第1章 この物語は
今、世界は均衡点へ向かおうとしている。全てが等しく、平等で、均されている。もし何も知らない宇宙人がこの世界を見れば、多様に満ちているのかもしれない。しかしそれは表面的で、少し降り立ってみれば分かる。異様だ。
今、世界は過ちを繰り返そうとしている。
今、世界はあるべき姿にあらず。
なんて書き始めてみたが、こう仰々しくても何が言いたいのかよく分からない。
とりあえず、君たちに知っておいてほしいのは、この物語がフィクションでありつつ実在するものことをベースにしていること、主人公である
篠崎龍也は変な男だった。彼はこだわりが強かった。1つのことに対して異常なまでに執着していた。
そしてその執着は、例えば学問だとか、そういった世の為人の為になることへ向くことは無かった。
彼の人生を否定するつもりはない。だが彼はやはりどこか変だった。
それに……、彼を誰かに紹介するなら、まず僕はこう切り出すだろう。
「これだけは断言できる。篠崎龍也は変人だったが、間違いなく、天才だった」
今から数年前の6月。日付は覚えていない、というかそもそも6月かどうかも忘れてしまった。多分6月。
一応決めておこう。6月12日午後2時過ぎ。東京都中野区、駅から歩いて7分ぐらい、坂の上にある白いマンションの、8階。
袖丈の覚束無いこの季節に、外の音が邪魔だと言って窓を閉め、エアコンも扇風機も付けず、部屋の中は映画だけが流れていた。
映画のタイトルは「凡人」。それだけはしっかりと覚えている。
発見された頃には映画は終わっていた。2人がけの大きめの赤いソファ。遠目に見れば光沢のある綺麗なソファだった。
まあ、赤いものが少し違う赤に染まっても、人間の目にはなかなか見抜けない。
そして、鉄筋コンクリートの高級マンションで窓を閉め、昼間から多少大きな声を出しても、周りの住人たちは意外と気が付かないか、それが非日常だとは思わない。
小説家、篠崎タツヤがネット上に処女作を投稿する1か月前のことだった。
彼の処女作は、恋人を失い自暴自棄になった男の話だった。
さて、早速だが1年ほど時間を飛ばそう。僕が篠崎と会った時の話だ。
もちろん今から飛ばす1年の間にも書きたいことはたくさん起こった。
だけどとりあえず、まず先にこっちを書かせて欲しい。
彼が僕の前に現れたのは、よく覚えている、7月22日、夏休みの初めだった。
「おまたせしてすみません。どうも、担当の辻田です」
よれたTシャツに、恐らくファッションのそれではないであろうダメージの入ったジーパン。髪は寝癖こそ直されていたものの、特にセットされていることも無く気遣いは見られなかった。
ただひとつ、僕が入った個室にいた男はその見た目に反して、偉く人間味がなかった。いや、言い方が悪かった。機械的と言ってしまえば悪く聞こえるが、なんというか、要は礼儀正しすぎたのだ。
普通、ここに来るものはみな緊張で礼儀なんてものはちぐはぐになる。
しかしこの男は違った。僕が入室した瞬間、彼は直ぐに椅子から立ち上がり一礼した。見惚れてしまうほどに美しい礼だった。
むしろ自分がもてなされるのではないかと思ってしまうほどに。
「はじめまして、篠崎龍也です。本日はお時間いただきありがとうございます」
度肝を抜かれた。
一瞬、僕は固まった。
彼の動きが予想外すぎて。
それでも彼は訝しげな眼差しを僕に向けることすらなく、ただハキハキとした聞き取りやすく心地の良い声で一言、「いかがなさいましたか」と言った。
「いえすみません。なんでもないですよ。……えっ、と…………、おかけください」
これは今から、と言っても僕が今語っている場面を今とした場合で、数週間後に知ることなのだが彼はどうやらホテルマンを本業としていたらしかった。
言われてみれば確かに納得できるし、仕事のできる人間なのだろうとそう思えるのだが、しかしそれを知らない今はやはり、ただ少し機械的で感情が読み取りづらく、酷くこの場に似つかない人間だと私は感じた。
余計な事を言わず寡黙で、礼儀正しく、プログラム通りに動く。
彼の第一印象はそんな感じだった。
もしここが深夜のバーだったら、僕の彼を見る目はかなり違っただろう。
だが残念ながらここは東京のビルの数十階にあるオフィス、時間帯は昼間だ。しかも場が場であるが故に、僕は自分が持った彼への第一印象に少し失望した。
またつまらないことの繰り返しだと、そう思った。今思えばそう思ってしまう自分が情けなく、まだまだ人を見る目がないと痛感する。
「……じゃあ早速ですが、読ませてもらおうかな」
「はい、お願い致します」
数十分後。こういう書き方は嫌いなんだが、最も簡潔で読者諸君にも伝わりやすいから仕方がない。
とにかく場所も人物も変わらない、ただ時間が少し経っただけである。
その期間に何があったかはもちろん諸君らに想像で補ってもらうことになる。書かなくてもいい。むしろ書いた方が蛇足ということだ。
僕は言葉を失っていた。この言葉がまさにこの時のためにあるのではないかと思えるほどに。
感動したから、とか言う薄っぺらい理由ではない。
これまで数え切れないほどの小説を読み、様々な作品に触れてきた僕がぽっと出のアマチュア作家の作品にそこまで感銘を受けることは無い。
そうではない。
彼の作品は、とにかくおかしかった。
奇妙だった。
奇っ怪で、普通の人ならまず「なんだこれ」という感想が出てくるようで、気味が悪かった。だから、頭に浮かんだものをすぐ感想として、批評として口から出すのに苦労した。
そういう意味で、僕は言葉を失ったのだ。
真っ白なテーブルに、手書きの小説が書かれた原稿用紙の束を静かに置いた。テーブルに置いた小説と目の前の彼、つまりその小説の著者を交互に見る。
ふと思い立ったように時計を確認した。
この時の時間を、何故か僕は鮮明に覚えている。14時23分。全ての感覚が研ぎ澄まされているような気がした。壁際で唸っているエアコンから送られてくる風に肌を撫でられるのがくすぐったかった。
ひとつ長めのため息をつく。彼の目が、少し曇った気がした。
「……ひとつ、確認したいことがあるんですけど」
「はい、なんでしょうか」
「…………これ、フィクション、ですよね……?」
何度も思考を重ねた上で、出てきた言葉はまずそれだった。この質問の後、彼がどんな返事をして、そしてその日どうやって1日が終わったのかを、僕は嘘のように覚えていない。
彼の小説の中身はぜひ、この小説を読了した後にご自分で手に取って読んで欲しい。君の精神状態が、過去をふりかえっても最も安定していると言えるのであれば。
さて、何となくではあるが僕がどういう人間なのか、分かってくれたであろうか。僕の名前は
彼は傍から見れば何を考えているのか分からないような人間だった。それは第一印象だけでは終わらなかった。そしてもちろん、彼が小学校にすら入学していないような幼いころからそうだった。
彼の実家の裏には、小さな竹藪があった。誰が管理をしているのか、何のためにあるのか。その竹藪の正体は誰も知らなかった。全く、誰も知らなかったのだ。
その竹藪を囲むように家を構えている者たちも、ただ彼の実家とその隣に建つ家の狭い狭い隙間から出入りができるという事実以外は何も知らなかった。
家に挟まれて影になっている薄暗い通路は、当時幼稚園児だった彼がすっぽり入って隙間がないくらいには狭かった。
大人が入ろうとすれば、そこは横向きになってカニ歩きをしなければ入れないほどだった。
あるとき、彼が大人になってから実家へ帰省した時、竹藪はすでになかったという。周りの家々も何軒かなくなっていて、そこには全く別の建物が建っていた。
話は変わるが、人間が最も恐れるものは何か、知っているだろうか。
災害か、戦争か、それとも全く手を付けていない案件の来週に迫った納期か。
もちろんそれは人によって異なる答えが出るだろう。しかし、人類史単位でみれば人間が最も恐れるものとはただ一つ、未知である。
知らない、故に恐ろしい。
だから人は神を作り出した。人間の頭で到底理解ができない、恐ろしい事象を神のせいにした。
神だけではない。天使、悪魔、未確認生物、妖怪、魔法。人々は未知を娯楽に変えたのである。
ただ、未知を恐れる人間の中でそれをただそのまま純粋に娯楽として受け止めることができる種類の人間がいる。
子供である。人間が地球に君臨しているのは好奇心のおかげであることは誰もが知っている事実だとは思うが、子供はその好奇心に加え恐れを知らない。知らないものが自分にどういった脅威を与えるのかを知らないからだ。
篠崎も、まさにその子供の普通と同じであった。好奇心が強く、そして恐れを知らない彼は、次々と自分の知らない世界を求めた。
動機が好奇心だけであったのかと聞かれれば、その答えはこの物語を読んでいくにつれて何となく理解できていくであろう。
多分、罪悪感はあった。無かったらきっとあんな暗くてジメジメしていて、不気味なところを選んでそれをするなんてことはなかっただろう。それか、罪悪感ではなく、ただ単に見られたらダメな気がするという子供のちょっとした勘かもしれなかった。
生い茂る竹藪の中で、1箇所だけ光の差し込む場所があった。篠崎はそこにしゃがみこんでいた。
一筋の太陽光を頼りにして、彼は手元を照らしていた。
彼はまた知を得た。決して図鑑に乗った写真やイラストで満足する質ではなかった。それよりも深く考察したいと、自分の目で直接見てみたいと思うのは彼に限ったことでは無いだろう。
百聞は一見に如かず。まさにこの言葉の通りである。
自分の目で直接見て、手で触れて、耳で聞き、口で感じることが彼の中であまりにも重要だった。
光の差し込む先に手を伸ばした。あまり心地のいい感触はしない。人差し指に少しだけそれをつけて、そのまま口に運んだ。
「おえ、気持ち悪っ……」
地面に吐き出されたそれは、まだ少しだけ動いていた。
大人になった彼が、一緒に焼肉を食べに行った時、こんなことを言っていた。
「モツ食べられないんですよね、僕。子どもの頃のトラウマで」
その時は特に踏み入ることもしなかった。幼いころ、大人たちに無理に食べさせられたとか、そうでなくても内臓系はかなり好みが別れる。
この竹藪での出来事が事実であるかは正直言ってどうでもいい。実際、僕は別に幼いころから彼を知っていたわけではないし、この話を彼から聞いたわけでもなく、そして、彼の実家の近くに竹藪があったかどうかも知らない。
そろそろ、君たちもこの彼の、そしてこの小説の異常性を感じ始めてきたのではないだろうか。
僕は多分、彼のことを世界でいちばんよく知っている。それは数年間に渡って友人として、仕事仲間として、常に共に居たからだ。
しかし1つ、中でも特に彼を知る機会になったことがある。
2018年12月17日。篠崎の長編小説2作目「蛙の捌き方」、その締切日だった。
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