朝陽と夕陽

 まるで水底から浮上するようにまぶたを開く。


 世界は輝きに包まれていた。どうやらしばらく意識が飛んでいたらしく、窓からはピカピカの朝陽がさしこんでいる。洗いたてみたいに純真な光が部屋中を、そしてボードに貼られたふたりの写真を華々しく照らしている。小鳥のさえずりが聞こえる。


 記憶が残響するみたいに、思い出していた『物語』の続きが頭の中を巡った。


『そんな絶望の日々の最中に、私を見つけた。きっと私も、なにかに酷く傷つけられていた。たすけを、求めていた。あなたは正義の味方だから、私を放っておくことはできなくて。そして私も、あなたの手を握った』


『あなたは私の救世主で。私はあなたの、立ち上がる動機になった。その出会いはきっと世界を救うのと同義だから。だれもあなたを責められない』


『そして私も、共犯者だ』


 ふふっと笑みが漏れる。この世の終わりみたいな空間であなたと出会ったこと。『物語』では互いに手を差しのべたように語ったけれど、すべてを思い出してみれば私が一方的にあなたを丸めこんでいた。


 弱ったあなたの傷につけこんでしまった。でも救いたいという気持ちに嘘偽りはなかった。現に私は『過去』の私の言う通り、あなたを幸せにしたいと願った。


 あなたは『幸せに耐えきれない』と言って死んだ。世界への裏切り。なるほど、こんな人殺しの化け物を街中でかくまっていれば心身もすり減るだろう。その裏側で人々を守るため命をかけているのだから後悔もひとしおだ。


 けれど、と私は思う。あなたを死地に追いやった罪悪感の真実。


 きっと、それは、幸せになれなかった誰かがいたから。


 幸せにできなかった誰かがいるから。


「ちょっと、妬けちゃうな」


 どうりで辛くても話してくれなかったわけだ。すべてをさらけ出すためには、過去に愛した女性との関係と、私が化け物だという事実を突きつけなくてはならない。たくさんの思い出を重ねてしまった後では、もう切り出すことも出来なかったんだと思う。


 もちろん、これらはすべて想像だ。あなたがなにを思い、なにを抱えて化け物たちと末路を共にしたのか、それがわかる日はもう来ない。


 ただ、ひとつだけ確かなことがある。


 結末は悲しいものなってしまったけれど。


 それが引き金となってしまったけれど。


 私はあなたに、幸せだと感じてもらうことができた。


『過去』の私があなたと交わした契約。すくなくとも果たすことはできたのだろう。ただそれだけが、今の私に縋ることのできる希望だった。


「さて、と」


 さいごにやるべきことが、残っていた。

 

 私は窓際へと歩きレースのカーテンと窓をあける。暖房のきいた部屋に痛みすら感じるような凍てつく空気が流れ込む。澄み切った真冬の早朝の大気。街路樹のあいまで輝く海がいつもより鮮明にみえる気がした。


 大きく、深呼吸をする。


 身に着けていたパジャマワンピースを頭から脱いだ。うえの下着はつけていないから冷気が素肌に突き刺さる。ゆいいつ残った下の布地も、しゅるりと紐をほどいて取り去ってしまう。一糸まとわぬ私の全身が、朝陽をうけて黄金色に染まっている。


「私はあなたの、夕陽だから」


 約束をした。ずっと一緒だと。


 今、あなたはどこにいるのだろう。


 その肉体は炎に呑まれて消え去ってしまったのか。あるいはあの地獄のような空間に取り残されたままなのか。


 なんにせよ、答えは海にあるはずだった。


 あなたとふたりで訪れた、あの海に。


 かけがえのない時間は、もう戻らない。


 あなたは死んでしまった。罪の意識に耐えきれなくて。


 私は知ってしまった。自分が何者であるかを。


 夢が、さめようとしていた。


 化け物と正義の味方の、奇妙な共同生活は終わりを告げた。


 私は自分の両手をみおろした。あなたと手をつないで、感触をたしかめて、繋がった。その両手が、その表皮が、


 剥落していく。


 まるで紙片が燃えていくように、私の皮膚が剥がれ、断片が灰のように舞い上がる。金箔みたいにきらきら輝きながら、私の一部だったものが大気に溶けだしていく。


 剥がれ落ちたその下に、海色。


 私はそっと、変わり果てた自分の右手を朝陽にかざした。


 かたちはそのままに、透き通る。南国の海みたいに鮮やかなコバルトブルー。それが水中みたいに揺らいで、さしこんだ朝陽が屈折して幾何学模様に反射する。 


 剥落が、全身を覆う。腕から体へ、頭へ、脚へ。剥がれ、透ける。


 部屋のなかを振り返る。私のからだを通った朝陽が部屋中に拡散して、まるで海のなかにいるみたいに、光がおどっている。黄金色の粒子が冷え切った空気のなかを滞留している。


 私はそっと、消えたままのテレビを覗きこむ。顔の凹凸はなくなり、磨き上げられたオパールみたいにつるりとしている。真っ黒だった髪はおおまかな数十本の束に凝縮し、ふわふわと漂うさまはクラゲの触腕のようだ。体のサイズや形は人間のまま。


 なるほど、化け物と呼ばれるのも納得だった。それはそれとして美しい姿だとも思う。自画自賛。


 私は自分の足元をみた。そこには変わらず黒いベルトの足枷がある。これはあなたが私を守るためにつけてくれたものだった。けれど思えば別の捉え方ができるかもしれない。


 化け物の私が、外に出ないように。人々を、傷つけないように。


 そう考えて、私は首をふった。


 足枷のはまった右足をあげる。ぎゅっと爪先に力をいれると、足首からさきがまるで液体みたいに形を失う。


 いともたやすく、足枷が外れる。じゃらり、鎖の落ちる音。


 力をぬけば足の形状はすぐに元通りだ。


 あなたが私たちの性質を知らないわけがない。だからこの足枷はきっと、あなたにとっての願掛けみたいなものだったんだと思う。すこしでも長く、ふたりの時間が続きますように。そんな願いがこめられていたら嬉しいな、と思う。


 私はゆっくりと慎重に、窓枠に両足をかける。せなかに意識を集中すると、肩甲骨のあたりがちりちりと熱くなって、からだが拡張されていく感覚がある。


 やがて私の背中には、大きな羽が生えそろう。まるで妖精みたいな、あるいは巨大な葉っぱみたいな、透きとおった羽だった。


 部屋のなかに視線をめぐらせる。思い返せば、ふたりで過ごした時間はそこまで長くはなかった。およそ半年と、数週間にいちど程度の帰宅。それでも私の世界を構成するのはあなたの存在だから、この部屋にはたくさんの思い出が詰まっている。


 思い出す。

 

『物語』の続き。


『どうしようもなく理不尽な戦いのなかで、あなたは消耗していって、もしかしたら、命を落とすかもしれない。ある日とつぜん、この部屋に、帰ってこなくなるかもしれない』


 たんっ、と私は窓枠を蹴った。


 羽を躍動させる。空力学的には解説不可能な出力で私のからだは上昇する。明け方の冷気を全身で切り裂いていく。


 風切り音のなかに、がしゃん、という何かが倒れる音を聞いた。


 振り返れば遠ざかっていくアパートのまえの道で、自転車を倒したナナちゃんがぽかんと口を開けてこちらを見上げていた。そうか、彼女にもあなたが世界を守っていることを教えてしまったっけ。


 もう目も口もないから、私は心のなかで笑う。ナナちゃん、あなたの友達は、幽霊じゃないけど、変人で、それでいて化け物だったらしいよ。


 どうだろう。


 あなたの世界は変わっただろうか。


 たった一人の大切な友達に、私は胸のうちで『アデュー』と言った。


 高度が上がる。しだいに豆粒のようになっていく街並みが、あたらしい朝の光に包まれている。


 雲とならぶほどの高さで、私は静止した。


 ただ、風の音。


 青。


 澄み渡った空の青。


 眼下には永遠に思えるほど巨大な海が広がり、朝陽を受けて海面がきらきらと輝いている。


 たとえ人類が救われても、世界は何事もないように朝を迎えて、そこにあなたの姿はない。私にはそれが、ひどく薄情に思えた。すべてが終わってしまった者にとって、朝という時間帯はあまりにも残酷だ。


 だから幼き日のあなたは、夕暮れを眺め続けた。


 終わりゆくものに寄り添う、あの橙色の光を。


『わすれないで。私はあなたの味方だから。あなたがもう立ち上がれなくて、とても深い、深い、真っ黒な場所に落ちていくなら』


 私は向かう。


 あなたの元へと。


 だって約束したから。


 ずっと一緒にいるって。あなたをひとりにしないって。


 あなたを、愛してあげるって。

 

 夕刻、夕暮れ、夕焼け、夕景。


 私はあなたの夕日だから。


 あなたがもう戻れなくなった、そのときは、


 私がいっしょに、沈んであげる。

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あなたが命を燃やすたび、世界はちょっとだけ平和になる 岩瀬ひとなつ @hitouatsu

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