第2章 蛙の捌き方
2018年12月17日。朝10時18分。
篠崎龍也は速筆だった。だからいつも締め切り前には必ず送ってくれていたし、締め切りをすぎて僕が催促するなんてことは絶対になかった。
締め切りをすぎていないのに、僕が進捗を問うメールを何通か送ったのはそれが理由だった。
――――――
[件名] 新作長編小説の締め切りについて
篠崎タツヤ様
お世話になっております。辻田です。
本日締め切りですが進捗はいかがでしょうか。
先生はいつも早めに出してくださりますし、余裕を持ったスケジューリングをしておりますので、もし難しいようであれば締切日を遅らせることも可能です。
ご連絡のほどよろしくお願いいたします。
○○社 辻田歩武
――――――
結局、それから7時間程が経って、僕の勤務時間が過ぎても返信はなかった。
編集部は大して騒ぐこともなかった。作家にはよくある事だからと言って笑っていた。
それが僕には異様だった。彼には本業があった。彼は変な男だったし、天才だったし、キチガイと紙一重だと言われても仕方なかった。
しかし彼はそれ以上に真面目だった。酷く理性的で、人間よりも律儀だった。
これはきっと、ずっと近くにいた僕にしか分からなかった。
18時02分。僕は少しだけ希望を抱きながらオフィスで彼の連絡を待つために残業をして、それから上司に怒られ会社を出た。
いつもなら真っ直ぐに恋人のいるマンションに帰るはずだった。
『ごめん、担当してる作家が連絡取れなくて、家まで行ってみるから帰るの遅れる』
あとで見た彼女からの返信は好意的なものだった。けれどそれを確認する余裕もないほど、僕は焦っていた。
本社ビルのある護国寺駅から地下鉄に乗って、1回乗り換え。33分後。18時35分。
日本一の混雑率と言われる東西線は、その日は何故かあまり混んでいなかった。
冬の夜は寒かった。地面はところどころ凍っていて、先週降った雪がまだ少し残っていた。
転ばないように踏みしめながら歩いて、隣で小さい子供が走って転びそうになり母親に叱られていた。
マンションまでの坂道を登りながら、僕は少しばかり後悔する。窓から盛れる明かりが綺麗だった。子供の声。笑って、叱る声。カレーの匂いはどの部屋からしていたのだろうか。そんなことを考えて、また笑い声。
幸せそうだった。家で僕を待つ彼女のことを考えた。
それから、どうせ篠崎くんも恋人と楽しく日常を過ごしているんだろうと思った。幸せに埋もれてたまたま忘れただけだろうと。
また同時に、そうじゃなかったら、と怖くなった。
僕の予想は悪い方に当たった。部屋を訪れてインターホンを押しても反応はなかった。外から見ても真っ暗だった。
何故か、どうしてだろう。考えても思い浮かばなかったから、突然と書いてみる。突然、ここにはいないと分かった。
だが近くにいるとも分かった。
辺りを走り回って、体感で10分ほどが経った。公園のベンチで、ぽつりと立つ街灯の明かりに照らされて、篠崎は小さくうずくまっていた。
「……篠崎くん」
呼吸を整えながら声をかけた。
「探しましたよ」
寝ている訳では無かった。目は空いていたから。だが、虚空を見つめていて、どこかおかしかった。
「寒いでしょう。帰りましょう」
「……蛙だ」
ぼそりと、夜の静寂にすらかき消されてしまいそうな小さな声。
「見たんだ。蛙が」
「原稿のことなら後で聞きます。とりあえず部屋に戻りましょう」
「違う、違う。蛙が僕を。蛙が、僕を……、見たんだ」
吐き気がする。僕は。どうして。
「篠崎くん。大丈夫ですか?」
彼は震えていた。
「違う、僕じゃない。いや、僕だ。僕だ」
辻田さんが隣にいた。分からない。ただ寒い事だけが頭の中にある。
「篠崎くん! しっかりしてください!」
ふっと何かが切れたように項垂れた。瞬間、ばっと顔を上げて―――
もう忘れてしまっていた。
後付けで理由をつけた方が物語として良いのかもしれない。けれどそこは大事な気がして、嘘をついてしまえば彼の話だという唯一のノンフィクションが崩れてしまう気がしたから、忘れたとそのまま書くことにする。
篠崎は赤く染った両の手を眼前に掲げてみて、自分の抱いた感情に恐怖した。しかし冷静でもあった。
彼は特に状況の把握やら様々な要素が掛け合うことの並行思考が得意だったらしい。
血はなかなか落ちなかった。バレていないという確信があったから、時間をかけることができた。
死体の処理はしなかった。トラウマが邪魔をして、見ることすらままならなかったから。
吐き気と頭痛に襲われながらなんとか指紋を拭き取り、髪の毛や皮脂が落ちていそうだったからそれも処理をした。
同棲していたのだから、多少は残っていないと不自然だった。
それから適当に部屋を荒らして、死亡推定時刻がずれて検出されるようにして、何事も無かったかのように部屋を出た。
6月だと言うのに外は暑かった。片手には部屋に置いていた金目のものを数個、それから処理に使ったものと、現金。ゴミ袋は重かった。
ゴミ袋は焼却場に直接持って行って燃やしてもらい、近所のコンビニに行ってうす塩味のポテチとマスカット味のゼリーを買った。篠崎は自分のその選択が少しおかしくて、漏れそうになる笑いを堪えた。
「何かいいことでもあったんですか?」
商品のバーコードを探しながら、
「いや、…………まぁ、あったのかな」
「ふーん、変な人。あ、分かった。彼女さんのことでしょ」
いたずらっぽく笑って篠崎を指さす。後ろでひとつに縛っている明るい茶色の髪の毛が揺れる。
「そうかな。そうかもしれないね」
笑顔が少し崩れた気がした。
「何それ! やな感じっ」
「なんだよ」
小さく笑いながら言う。篠崎は気が付いていた、中本の好意に。
これからのことを思うと、このままずっと話していられればいいのにと思った。
それから、ふと思った。
いま突然殴ったら、どんな反応するんだろう。
全身に寒気が走った。
鳥肌が立つような感覚がして、首を絞められたように苦しくなった。
何かとてつもなく重いものが上からのしかかっているようだった。
汗がとめどなく流れる。
「どうしたの?」
俯けた顔を中本が覗き込んでくる。
殺してしまう。
そう思った。
蒸し暑さは竹藪の中に似ていた。息ができなかった。自分は確かに自分なのに、今までの自分とは別人のようで。
何かが違う。でも、そうだ。篠崎は自分の手の赤く染まるのが、落とし忘れた血なのか、それとも自分を流れる血なのか分からなかった。
自分じゃないと思いたかった。
そうだ、蛙。
蛙だ。
蛙が。
蛙を。
幸いにも支払いは終えていて、篠崎は商品をひったくるように受け取って走った。
逃げる場所などないというのに。家にはまだ蛙がいると言うのに。
家に着いて、また蛙を見る頃には少し落ち着いていた。
あの時、蛙の捌き方を知った小説を思い出した。子供の頃好きだった本。
蛙の捌き方を、書かなくてはいけないと、篠崎は思った。
篠崎が語ったのはそれぞれのほんの断片にすぎなかった。
彼が恋人を殺したあと、どうやって現在の警察を欺くような術を思いついたのか、どうやってそれを成し遂げたのか、そもそもそれは事実なのか、中本は誰なのか。竹藪で解剖したのは本当に蛙なのか。
全て僕の妄想だ。
事実をベースにして、意味が通じるようにそれらしく繋ぎ合わせただけに過ぎない。
話にもならない話をして、篠崎は寝てしまった。
僕と会う前、彼はかなり酒を飲んでいた。彼は酒には強い方だったが、上限がグラデーションではなく突然来るタイプだった。
10分ほど寝かせて叩き起こし、無責任だと言われるかもしれないが僕はタクシーを呼んで自宅に送り返した。彼は繰り返し「追加したいことができたんだ」と呟いていた。
いま思うと、あの惨劇がこの時起きていたかもしれなかった。いや、僕が知らないだけで、もしかしたら起きていたのかもしれない。どちらにせよ、知っていれば、1人で帰すなんてことはしなかっただろう。
4か月が経ち、結局、「蛙の捌き方」は売れに売れた。その年の小説大賞を受賞して、発行部数は50万部を突破した。
篠崎タツヤは瞬く間に時の人となり、天才ともてはやされた。思えば、「
現れた、というか、僕が認知し始めたのはそれくらいだった。たぶん、存在自体は、「蛙の捌き方」が発売される1年ほども前からあった。
「蛙の捌き方」が2018年の大賞を受賞して、2年が経った。篠崎は3作目の長編小説を書いた。
難産だった。僕はそれがてっきり、彼女のせいだと思っていた。能美静香のせいだと。
能美静香は死んだ。突然だった。
世界が同情した。篠崎は、有名になりすぎたのだ。
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