第37話 cachette

cachetteは、その名の通り、少し郊外にある隠れ家のようなフランス菓子のお店だった。

偶然見つけて、あまりの美味しさに時間をかけて全商品を食べた。

そして、食べ終わってから、ケーキフェスタの出展依頼をお願いした。

オーナーの金城さんは乗り気ではなかったものの、スタッフの女性が、ずっとわたしがお店に通っていたことを伝えてくれて、何度も話し合いの後、契約に至った。

後で聞いたら、お店に通ううちに仲良くなったスタッフの女性が、金城さんの娘さんだったらしく、説得に一役買ってくれたということだった。




「ご無沙汰しています」

「ああ……」

「ご挨拶もできないまま異動になってしまって、申し訳ありませんでした」

「うん」


金城さんは、真正面に座っているわたしと、目も合わそうとしてくれない。


「今、IKEDAの販売にいて、お休みは火水だから、こちらのお店のお休みと被ってしまっていて、顔も出せずに申し訳ありません。お店が掲載されている雑誌は全部目を通しています。アレルギーを持つお子さんのために、別工房も立ち上げられる予定だとか。お忙しいのにご無理を申し上げていることは承知しております」


金城さんが初めてこちらを見てくれた。


「そうなの?」


その質問の意図が分からなくて、金城さんの顔をまじまじと見つめ返してしまった。


「来ることができなかっただけ?」

「金城さん、メールをされないと伺っていたから、ご挨拶が手紙だけになってしまって――」

「受け取ってないよ」

「え?」


思わず隣にいる優次を見た。


「申し訳ありません。小鳥遊の急な異動でバタバタしていまして、渡し忘れていました」


この人は……


「何だ。そうか。契約したらそれでお終いって思われてたのかと思ってた」

「違います! そんなこと絶対にありません!」

「そうだよね。小鳥遊さんはそんな人じゃない。今、どこにいるの?」

「IKEDAの地下食品売り場にいます」


聞かれるがまま、わたしの近況報告をすると、金城さんは随分驚いた顔をした。

ケーキの話になって、新作のこだわりを一通り聞いたところで、本題に話を戻した。


「それで、出展の件はいかがでしょうか?」

「今忙しくて、数は出せないけど、それでもいい?」

「もちろんです!」

「じゃあ、契約書の方は娘にまわしといて」

「ありがとうございます!」


思っていたよりすんなりと話がまとまった後、優次はすぐに帰りたそうだったけれど、せっかくお店に来れたのだからと思って、ケーキを買わせてもらうことにした。


ショーウィンドウの中のケーキをいくつか選びながら、ひとつのケーキに目がとまった。

でもそれをスルーして会計をしようとしたところを、金城さんに声をかけられた。


「この新作、食べたいんじゃないの?」

「はい。でも、あとひとつしか残ってないから」

「他の人のために買うの我慢するの? 小鳥遊さんらしいね。これはサービスでプレゼントするよ」

「いえ! ダメですそんなの! 大切に作られたものなんだから。でも、最後のひとつを買わせていただいていいですか?」

「もちろん」

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