第3章 不愉快少年
無名だった篠崎を有名にしたのはあるライターの影響だった。熱狂的で、彼もまた能美静香になる可能性があった。
いや、可能性なんかじゃなく、あるいは。
2作目「蛙の捌き方」がまだ構想を練っている状態だった時、打ち合わせ終わりに篠崎と飲みに行ったことがあった。
今までも何度か飲みに行くことはあったが、その時は少し違った。
「
「……あー、同僚が教えてくれました。なんかホテルマンやってることも知ってるって。さすがに名前までは出てなかったですけど」
暖房のよく効いた店内で熱燗を煽る。喉を通る酒の感覚が面白い。
好みだとか趣味だとか、そういった方面に関しては何故か拘りの全くない篠崎にしては珍しく、酒はほとんど日本酒しか飲まなかった。
「……そろそろ2軒目行きましょうか」
ちょうど僕らの席から見えやすい位置においてあった壁掛け時計を見て、篠崎が言った。
彼が自ら2軒目に誘うなんてことはなかったからよく覚えている。どこか変だった。
いつも時計がされている左の手首には、代わりに絆創膏が貼ってあった。
次の店でも篠崎はちびちびと日本酒を飲んでいた。
「そういえば、ネットにあげてる小説。あれのリメイクとかって興味無いんですか?」
「……あれはダメだ、特に1作目は」
「処女作ですか? そりゃ篠崎くんみたいな新人からしたら2年近く前の作品は駄作に見えるでしょうけど、僕は好きですよあれ。篠崎くんの異常性が1番良く出てる」
マグロの刺身を箸でつまんで、上品に食べる。背もたれに体重を預けるとぎしりと音がした。
「……佐伯にはボロくそ言われたから」
「え?」
僕も酔っていたから、それ以降の会話はあまり覚えていない。
少し記憶が飛んで、次は道路だった。2軒目の支払いは、恐らくしてあるはずだ。
僕に掴まりながら、うわ言のように篠崎は言っていた。
「俺は罪悪感なんて少しも感じてない。俺みたいな異常者は、世界に受け入れられちゃいけない」
その時初めて、篠崎の酔い方に癖があることを知った。彼はまるで鬼のような形相でもう閉店している店を見つめていた。
酔った篠崎を連れて、彼の家の近くまで行って、水を買おうと思ってコンビニに入った。時刻は夜中の1時前。住宅街に建っていることもあって、店内に僕たち以外の客はいなかったと思う。
「え、篠崎さん⁉」
女性店員が声を上げた。彼のことを知っているようだった。もしかしたらそれが中本だったかもしれなかったし、違うかもしれなかった。
「あれ、お知り合いですか。ちょうど良かった。篠崎くんのことよく知ってる人の連絡先とか知らないですか? 恋人とか」
何を思ったのか、面倒だったんだろうか、僕はそんなことをその店員に聞いた。
「いや……、すみません。わからないです。でも恋人はいないと思います。半年くらい前に、突然いなくなったって」
半年前、篠崎が僕のところに原稿を持ってきた頃。いや、それより後か。しかし人の時間感覚なんてのは適当なもので、それを推し量るのは難しかった。
「あの、うち分からない感じですか……? わたし知ってるので、ま、任せてもらっても……」
項垂れている篠崎は寝てはいなかった。
なんと表現しようか。彼の目は、危なかった。何を思っているのか、想像することすら気が引けるような。
それはあのよく分からない言葉を吐いたとき確信に変わった。
「いえ、すみません。仕事中ですし……。行ったことは無いですけど、家も知っているので」
「あ、はい……。分かりました」
篠崎の家は一人暮らしにしては広かった。恋人は半年以上前からいないと言っていたが、他の誰かの生活用品がいくつか見えて、とても一人暮らしとは思えなかった。
伏せられた写真に写っていたのは前の恋人だった。優しそうで柔らかい笑顔の男。篠崎に、少しだけ、似ている気がした。
前の恋人の遺物があったから、多分その時はまだ、篠崎は佐伯というライターとは交際関係になかったんだろうと思う。
篠崎が3作目「不愉快少年」を発表して数日が経った頃だった。日付は、2020年の8月2日。
どうにも日差しが眩しく前を見るのが嫌で、しかし前日の夜に少し降った雨で地面が濡れていて、下を向いていても反射光が目を焼いた。
会社の入り口の前に、女が立っていた。女が待っていたのは僕だった。
「不愉快少年」に対する世間の反応は上々だった。天才の新作。だがもう、だいぶ前からあのライターはいなかった。
2作目発表の前だったか、後だったか。記憶が曖昧だからとりあえず前ということにしておこう。
ただ新しいものが好きなだけで、大衆に認められ始めたものには興味が無いだけかとも思った。ふと気になって調べて、殺されていたと知ったのは少しあとで、直前まで篠崎とそういう関係にあったと知ったのはもっと後だった。
少なくともその時点では、犯人は見つかっていなかった。
僕はその時、犯人は能美静香なんじゃないかと思った。根拠はなかった。
けれど、出版社まで来て僕の出社を待つほどの狂った信者なら、同担拒否とか言うやつだろうか、そういうことをしてもおかしくないなと思ったのだ。
それどころか、僕は篠崎の作品は能美静香の物語なんじゃないかと思った。形は変われど、篠崎の作品では必ず人を殺すことを示唆した何かがテーマになっていた。
だから、あの時あんなことを言ったのはただの妄言だと思った。作品と事実とが入り交じって頭がおかしくなったんだと。
いや、元からおかしかった。そうじゃなきゃあんな作品は書けなかったから。
篠崎は恋多き男だった。それは別に、二股をしたりだとか、付き合ってもいないのにセックスを繰り返したりだとかではなく、分かりやすく言えば中学生みたいなやつだった。
僕が知っている限りではいちばん長くて8ヶ月。他は7ヶ月と半年。
半年のやつが僕のところに小説を持ち込む直前まで付き合っていたあの写真の男。7ヶ月が2作目を書き上げる前まで付き合っていたあの佐伯とかいうライター。
そして8ヶ月は難産だった3作目を書き上げる前まで付き合っていた子だ。この子ばかりは僕も会ったことがあった。
ふと、何かおかしい気がした。今まで、篠崎は恋愛をすると作品が書けなくなるのかと思っていた。
3作目が難産だったのは能美静香のせいだと思っていたと言ったが、それは恋愛関係のこじれだと思っていたからだ。
ひとつ、違和感。
もし、妄言などではなかったら。あの目から見えた何かが、本物だとしたら。
篠崎が自殺未遂をした。僕の前で。
能美静香が死んだ。いや、殺された。
篠崎の左腕には、やはり腕時計なんて、もうされてなかった。
「篠崎くんってやっぱり、大学生の頃とか遊びまくってたんです?」
「なんですか、突然」
2017年の11月。彼のデビュー作「この物語は」を出版に向けて準備していたころ。
僕はこういう真面目そうで、かつおかしな中身をしている人間、その中でも特に狂った恋愛観を持っている人がどんな経験をしてきたのか気になった。
彼がネットにあげていた2作の長編小説、それから短編のいくつかももちろん全て読んだ。
創作において恋愛は使いやすい。音楽界を見ればそれは誰にでもすぐわかることだろう。実際、僕も今こうして恋愛を主軸にして物語を書いている。
それにしても篠崎の書く小説の中での恋愛は、ただの道具のようには思えなかった。
「いや? 特に深い意味は無いですけど。ほら、篠崎くんイケメンですし」
「褒めてます? それ」
「いやー」
「いやーってなんですかほんとに」
篠崎が笑う。僕はそこでやっぱり失礼だったなと少し反省した。
「別に遊んでないですよ。モテないですし」
「さすがに嘘でしょう」
「違いますって」
「……やっぱ東大ってそんなお堅い感じなんですか」
「どんなイメージですか。まあでもそういう意味でだらしない人は少なかったかもしれないですね。僕の周りだけかもしれないですけど」
「へえ。じゃあ合コンとかは」
「……僕は誘われたことないです。1年ちょっと前、同僚に誘われて初めて行ったくらいで」
「僕はますます分からなくなるなぁ、君のことが」
「……そうですか」
篠崎は笑いながら言った。その笑いに、なにか意味がある気がした。
「にしても遅いですね」
左腕にしていた時計に視線を落とす。時刻は13時を少し回っていた。
僕は部屋の隅にかけてあった時計を見て「そうですね」と返した。
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