俺が傘を貸した子、名を霞沢さん。

 さて、昨日と同じ澄まし顔で颯爽さっそうと傘を貸そうとした俺だったのだが、結果から言うと、物凄い勢いで拒否られた。

 昨日成功したんだしゆーていけるっしょ、と甘く考えていたので、俺はかなり恥ずかしくなった。穴に埋まりたくなった。

 骨がポッキリ折れるんじゃないかと心配になるほどの勢いで首を振りながら、その子がキッパリ(キッパリでは無い)とこう言った。


「だ、だだ、だっ、だいじょ、大丈夫、で、ですっ……!き、昨日っ、か、借りた、ばか、りなのにっ、ま、また、そ、そんな、め、迷惑……っ!か、かけらっ、かけられな、です……っ!」


 まあ、確かにな。俺はその言葉に素直に納得した。確かに俺が同じ立場だったとしたら、同じようなことを言っていたに違いない。

 同じ学校に通っているだけの友人でも無ければ知り合いですら無い他人に、二日連続でなおかつ同じ内容で助けて貰うというのは、あまりにも忍びないことだ。

 それは超分かる。激しく同意する。


 だがしかし俺の立場としては、今日傘を貸さずにこの子にびしょびしょに濡れて帰られでもしたら昨日傘を貸した意味が全く無くなってしまうので、それだけは避けておきたい。

 でないと俺が全身びしょ濡れになった意味が、母さんに「あらあらそうくんったら、こんなに制服濡らしちゃってもう……こ〜らっ☆」と額を小突かれ叱られた意味が、柚月に「兄貴。さっき変なもの見せられた詫びとして、これ一つ貰うから」と夕飯のエビフライを取られた意味がまるで無くなってしまう。

 あと、この下半身を満遍なく包む冷たさも無駄になる気がする。ビビリ損の漏らし損になる気がする。いや、断じて漏らしてはないが。


 だからさかしい俺はこう考えた。

 ここはまた押し切るべきだ、と。


「ままっ、いーからいーから──」

 

 昨日のように強引に傘を手渡して、そして同じく強引に話の舵を切っていく。

 真反対に、ヨーソロー。


「──俺、壮介そうすけ草壁くさかべ壮介」


 少年漫画や特撮の主人公しか言わなさそうな言い回しで、相手の言葉を遮るように、俺は唐突にそう名乗った。

 これはこっちが名前を名乗れば、向こうも名前を名乗ってくれるという確信があったからだ。初対面の人物との話を変える方法としては、これが一番手っ取り早い手法に違いない。


「へ、ぁ、わ……わた、わたしは、か、かっ、かすっ、かすみ、かすみざ、わ、し、しお、り、霞沢かすみざわしおり、ですっ……」


 へえ、霞沢さんって言うのか。結構珍しい苗字だと思うんだが……うん、やっぱりてんで聞き覚えが無いな。初めから分かってはいたけど、やはり同じクラスでは無さそうだ。


「そういや霞沢さんって何組の人なの?あ、 俺は二組ね」


 とりあえずこのままの方向性で、俺は話を広げていく。傘から意識が逸れるまでは、こうやって他の話題で気を引いておかないと。


「わ、わたしは、ご、ごきゅみっ、ですっ……」


 へえ、五組なのか。へえ、そうなんだ。へえ、なるほどね。へえ。

 うん、ゴメン、それ以上のリアクションが出来ない。大体その辺だろうなとは思ってた。階段とトイレを中央に挟んだ廊下の向こう側にある三クラス四組・五組・六組のうちのどれかだとは思ってた。


 ……さぁて、どうするか?もう話題が尽きちまったぞ。あと五秒もしないうちに、霞沢さんが俺に傘を返そうとしてくる未来が見える。てか、もう返してきてる。考えてる暇は無い。


「あっ、あの、こ、これ……っ」


 霞沢さんが差し出してきた傘には目もくれずに、俺は遥か遠くの山々の方を眺めた。

 そして、達観した顔でぽつり、

 

「なあ霞沢さん、考える人って知ってる?ロダンの彫刻の」


 俺のいきなりの質問に、霞沢さんは大きなクエスチョンマークを浮かべた。


「……え、あ、はっ、はいっ……し、知っては、い、いま、す…………?」


 何が言いたいんだろうと言わんばかりの鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、霞沢さんが小首をこてんと傾げる。

 俺は遠くの山々を見つめたまま、我関せずと言葉を続ける。


「あれって実は考える人なんかじゃなくて、考えてない人らしいな。実際んとこは見てる人らしいぜ」

「……へ、そ、そう、なん、で、す……ね……?」


 霞沢さんの首の角度が更に深まる。しかめっ面をしていないのが不思議なぐらいの、大層な困惑ぶりだ。

 きっと心の中では『急に何を言ってるんだコイツは?頭がおかしいのか?』みたいな感じで、俺のことをメタクソになじっているに違いない。

 なんせ他でも無い俺自身がそう思ってるんだからな。マジで何を言ってんだコイツ、頭おかしいのか?

 

 てか、ヤ、ヤバいぞ。我ながらこの話の着地点が全く見えてこない。滑走路が濃霧で覆われている。どうあがいても墜落しそうだ。同じ学校の親切な男子からただの頭のおかしい不審者に成り下がりそうだ。


 それからは必然と言うべきか、長い長い無言タイムが訪れる。

 そのかん、山をずっと眺めたままの俺と、傘を差し出したままの霞沢さん。

 幸い通行人はいなかったが、さぞやシュールな光景だったことだろうぜ。


 途中、

 カーカーとカラスが鳴いた。

 ワンワンと俺の心が泣いた。

 

 段々と無言に耐えられなくなってきて、遅刻こそ無いだろうが余裕も無い時間になってきた辺りで、俺はこの静寂に終止符を打つことを決めた。

 雄大にそびえ並ぶ山々から霞沢さんへと視線を戻す。

 そして、ふっ……と自嘲気味に息を吐いたら、この静寂を切り裂く言葉を放つ。


「──つまり、そゆこと」


 ──つまり、どゆこと?

 あの、さっきから本当に何を言ってるんだコイツは?決して俺は、じゃない。コイツは、だ。こんなイかれた野郎が俺であってたまるかよ。ブッ飛ばすぞ。


「………な、ななっ、なる、なるほどっ、で、でです……っ!」


 ゴメン、言った側の俺が言うのもなんなんですけど、どこにも納得する要素なんてないと思うよ?むしろその優しさが俺の心をキツく締め上げてくるから、勘弁してくださいマジで。

 猛烈に死にたくなりながらも、俺はポケットからスマホを取り出した。めっちゃ濡れてた。もはや水没してるといった方が正しいかもしれない。え、壊れてないよな?

 

 電源ボタンを押して──ホッと一安心。しっかりスリープモードだった。防水機能最高!

 時間の確認をしつつ、袖で濡れた画面を拭う。


 現在の時刻は、八時十二分。朝のHRホームルームは三十五分からなので、タイムリミットまではあと二十三分だ。

 ここから学校までは二十分以内で辿り着ける距離ではあるが、そう余裕をかましてもいられないな。たった一つのイレギュラーで遅刻しかねない。

 

「うお、もうこんな時間か。行こう、霞沢さん。ちょっと急いだ方が良さそうだぜ」


 この余裕のない残り時間、別れて各個で学校へ向かうのは得策では無いと考えて、俺は霞沢さんにそう声をかけた。

 すると弾かれたように、霞沢さんが首と両手をブンブンと振り回し始める。


「だ、だだ、だいじょ、大丈夫で、です……っ!め、めめっ、めっ、滅相も、な、ないです……っ!わ、わたし、ひ、ひとっ、一人で、い、行けますから……っ!」


 あ、そうですよね、すいません、調子乗ってました、許してください。普通に考えたらほぼ初対面の男がいきなり一緒に登校しようなんて言ってきたら、そら気持ち悪いですよね。客観的に考えても、主観的に考えても。

 自らの軽率な考えを反省して謝ろうとしたら、先手を打つように霞沢さんが、蚊でさえ出せなさそうなか細く弱々しい声で、無理に繕ったような不自然な笑みを浮かべながら、


「ず、ずっと、ひ、一人で、か、通え、てる、ので、ぜ、ぜん、全然っ……!わ、わわ、たし、なんかの、こと、な、なんて、なにもっ、き、気にされ、なくて、だ、だいっじょ、で、ですから……っ!えへ、えへへ……ほ、ほん、本当に、だ、だいじょ、です、から……」


 おい、ちょっと待ってくれ。勘弁してくれやしませんか?もう俺泣きそうだよ。こんな悲しいものを見せられるぐらいなら、そこは俺への嫌悪感からであって欲しかったよ。いっそ気持ち悪いって突き放して欲しかったよ。

 なんかもう直視できない。アニメやドラマでいじめのシーンを見ている時のような感覚に襲われる。共感性羞恥とは違うけど、でもそれに似た別の何かに襲われる。


 霞沢さんがふと俯いた。


「……そ、それに、わ、わたし、なんかと、い、一緒にいる、と、ところ、見られたら、くくっ、さか、くん、に、め、迷惑、たくさん、かっ、かけます……っ」

「え、いや、なんでさ?」


 頭で考えるよりも先に、俺の口からはそんな言葉が出てきていた。

 霞沢さんの言葉の意味が、まるで分からない。


「……わっ、わたし、昔から、ずっと、く、暗くてっ、だから、と、友達、ひと、一人も、でっ、出来た、こと、なくて……」


 …………………えーっと、だからなんなんだ?それがどうして俺への迷惑に繋がるんだ?全然分からん。ウミガメのスープとかああいう秩序が無いの苦手なんだよ、俺って。

 まあ確かにお世辞にも明るいとは言えないけど、幽霊かと本気で思いかけてた時もあったけど、一回でも面と向かって話してみさえすれば、それがむしろ霞沢さんの魅力なんだって誰でもすぐに分かると思うけどな。

 別にこのままでも些細なキッカケ一つで、万事どうにでもなると思うが……。

 

 そういうことを直接伝えたいが、しかし伝えていいのか悩む。昨今の社会情勢を踏まえると、これも何らかのハラスメントに該当しかねない。

 些細な発言にも細心の注意を払うことこそが、現代イマを生きる者の必須スキルなのだ。

  

「みっ、見ての通り、さ、冴えない、ので、それ、も、あっ、あたり、まえ、で、です、よね……え、へへ、へ……っ…………」


 霞沢さんの聞くも痛ましい掠れた笑い声、それがやがて途絶えると、またもや辺りを静寂が包み込む。

 今回の静寂の間、俺はさっきのように山々を眺めることはなく、代わりに頭の中の記憶のアルバムを眺めていた。

 開いたページは、つい十数分前の記憶。前髪の奥に隠されていた瞳がちらりと覗いた、ほんの一瞬だけ垣間見えた、霞沢さんの顔の全貌。


 うん。やっぱ、


「──可愛かったけどなぁ」

 

 ………………あれ?いま俺とんでもねーことをしみじみと口走らなかったか?


 思い浮かんだことをそのまま呟いていたことに気付いた瞬間、ぞわりと全身が一気に冷え込み、汗がダラダラと全身から湧き出てくる。

 おい馬鹿、完全にセクシュアルハラスメントだったろ、今の。


 束の間、


「……はぅあ……っっ?!?!」


 声になっていない声が聞こえてきた。

 その声の方に目を向けてみると、霞沢さんが茹で上がったタコのように真っ赤になっているのが見えた。今の失言を完璧に聞かれてしまっていたみたいで、全く目を合わせてくれない。……いや、それは最初からか。


 俺はやれやれと天を仰いだ。


 ……………………おいどうすんだ?この空気。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る