第8話 今日も天使が口説いてくる
レイチェルが伯爵城に来て、八年の月日が流れた。
レイチェルは二十四歳になり、この頃になると伯爵令嬢としての振る舞いがだいぶ板についてきた。今ではメイドを連れて歩くことにも慣れたし、フィデルの縁者として
今日も、レイチェルが別邸を訪れると玄関では既にフィデルが待ち構えていた。
「叔母上!」
「おはよう、フィデル。お邪魔するわ」
日傘を畳んでメイドに渡すと、空いた手をフィデルが取った。
フィデルは、十歳になった。まだまだ成長の途中ではあるものの身長はすっかり伸びているし、将来は間違いなく絶世の美男子だろうと容易に想像できるような美少年になっていた。
(本当に、うちの甥はいくつになっても天使だわ……!)
幼児の頃はくるくるしていた金髪は癖がかなり落ち着き、無邪気に輝いていた青色の目は落ち着いた色を纏うようになっている。
二年ほど前から武術や馬術も習っているからなのか運動神経もたいしたもので、この前腕力勝負をしたらあっさり負けてしまい、レイチェルは甥の成長を喜ぶと同時にちょっぴりショックも受けていた。
「今日はお勉強の様子を見せてくれるのだったかしら?」
フィデルに手を取られて廊下を歩きながらレイチェルが問うと、隣を歩くフィデルはこちらを見上げて微笑んだ。
「うん。僕、シャムレード王国の歴代国王の名前を覚えたんだよ」
「ええっ、あの似たような名前が何十人分も続くのを!?」
「コツが分かればたいしたことなかったよ」
フィデルはなんてことなさそうに言うが、それは彼が文武両道の天才肌だからだ。
(シャムレード王の名前なんて、私だったら今の王様の名前を言えるかどうかも怪しいくらいなのに……!)
一応レイチェルも伯爵令嬢としての勉強はしてみたのだが、どうやら自分は物覚えが悪いようで、暗記系はさっぱりだった。
その代わりに、母と一緒に編み物をしたりしていたからか刺繍や裁縫、料理などは得意だし、芸術全般の才能も悪くないと言われている。
そもそもレイチェルは他の伯爵令嬢と同等の教育を受ける必要もないので、歴史や幾何学、太古に存在したという魔法関連などの一般教養は十八歳の頃には打ち切り、それ以降は芸術方面だけ教師からの指導を受けていた。今日も、午後から薬作りの講義を受ける予定だ。
(私とは対照的に、フィデルは何でもできるわね……)
ちらっと甥を見ると、彼は得意げに微笑んだ。
「なあに? もしかして叔母上、僕に見とれてた?」
「もう、からかうのはおやめなさい」
「からかってないよ。……だって僕、叔母上と結婚するんだもの」
(おっと……)
突然の結婚宣言だが、レイチェルの微笑みは崩れない。
……なぜなら、この発言はこれまでにも何度も聞いてきたからだ。
フィデルが六歳になった頃だったか。その頃レイチェルは二十歳で、冬に城に帰ってきた養父である伯爵から、「いい人はいないのか」と聞かれたことがある。
伯爵は、レイチェルに結婚は強制しないがもし好いた男性がいるのなら遠慮なく申し出てほしいと思っているようだ。妹のことがあったので、伯爵はレイチェルの恋愛や結婚に関しては何でも受け入れようと思ってくれているらしい、とメイドたちは言っている。
さすがにその頃になるとジョッシュのことも諦めがついていたし――ローラからの手紙によれば、「あのガキ、自滅して村八分状態になっています」とのことだ――そもそも結婚にはさほど関心もないので、「今は、特に結婚については考えていません」と答えた。
……だがどうやらその話をフィデルが中途半端に聞いていたようで、「およめに行っちゃうの!?」と泣きながら問い詰められた。
『大丈夫。私はフィデルを置いてお嫁に行ったりはしないわ』
彼を安心されるためでもあるし事実でもあるのでそう言うと、フィデルはほっとしたようにレイチェルに抱きついた。
『ぼく、おばうえをだれにも取られたくない……! そうだ、ぼくとけっこんしてよ! おばうえ、ぼくのおよめさんになって!』
多分、これが最初だった。
当時のレイチェルは「うちの甥が超かわいいー!」と大興奮で、「ええ、いいわよ」と答えた。それを聞いていた伯爵も、微笑ましいものを見る目でレイチェルたちのことを見守っていたものだ。
あらあらなんてかわいらしいプロポーズなのかしら、うふふおほほとレイチェルは優しい気持ちになったし、それからというものしょっちゅうフィデルがプロポーズしてきても、あらあらまたプロポーズされたわうふふおほほみたいな気持ちで受け入れていた。
……というやりとりが続いて、かれこれ四年。
未だにフィデルは、ことあるごとにレイチェルにプロポーズしていた。
(かわいいといえばかわいいのだけど、そろそろそういう冗談は控えめにしてもらわないとね)
うーん、とレイチェルは考える。
フィデルには内緒だが、レイチェルは伯爵の頼みもあってフィデルの結婚相手の見繕いを始めている。本来ならば母親がするべき役目なので、レイチェルは喜んで拝命して釣書研究をしていた。
フィデルは次期伯爵なのだから、相応の身分の令嬢を妻にするべきだ。そして貴族の子なら、十二歳くらいで婚約するのも当たり前のことだった。
(フィデルの叔母として、最高のお嫁さんを見つけなければならないのだけど……)
「……ねえ、フィデル。前から気になっていたのだけれど……そろそろそういうジョークはやめた方がいいわ」
他に注意できる者がいないのだから、とレイチェルが腹を括って切り出すと、フィデルは「何のこと?」と至極不思議そうに首をひねる。
「僕、何か変なこと言った?」
「私と結婚する、ってことよ」
「ええっ、ジョークじゃなくて本気なのに」
そう言ってぶうっと膨れるフィデルは、最高にかわいい。百点満点中、二百五十点だ。
……とはいえ、ここで流されるわけにはいかない。
「あのね、叔母と甥は結婚できないの」
「でも叔母上は実際には、僕の従叔母なんでしょ?」
もうこの年になるとフィデルも伯爵家の家系図がしっかり頭に入っているので、レイチェルとの関係も理解していた。
なお、レイチェルが伯爵の養女であると公表しないにもかかわらずフィデルがレイチェルのことを「叔母上」と呼ぶのは、血縁上の関係が従叔母になるからまあいいだろう、となったからだ。
(そりゃあまあ確かにこの国ではいとこ以上離れていると結婚できるから、従叔母との結婚もありではあるけれど……)
「でもねぇ、フィデル。あなたが成人するときには私はもう、三十歳のおばさんなのよ」
「いいじゃん、三十歳の叔母上。絶対今以上に美人だよ」
年を取ったときのことを「今以上に美人」と言えるとは、フィデルはかなりの強者だ。こんな口説き文句を、レイチェルは教えた覚えがないのだが……。
(うーん……この子、頭はいいのに頑固なのよね)
「でもほら、もしかするとこの先、私と年齢の近いいい人が現れるかもしれないし……」
「なにそれ、僕は聞いていないんだけど? そんな人いるの?」
いきなりフィデルの声色が変わって目つきが鋭くなったので、おや、とレイチェルは目を瞬かせた。
フィデルは感情表現が豊かな子に育ったが、彼がレイチェルの前で見せる顔のほとんどは喜怒哀楽の中の「喜」か「楽」だった。だから、彼がこんな険悪な表情をするのは珍しいし……この表情をすると少しだけ祖父の伯爵に似ているのだな、と思われた。
「いないわよ。ただのたとえよ」
「本当に? 僕に隠れて誰かと付き合っていたりしない?」
なぜ十歳児に、浮気調査のようなことをされなければならないのだろうか。
「していないから安心して。でも……そうねぇ。私は結婚するなら、ここぞというときにプロポーズをしてくれる人がいいわ。それから、食べ物の好き嫌いもしない……セロリも食べられる人ね」
「っ……分かった。あまり言わないようにするし、セロリも頑張って食べる……!」
ちょろい。だがちょろいところも含めて、かわいい。
レイチェルの言葉が効いたのかそれ以降の彼は余計なことを言わず勉強部屋の方に連れて行ってくれたので、ほっとした。
(……フィデルのお嫁さんはやっぱり、少し年上ではきはきした子がよさそうね。フィデルにもビシッと言える子だったら、なおよし!)
今日の勉強が終わったら、釣書の中からそういうタイプの令嬢を探してみよう、とレイチェルは決めたのだった。
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