見知らぬ女子に傘を貸した翌日の登校。

 翌日の天気は昨日とは打って変わって、雲一つ無い爽やかな青空だった──なんてそうそう上手くはいかず、雨こそ降ってはいないもののあいにくの曇天模様だった。

 昨日と変わらず水浸しのままのアスファルト。あちこちにある大きな水溜りを避けながら、見慣れた道を辿っていく。


 残念なことに、今日も雨が降る可能性が結構あるらしい。

 だからそんな俺の片手には透明なビニール傘。鞄に収納可能な折りたたみ傘は昨日貸した(あげた)ばかりなので無い。つくづく不便だ。


 にしても、あの子はあの後大丈夫だったんだろうか?無事に帰れたんだろうか?

 どう見ても幸運の星の下には生まれてなさそうなタイプだったので、いやに心配になってくる。


 てかそもそもの話にはなるが、あの子が本当にマジで幽霊じゃなかったのかすらも、まだ良く分かってないんだよな。

 傘をしっかり持てていたとはいえ、やっぱり一度も学校で見かけたことが無いってところがネックだ。普通に考えて、んなことあっかぁ……?

 いやまあ俺が覚えてないだけってのは、分かってっけどさ。一年全員の顔を覚えてるっつーわけでもあるまいし。


 それでもな、実はあの子は何十年前も前にうちの高校に通っていた女子生徒で、昨日のような大雨の日に不慮の事故で亡くなってしまい、そのせいでこの世に深い未練を残したため成仏することも出来ず、自分が死んでしまった日と同じような大雨の日に、自分と同じ学校に通う生徒の前に化けて出るようになった──の方が断然しっくりくるんだよな。

 むしろ昨日のシチュエーションとしたら、こっちのが100点満点なんじゃないか?

 それこそホラー映画の導入部分として、昨日のイベントは本当に完璧な出来だった。


 そう考えたら、もしかしたら俺は既に呪われてるのかも分からんな。

 学校の下駄箱、もしくは机の上、それか俺の部屋にでも、ぐしょ濡れになった折りたたみ傘が置いてあったら…………その時はもう終わりだ。

 テレビの中から昨日のあの子が這い出てきて、もしくは変な着信音と共に死の予告でもされて、更にもしくはアイスホッケーのマスクを被り血のついたナタ(チェーンソーと勘違いされがち)を持ったあの子が俺の元へとやって来て、俺は人知れず凄惨に殺されてしまうに違いない。

 

 ああ、なんて恐ろしや……くわばらくわばら……。


 そんなありもしない妄想をしたせいか、ぶるりと体が震えた。頬を冷たいものが伝い、足取りが自然と早くなる。

 俺は無心で学校を目指して、脇目も振らずに歩き続けた。


 ふと気付けば、昨日あの子が立っていた店の前にまで俺は差し掛かっていた。

 昨日と変わらずその店のシャッターは閉まったままで、その軒先には────誰も立ってはいない。

 しかし俺は一段とスピードを上げて、その店の前を素早く通り過ぎていく。


 …………………………


 店の前を通り過ぎた。しかし、特に何も起きなかった。異常は一つも無い。

 拍子抜けしたってわけでは無いが、ついつい後ろを振り返る。

 まあ、当然そこには誰もいない。昨日のあの子の姿は微塵も無い。


 俺はホッと胸を撫で下ろし──そしてすかさず首を振った。


 ったく……馬鹿馬鹿しい。幽霊なんているわけないだろうが。

 この科学全盛の時代に、非科学オカルトなんて存在してたまるかよ。リアルワールドじゃ科学と魔術は交差しないんだよ。あったり前の常識だ。

 ま、そんなのは最初から分かってたけどな?ただちょっと演出、的な?ここは怯えといた方が見栄えが良いかなって思ってさ。

 いや本当に全くもって、それだけなんだが?それ以外にむしろ無いんだが?


 俺は前に向き直り、一歩足を踏み出そうとして──


「ぅわっぴょいっ!?」


 ──勢い良く真後ろに転げ落ちた。盛大に尻餅をつくと同時に、バシャンッ!とド派手な水しぶきが上がる。

 巨大な水溜りの中に腰を下ろしてしまったけども、ズボンが昨日に負けず劣らずぐしょぐしょになってしまったけども、そんな細かいことを気にしている余裕は無い。


 バクバクとはち切れんばかりに騒いでいる俺の心臓、危うくショック死するところだった。ほぼ三途さんずの手前だった。確実に川岸には立ってた。

 鞄と傘を投げ出さなかったのは奇跡だ。不幸中の幸いだった。良くやった、俺。


 さて、俺がどうしてこんなに驚いたのか、そんなのは言うまでも無いだろう。言うまでもあるとしたら、そいつには想像力ってもんがまるで無い。もっと小説とか読んだ方がいいぞ。

 俺の身に起きたのは単純なことだ。何気なく前へと向き直ったら、いつの間にかそこに人が立っていた。全く気配すら感じなかったので、完全に寝耳に水だった(多分誤用)。


 そして今も俺の目の前にはその誰かが立っている。いや、誰かなんかじゃない。

 それは紛れもなく──


「……あ、あ、あのっ……だ、だだ、だいじょ、大丈夫、で、ですかっ……?」


 ──俺が昨日傘を貸した、あの女の子だった。

 素っ頓狂な声を上げながら、情けなく水溜りにケツダイブした俺なんかを、その子は今心の底から心配してくれているのだ。


 なんてこった、俺はこんな心の優しい子を筋骨隆々のクレイジー殺人鬼と同じカテゴリーに入れていたのか……。最低すぎんだろ……。

 あの、マジでごめんなさい。ほんと、そんなつもりじゃなかったんです。信じてください。


 あ、それとなんだが、今は下から見上げているアングルなので、分厚い前髪の奥に隠されていた瞳がちらりと一瞬見えたんだけども、普通に可愛かった、普通に。

 ごく一般的な学校のクラスなら、三本の指には入るんじゃないか?


 俺はすぐさま立ち上がると、なんてことないさと首を振った。


「ああ、全然大丈夫。ちょっとズボンが濡れたってだけで、どこも痛いところなんてないし」


 全然ちょっとじゃないけどな。パンツまで絶賛浸水中だけどな。


「……そ、それなら、よ、よっ、よかった……で、です……っ……」


 俯いているので表情こそ見えないが、ふぅと胸を撫で下ろしているので、その子が心の底から安心しているってことは容易に分かる。

 なんだろ、なんか泣きそうだ……。昔は柚月もこれぐらい、いやこれ以上に良い子だったんだけどなぁ……泣けるぜ……。


 遠い目で悲しき物思いに耽っていると、その女の子が何かを俺の方に差し出してきた。それは黒い棒状の物体だった。

 つまり、折りたたみ傘だった。


 不意に、そして意を決したように、その子がぱっと顔を上げたかと思うと、


「き、ききっ、昨日は、あ、あり、ありがとうごじゃいましたぁ……っ……!!」


 ばっ!と腰の角度がほぼ水平になるまで、深々と頭を下げてくる。惚れ惚れするほど見事な礼だった。大和魂ヤマトダマシイここにあり、って感じだ。アッパレ。

 よし、ひとまず噛んだことには触れないでおこう。久しぶりに大声を出したのか声がとっても裏返っていたんだけども、そのことにも触れないでおこう。耳まで真っ赤になってるし。武士の情けだ。

 ぷるぷると震えているその子の手から、俺は出来るだけ優しく傘を受け取る。そしたら、軽く頭も下げる。


「いえいえこちらこそ」


 すっかりパターン化された定番のやり取りではあるが、よくよく考えたら一体何がこちらこそなんだ?不自然なもみあげぐらい謎だ。あれ自然じゃない感じでお願いしますって言ったら、どんな仕上がりになるんだ?永遠の謎だ。


「これが役に立ったんなら良かったよ。昨日の雨マジで凄かったもんな」


 なんせ未明まで本当に降り続けてたからなー。勢い自体は徐々に弱まっていったとはいえども、あのまま雨宿りを続けていたとして、ほとんど意味は無かったろう。

 だから、傘を貸したこと自体は大正解だった。昨日の俺良くやった。善行を積んだな。天国にまた一歩近付いたぞ。


「は、ははいっ、す、すすっ、すごっ、かったで、です……っ!」


 こくこくと食い気味に大袈裟に頷いて、その子は必死に俺の言葉に同意を示してくれるが、何というか、言わせてる感が否めない。

 そんな気は若干大分してたけど、もしかしなくともこの子はコミュニケーションが不得意なタイプなのかもしれない。

 だとすると、なんだか申し訳がないな。苦手なことを無理強いするのは本意じゃないし、ここはとっとと切り上げよう。


「今日も雨が降るかもしれないらしいし、充分気を付けて。じゃ、また」


 片手を上げて別れの挨拶。まあ、またの機会なんてもう無いんだが。

 そして、俺はまた一人通学路を辿り始める。一歩二歩と進んだ辺りで、ふと頭をよぎる老婆心ろうばしん

 一応最後にこれだけ聞いとくか。

 

 振り向きざまに俺は尋ねる。


「──あ、そうだ、今日はちゃんと傘持ってきたよな?」


 と。

 一応な、一応。昨日の今日で流石には無いだろうけど、なーんかこの子の場合は心配になるんだよな。これが父性ってもんですか?違うか。


「え……あ……は、はっ、はい……っ!」


 良かった。ちゃんと持ってきてるみたいだ。

 そこはかとなく自信を覗かせながら、その子が鞄をガサゴソと漁り始める。おお頼もしい。


「……ちゃ、ちゃんと……も、持って、き、きまっ……」


 うんうん、それなら良かった、本当に良かった。

 てか、そりゃそうだよな。昨日途方に暮れたばかりだろうし、そんなすぐに忘れるわけないもんな。喉元過ぎてないもんな。まだまだ熱いもんな。


「……え……も、持って……ちゃんと、か、傘……っ……」


 おいどうした?そんな鞄の奥まで覗き込んで。うちの指定鞄ってそんなに奥行き無いから、そこまでマジマジ見なくたって大丈夫だと思うぜ?

 てか、なんか焦り始めてるようにも見えっけど、ま、まさかな……?いやいや、流石にそんなはずぁ…………。


「も、持って……き……な、なな、なんで……ど、どうし……っ……?!」


 …………あ、忘れてんな、これ。

 長い前髪で依然として目元は見えないが、今にも泣きそうになっているのは分かる。不安定に震え細った声が、何よりもそれを物語っている。

 なんか見てる俺まで泣きそうになってきた。リアルのドジっ子いたたまれねぇ……。


 流石に可哀想で見ていられなくなったので、俺はさっき返して貰ったばかりの折りたたみ傘をすっとその子に差し出した。


「もし傘が無くて困ってるんなら、これでも使ってくれ」


 昨日の巻き戻しのように、一字一句違わずに、同じ言葉を添えて。

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