってきている。
予想外の魔法の効果に慌てた男たちが、逃げ惑っている。
――これでいいい。もう、大丈夫だ。
コーリーたちは、間に合う。
フィデルは保護され、あの男たちは捕まえられる。
レイチェルは、フィデルの盾になることができた。
伯爵家の跡取りである彼を、守ることができた。
「フィデル、幸せに――」
黒い世界に吸い込まれる瞬間、レイチェルは微笑んだ。
せめて、彼の記憶の中の自分が笑顔であるように、と願って。
フィデルが涙でぐしゃぐしゃの顔で、こちらに手を伸ばす。
そんな甥の顔を最後まで目に焼きつけようとして――
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