やひら

 春は別れの季節なんて、一体誰が言ったんだか。ぼくは五年生になった朝、蕾を膨らませ始めた桜を見て思う。

 ぼくは五年生。いつぞや話した通り、今回は送る側だ。春子さんと夏帆さんを。

 春子、という名前だけで胸が痛んだ。まだ始まったばかりの春で、別れるのは次の春だ。まだ遠い。けれど一年は長いようで短い。送る側だった春子さんたちが送られる側になるくらいには。

 来年の春が巡ってきた頃に、ぼくは一体何を思って春子さんたちを見送るんだろうか、とぼうっと考えながら桜を見上げていると、

「にっしー、どうした? 浮かない顔して」

 後ろから抱きついてきた夏帆さんが、ふにふにとぼくの頬をつついた。その加減が痛いわけでもないから責められず、ただ上手く喋れないことは請け合いなので押し黙った。

 すると後ろからこつん、と音がする。痛い、と悲鳴を上げて夏帆さんが離れたことから察するに、春子さんがデコピンでもしたんだろう。春子さんは夏帆さんが他の人とくっつくのをよく思わないから。運動会の応援なんかのときに感動して隣の人に抱きついていたときは、首に腕を引っかけられて地面に引き倒されていたっけ。あれは痛そうだった。

 物理的にも心理的にも、夏帆さんが誰かとくっつくということを春子さんは好まない。きっと、その奥には幼なじみとしての友情以上の恋慕があるからだろう。よく相手を張っ倒さないと感心したものだ。まあ、春子さんに張っ倒されていたら、ぼくの命はとうの昔に尽きていたことだろう。

 好きな人の手にかかって死ぬというのもありかな、なんてメンヘラめいた思考がよぎったことがあったが、それだと春子さんを犯罪者にしてしまうから、とすぐにやめた。同時に自分の恋心にぞっとした。そんな犯罪めいたことまで考えられるほどの精神に染まってしまっていることが怖かった。

 恋は盲目、とはよく言ったものだ。これほど怖いことはない。もしかしたらこんな臆病なぼくも、春子さんへの想いがすぎると、夏帆さんを殺してしまうことだってあり得るかもしれない……そんなことにならないようにするが。

 幸いなことに、ぼくは理性が強い方だ。それだけは誰にも否定されない自慢になると思う。だからこれからもそうあり続けたいと願う。

「ぼくが五年生送る側になって、春子さんや夏帆さんは六年生送られる側になったなぁ、と思っていたんです」

「何さ、気の早い話だね。まだ一年もあるんだよ」

 お気楽な夏帆さんはそういう。

「人によっては一年『しか』ないんだよ、夏帆」

「人生は長いのに」

「一年は人生からしたら短いんだよ」

 春子さんの言う通りだ。現在の平均寿命は大体八十は超えていたと思う。これから生きる七十年からしたら、一年なんて、ありんこくらいのレベルだ。

「長い目でもって人生設計できる春子とは違うのだよ」

「得意げに言うな。刹那的にしか生きられない可哀想な種族が」

「種族ってことはアタシには仲間がいるんだね!」

「その楽天思考にもはや呆れを通り越して感嘆を覚えるよ」

 全くその通りで。どんなに時間が経ようと、この二人のこの空気感が変わることがないことにぼくは感心した。

 相変わらず、ぎっちり握られた恋人繋ぎ。いい加減、夏帆さんはこの意味を調べる気にはならないのだろうか。今日も今日とてまた、彼女は何も知らないまま、ぼくを傷つけていく。

 本当は、勝手にぼくが傷ついているだけなのだけれど。

 春子さんと出会って五年。ぼくは一体何をしただろう。春子さんを好きだと口にできたか? 春子さんに何のアプローチができた? この二人の恋人でもないくせの恋人繋ぎを引き剥がすこともできないで。

 けれど、ぼくは現実から目を逸らした。ぼくが弱くて何もできないという現実は、あまりにも今更すぎたからだ。

 次の春が来る頃まで、こうして安穏とした日常が続くのだろうな、とぼくは思っていた。

 ぼくは何も言わずに、二人の恋人繋ぎを後ろから眺めて、今年も一年、過ごすのだろう。




 そう確信すら抱いていたのに。


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