とおとむひら

「兄貴に手を出したら許さない」

 お邪魔した相楽先輩のお宅でぼくにそう告げたのは、相楽先輩の弟の哀音さんだった。

 神童さんの視線もそうだが、ぼくと相楽先輩は単に仲が良いだけで、別にぼくは同性愛者でもない健全な男子高校生だというのに、何故そんな勘違いを受けるのだろうか。

 それも疑問だったが、それよりもかなり衝撃的な事実が哀音さんの言葉で暴露されている。

 先程も言った通り、哀音さんは相楽先輩の弟だ。……つまり、哀音さんは兄である相楽先輩に兄弟愛を越えた意味での愛を抱いているということである。

 兄弟恋愛。もう昼ドラもびっくりの話題である。もちろん、ぼくは気づいても野暮ったいことは言わない。ただ少し微笑んで、相楽先輩のことは人として尊敬しているだけだ、と伝えた。

 極めてどうでもいいことではあるが、哀音さんの好意には、ぼくではなく越えなければならない壁がある。ぼくはついぞ会ったことがないが、神童さんだ。神童さんは相楽先輩に並々ならぬ執着を示していることは、ぼくが身をもって知っている。

 ……まあ、だが所詮は他人事だ。ぼくが口を挟むようなことではない。進んで修羅場に入りたい人がどこにいるだろうか。いや、もしいるとしても、少なくともぼくは進んで入るタイプではない。そういう分は弁えているつもりだ。




 けれど、修羅場というのは恋愛の登竜門なのか、ぼくは直面することになったのだ。

 ぼくが警戒しなくちゃならなくなったのは、哀音さんだった。

 事の発端は自己紹介のときだ。哀音さんはぼくよりも二歳年下で、ぼくらは先輩にあたる。故に哀音さんは先輩に対して敬意を払おうと、春子さんを東雲さん、夏帆さんを南さん、と呼んだのだ。

 当然、二人共そういう呼ばれ方は柄じゃない、と別な呼び方にするよう哀音さんに言った。夏帆さんはそのまま夏帆さんと呼ぶことにしたらしいのだが、何を思ったのか、彼は春子さんをこう呼んだ。

「春さん、とお呼びしても?」

 そのときの虚を衝かれた春子さんの顔とその後の柔らかな笑みは瞼の裏にありありと焼き付いて離れない。……あんなに嬉しそうな春子さんを夏帆さん絡み以外で見るのは初めてだったし、哀音さんが、ぼくよりずっと早く、春子さんと距離を詰めたことにぼくは衝撃を受けざるを得なかった。

 春子さんは、結ばれないであろう夏帆さんを諦めて、男の人を選ぶんじゃないか、なんて考えて呑気でいたが、それはあながち間違いじゃないのかもしれない。

 春子さんは現代の言葉で言うとバイセクシャルなのだろう。性別関係なく、人を愛せる。それは人として、すごいことなのかもしれない。……けれど、その好意が向けられる先のことを思うと、複雑な心境になる。そこにいるのは、ぼくじゃないかもしれない。もしかしたら、一挙に距離を詰めた、哀音さんかもしれない。

 そう考えると頭が混乱して、ぼくはちゃんと表情が保てているかわからなくなった。ちゃんと、笑顔だろうか。平常心を保つのは、難しくて、ぼくは一旦みんなから離れて考えた。

 相楽先輩の部屋は哀音さんがジャングルと揶揄していた通り、緑に満ちていた。確かに、今日お邪魔した人数は入りきらないだろう。

 緑にはやっぱり癒される。少し、心の尖った部分に柔らかい布をかけることができる。

 ぼくはマイナスイオンを胸いっぱいに吸い込んで、心を落ち着けた。

 相楽先輩に微笑んで、それから集まった目的である勉強会に向かった。


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