第5話 決断のとき①
――エミリア・ロレンソは、当時のブランケル伯爵とその愛人との間に生まれた。
正妻が産んだ嫡男であるアントニオ・ロレンソとは八つ違いの彼女は、正妻からは
その理由はいろいろあるだろうが、一番の原因は夫の愛人がとても美しく、その容貌をそのまま受け継いだたいそう愛らしい少女だったからだろう、と言われている。
先代伯爵は愛人とその娘を引き取ったものの、ほとんど面倒を見なかった。そのため正妻の嫉妬を受けた愛人を守る者もおらず、愛人は娘を遺して儚くなってしまった。
その頃には、アントニオもある程度育っていた。彼は激昂する母をなだめ、異母妹に優しくしてあげた。エミリアも、正妻の目をかいくぐって会いに来てくれる異母兄のことは信頼していたようだ。
正妻は、エミリアをどこかの金持ちに嫁がせようと企んでいた。金払いのいい男に嫁がせて金をもらおうとしていたというのもあるし、憎い女の娘を懲らしめたいという気持ちもあったのだろう。
だが先代伯爵は娘の政略結婚には乗り気でなく、のらりくらりと言い訳をしていた。エミリアは伯爵城の隅にある塔で、ローラたちわずかな使用人に世話をされて過ごした。
そうしてエミリアが二十歳を越えたある日、先代伯爵が病に倒れた。そのとき間が悪く、アントニオは城を離れており――今こそがチャンスだと思った正妻が、エミリアを無理矢理嫁がせようとした。
エミリアは抵抗し、そして密かに想いあう仲だった男の手を取って塔から逃げ出し、行方をくらませた。アントニオが戻ってきたとき、もう妹の姿は城のどこにもなかったという。
アントニオは母親の行いに失望した。そして彼は病に伏せる父から爵位を受け継いでブランケル伯爵となった直後、母親を追放した。エミリアのことを抜きにしてでも既に、彼の中に母親への愛情は欠片も残っていなかった。
同時に彼は妹の行方を探らせた。そうして一年ほど経って、妹が王国の東端にある小さな村で、夫となった恋人と一緒に暮らしていることを知った。
彼は妹を守れなかったことを悔やみ、その村で夫と過ごすことが安息になるのならば、と考えた。そうして彼はエミリア付メイドだったローラを派遣して隣に住まわせることを条件に、妹の自由を許したのだった。
伯爵城の応接間に通されたレイチェルのもとにやってきたのは、五十歳手前の中年男性だった。
だが彼は大柄で年齢を感じさせないほどの威圧感を放っており、これまで一度も彼に会ったことがなかったレイチェルは、伯父の強面にびくびくしていた。
(こ、この人が、私の伯父さん……?)
ローラからは、「家族思いの方です」と聞いていたので、なんとなくほんわかとした丸い雰囲気の男性を想像していた。だから、応接間のドアが開いてこの男性が顔を覗かせるなり、震え上がってしまった。
頼りの綱のローラは、「私は同席できる身ではございませんので」と言って、壁際にいる。せめて、彼女が近くにいてくれたらよかったのに。
伯爵は今にも泣き出しそうなレイチェルを見て、厳つい顔を緩めた。
「……そなたが、レイチェルか。顔を、見せてくれまいか」
「……はい」
おびえながらレイチェルが顔を上げると、彼女の顔をじっくり見た伯爵はまなじりを緩めた。
「……エミリアに、よく似ている」
「そんなことはないかと……」
思わず素でツッコむと、壁際でローラが顔を伏せたのが見えた。あれはきっと、呆れているのだ。
だが伯爵は「いや、目元が同じだ」と懐かしそうに言った。
「……申し遅れた。ブランケル伯爵家の、アントニオ・ロレンソだ。エミリア・ロレンソの兄であるため、そなたの伯父にあたる」
「お初にお目にかかります、伯爵閣下。レイチェルでございます」
今日のためにローラから教え込まれた挨拶をしてお辞儀をすると、伯爵は満足そうに微笑んだ。
「丁寧な挨拶、ありがとう。エミリアのこと……ローラから聞いた。本当に、あの子はもうこの世にいないのだな……」
「……母は、その、幸せそうでした。確かにあっちではいろいろあったけれど、でも、お父さんや私と暮らせて幸せだったとよく言っていました」
「ああ、そのようだな。……父も母も既にここにいないのだから、エミリアを連れ戻したいと何度も思っていた。だが、あの子は村での生活を満喫していたとローラから聞いている。……これで、よかったのだと思っている」
「母も、きっとそう思っています」
ぎこちなく言ってから、レイチェルは顔を上げた。
「あのっ、伯爵閣下! 私、その、パンを焼きたいです!」
「……パン?」
「レイチェル様っ!」
いよいよローラが悲鳴を上げたが、こういうのは先手必勝だ。
「私、パンを焼くのが得意なのです! 特に、くるみパンに関しては皆を唸らせるほどおいしいと言われています! 他のパンも焼けますし、朝早起きするのも得意です! だからっ……私を、ここで雇ってください!」
レイチェルが元気よく言うが、伯爵はぽかんとしている。壁際のローラはいよいよその場に頽れており、悪いことをしてしまった気もする。
(でも、しっかり自分を売り込まないといけないものね!)
ふんす、と鼻を鳴らすレイチェルを、伯爵はきょとんと見ている。
「……その、なんだ。そなたはパン作りが好きなのか?」
「はい。もしこちらで雇っていただければ、伯爵閣下のためにおいしいパンを焼きます!」
「むっ、それは嬉しい……が、いや、待ちなさい。私は、そなたを雇うつもりはない」
まさかの、就職面接失敗である。
「あ、ええと……でしたら、庭掃除でも洗濯係でも大丈夫です!」
「いや、パン焼き職人がだめなのではなく、私は姪を使用人にするつもりはないと言っているのだ」
厳つい顔の伯爵が、明らかにうろたえている。彼もまさか、姪がパン焼き職人に志願するとは思っていなかったようだ。
「その……ローラからの便りによれば、そなたは故郷の村でいろいろあったこともあり、ここに来ることを了承してくれたのだろう」
「はい」
「確かに私は、そなたを城に呼んだ。だが、使用人にするために呼んだわけではない」
「……ではまさか、本当にせいりゃ――」
「レイチェル様」
こほん、とローラが咳払いをしたが、伯爵もだいたいのことを察してしまったようで、顔の前で手を振った。
「まさか、政略結婚などさせるわけなかろう! 妹の忘れ形見と初めて会ったその場で政略結婚を命じるほど、私は鬼畜ではない!」
「そ、そうですよね。ごめんなさい」
さすがに、早とちりしすぎたようだ。
(確かに、絵本でも魔女は子どもを太らせてから食べるものね)
「……言っておくが、教育を施してから政略結婚をさせるわけでもないからな」
この伯爵は、レイチェルの頭の中が見えているのだろうか。
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