君のこと
なにも見えなかった。
ただ押しつぶされるような圧迫感と、粘着質などろどろとした液体が全身を覆っている感覚があった。鉄錆のようなひどく不快な臭いが鼻腔を充満していた。
それらから逃れたくて身をよじっても、体に力が入らない。
いや、そもそも力を入れるってなんだっけ?
私の体のかたちって、どんなのだっけ?
私は、だれ?
なにもわからずじっとしていると、どこからか音が……いや、声が聞こえてきた。かなり距離はあるようだったけれど、風向きが味方したのか、その内容ははっきりと聞き取れた。
「あの、山田さん、大丈夫ですか?」
「……何が?」
「いえ、その、今回の大規模襲撃は、犠牲者が多かったですし、それに、高梨が……あんな……」
「……べつに、今に始まったことじゃないだろう。やつらが押し寄せて、仲間が死ぬ。佐野も、横田先輩も、春日井も死んだ。明日は俺かもしれない。今日は高梨だった。それだけだ」
「でもっ……彼女は、あなたのこと」
「こんな状況じゃ色恋も何もありゃしない。俺たちが気を緩めれば地球が滅ぶ。種の存続のために戦ってるんだ、これはもう生殖行動に他ならない。わざわざ疲れた体で女を抱くなんて非効率的な」
「……山田さん、そこまでです。それ以上高梨の尊厳を踏みにじるようなら、僕だって怒ります」
「……悪い」
「……昔のあなたなら、こんな誰かの気持ちを蔑ろにするよなこと、言わなかった」
「変わるなという方が難しいさ。お前だって初めは『擬態型』の残党処理をあんな嫌がってたのに、今じゃ雑談の片手間で殺してる。俺もお前も、じわじわと心が腐ってるんだよ」
「僕のは順応ですよ。いくら人の形を真似ようと、こいつらは化物です」
タァン、と乾いた音。
ぐしゃり、と柔らかい何かが倒れる音。
「そういえば、何日か前に出た研究班の報告、聞きました?」
「どれだ。多すぎて分からん」
「『擬態型』についてのやつです。みんなが大騒ぎしてた」
「あぁ、眉間からまっすぐ貫くとってやつか」
「それです。他の生物に擬態したこいつらの、脳のある部分をピンポイントにぶち抜くと、化物時代の記憶が消し飛んで、擬態先の生物のように振る舞うようになる」
「らしいな。悪趣味なことに」
「こいつらの容姿って、どういう原理かはわからないですけど、地球人類の中から無作為に抽出されてるじゃないですか。そして今回の報告によると、脳をぶち抜いたあとの人格にも、それが反映されてる。エピソード記憶こそないらしいですけど、使う言語や知識、そして性格。それらはすべて僕らの世界の誰かそのものです」
タァン。
ぐしゃり。
「で、僕らは擬態した全裸の大群を機銃掃射で一掃したあと、取りこぼしをチマチマ殺して回ってるわけじゃないですか。まるで日課みたいに。そこでふと思ったんです。もし目の前に、幸か不幸か眉間だけをきれいに打ち抜かれた個体がいて、そいつが命乞いでも始めたら、僕は殺せるのだろうかと」
「……いや、殺せよ」
「えぇ、殺しますよ。でも、かわいそうだとは思う。だって意識は罪のない僕らの同族そのものですからね。もしかしたらこいつが、そうかもしれない」
タァン。
ぐしゃり。
「……なんで今その話すんの?」
「嫌がらせですよ。変わってしまった恩人への」
「……昔はかわいい後輩だったのになぁ」
タァン。
ぐしゃり。
すこしずつ、自分の輪郭がわかってくる。
ごぷごぷと音を立てながら、腕が、生える。
ぐっと、体にのしかかっているものを押すと、それは湿った音を立てながら私の上からどいた。
光が、目に突き刺さった。反射的に閉じたまぶたを少しずつ開くと、厚い雲の垂れこめた空が視界を埋め尽くした。
ぷるぷると震える腕で体を起こした。
そしてまず、目に写ったもの。さっきまで私の上に乗っていたもの。
灰色の土のうえに、男の人が倒れている。その人は裸で全身に無数の穴が……おそらく銃創が開いている。
溢れ出す血流と、開き切った唇と、すでに光を失った、虚ろな目。
あたりを見回してみた。その光景を認識した脳が『地獄』という言葉を連想した。けれど私の情動は何ひとつ動かなかった。
それが『一般的』には恐ろしい光景なのはわかっていた。けれど心が麻痺したみたいに何も感じなかったのだ。
「まだ残ってたか」
「あちゃあ、すっかり再生してますね」
すぐ背後から声が聞こえた。さっきの会話の主たちだった。遮るものがなくなって声が明瞭になった。
私は、振り返った。
地の果てまで続くような肌色の塊たちと、そこから流れる赤色の、大地。
それらを乗り越えながら毅然と歩むふたりは、空に溶け込むみたいに頭からつま先まで灰色。私のなかの情報では軍服のような装備を身にまとっていた。フードで頭を覆い真っ黒なガスマスクで顔を隠している。
背中には大きな背嚢と、
両手で抱えるように、黒光りする長身な銃を携えて。
歩を進めていた二人は、私の視界に入った途端ぴたりと歩みを止めた。
私はぱちぱちと瞬きをした。事情はよくわからないが、自分はここで死ぬのだろうと思った。
ややして、先頭を歩いていた男性が言った。
「こいつは、俺がやるよ」
そして数歩ほど歩み寄り、私が彼の頭を見上げるような距離になる。
彼は銃口をこちらに向けた。ねらいは私の左の乳房にぴたりと定められていた。
静かにその瞬間を待った。
一秒、二秒、三、四、五、六……。
「山田さん?」と後ろの男性が言った。
「……なんだ?」
「撃たないんですか?」
「……」
「そいつが、おそらくはベースが日本人で、ちょっと高梨に似てるから」
「違う」
沈黙が流れた。
震える銃身がカタカタと音を立てた。
「お前、先に拠点まで戻ってろ」
「は? 何言ってるんですか。単身行動なんて許されませんよ。ましてやこんな、明らかに平静じゃない人を置いて……」
「頼むから!」と銃を突きつけた男性が絞り出すように言った。
「ちょっとだけで良いんだ。ひとりに、してくれないか」
後ろの男性は数秒ほど沈黙したあと、吐き捨てるように、
「やっぱり、あいつのこと引きずってるんじゃないですか」
と言うやいなや、足早にもう一人の男性の隣に並び立ち銃を構え、
引き金を、ひいた。
タンッ、タンッ。
痛みは、なかった。
私は自分の体を見下ろした。胸部に外傷はなかった。ただ、いわゆる女の子座りをした両脚の膝あたりから赤黒い液体が流れだしていた。
「なんで襲ってこないのかはわかりませんが、おそらくまだ脳の再生が終わってないんでしょう。加えて今ので、十分くらいは時間が稼げたはずです」
「……あぁ」
「僕は拠点に戻ります。いまさら山田さんが手負いに後れを取るとは思いませんが、しばらくして追い付いてくる気配がなければ、引き返します。それまでに、済ませてください」
「すまない……いや、ありがとう」
私を撃った男性が背を向けて去っていく。
残った男性は銃口を向けたまま固まっていた。
私はただ彼の様子を見守った。
わずかに震える銃身。上空を真っ白に染める積層雲と、その下を流動する灰色の浮雲。それらだけがこの視界のなかで動く全てだった。
やがて男性はゆっくりと銃を下ろした。片手でグリップを握ったまま、脱力したようにだらりと両腕を垂らす。
途方に暮れるように空を見あげ、独り言のようにこぼした。
「俺は、何をしてるんだろうな」
それから私に視線を落として言った。
「おい化物、巻きこんで悪かった。でも元はと言えばお前らが喧嘩を売ってきたんだ、恨むなよ。それと、まぁ、これも何かの縁だ、憂さ晴らしに付き合ってもらう。俺はどうにも、ひどく弱っているらしい」
「……とは言っても、なにをどうすりゃいいんだ。せっかくだから、自分の人生でも振り返ってみるか」
「平凡な港町の片隅で生まれた。兄弟はいない。父親もいない。母親は、いてもいなくても変わらないような奴だった。栄養が足りないから、体も小さくて、よくいじめられた。……いや、この話はやめよう。俺もお前も得をしない」
「……」
「俺は、なんでこんなに苦しいんだ?」
「誰かに愛される仕事がしたかった。貴重な少年時代にクソッタレみたいな生き方をして、それでも自分を変えたいと思った。みんなに認められたかった。俺の生まれてきたことに意味はあるんだって思いたかった」
「はじめは良かった。仲間が出来て、人々には感謝されて。そりゃたまには後ろ指さしてくるやつもいたし、訓練はきつかったけど、耐えられた。人生が好転している気がした」
「お前らが、やってきた」
「すべてが激変した。場所も、人も、装備も、組織も。ただ戦う理由だけは変わらなかった。誰かを守るためだ。人々が平和に暮らすためだ。その気持ちに嘘偽りはなかった」
「……甘かった。お前らは文明も持たない蛮族のくせに数とバラエティだけは豊富にありやがる。現代兵装で簡単に殺せるのが不幸中の幸いだ。でも明確な指揮体制と対策が確立するまでは地獄だった」
「みんな、死んだ。為すすべもなく、死んだ。何人かは俺の指示に従って死んだ。今思い返しても間違いのない指示だった。それでも死んだ。俺が殺した」
「俺は何をしてるんだろうと思った。逃げ出したいと思った。けれどダメだった。みんな同じことを考えていたからだ。『まさか逃げたりしないよな?』。そんな声がそこら中から聞こえてくるようだった。拠点は洋上にあって、こっそり夜逃げなんてことも出来ない。恐怖と、疑心と、閉鎖空間。俺の精神状態は限界に近かった」
「そんな最中、ひとりの隊員がやけに絡んでくるようになった。おなじ基地出身の女性隊員だった」
「もともと仲は良かった。とはいっても多少会話がある程度の、どこの組織にもある普通の上下関係だ。出身が近かったから、よく地元の話をした。おなじ町の話をしているはずなのに、彼女の住んでいたそこは青春の舞台として最適な美しい場所のように映った。俺がこの世界への悪態を滔々と流し続けた海で、彼女は毎年家族や友人と海水浴を楽しんでいた」
「お前らとの戦いが始まって、しばらくしたころから、拠点で飯を食っていると彼女が隣に座るようになった。もともと国籍人種の入り混じる場所だったから、必然と同郷の人間で固まる傾向はあった。でもそのころの俺はどうにも一人になりたくて、自由時間や食堂では日本の仲間たちから距離を置いていた」
「なのに彼女は、後をついてきた。もっと仲の良い同年代のやつらもいたのに、なぜかずっと俺の横にいた」
「なぜ、とは聞かなかった。俺が孤独を望んだように、みんな少なからず頭の配線がおかしくなり始めていた。四六時中誰かに喧嘩ふっかけてるやつとか、小便器の前で一時間立ちっぱなしのやつとか。だから彼女の行動を理解するだけ無駄だと思った。よく笑うやつで、表面上は元気そうにみえたから、俺も会話に付き合った」
「お前らの襲撃タイミングが予測できるようになって、数日程度なら拠点から離れても良いことになった。人類の危機にそんな呑気なって言うやつもいたが、みんなの精神状態を考えると、どちらが人類の寿命を縮めるかは明白だった」
「幸か不幸か『空間の裂け目』から最も近い国は日本で、俺たちは故郷の土を踏むことができた。他の国のやつらの視線は痛かったが、こればかりは仕方がない。交代で休みをとって日本へ戻った」
「彼女が露骨に俺と日程を被せてきたときは、さすがに面食らった」
「拠点から出る船のなかでも彼女は隣に座ってきた。もしもこれが、たとえば恋人や夫婦みたいな、さも俺に同行するのが当然のような振る舞いをしてくれたら、困らなかった。おかしな話だが、あぁ、これが彼女の狂い方なのだなと納得できた」
「でも彼女は正気だった。はにかむように笑いながら『休みのあいだ、ご一緒しても良いですか?』と言った。俺は悟った。彼女には論理と哲学に裏付けされた目的があって、俺への接触を図っている」
「だから正直に訊くことにした。『君は何の目的があって俺につきまとうんだ?』と。すると彼女は茶化すように身をくねらせながら『言わせないでください』と言った。つまるところ、彼女は俺のことを異性として見てくれていた。俺も男だからその可能性は考えたし、実際に言葉にされると妙な感慨があった」
「でも、世界はそんな状況じゃない」
「そのあと俺が彼女に言った内容を要約すると、こうだ。『たくさん仲間が死んだのに、よくそんな余裕があるな』。もちろんこんな棘のある言い方じゃない。でも結果的にはそうなってしまった。責めるつもりはなかった。純粋な疑問だった」
「それを聞いた彼女は、愉快そうに笑った」
「だからですよ、と」
「自分もそのうち死ぬだろうから、後悔がないようにしたい。どうせ死ぬなら、それまで誰かに愛されていたい。すてきな男の人の腕の中で死んでいきたい。そう彼女は晴れ晴れとした顔で語り、だから俺にアプローチをしているのだと言った」
「彼女の言わんとすることは痛いほど分かった。死ぬのが怖いから、何かに縋る。それがきっと、彼女にとっては異性との関係なのだろう。何人たりともそこに異議を挟むことは出来ない」
「でも対象が俺ってのは、あまりにもセンスが悪すぎだ」
「そう指摘すると彼女は『そうですよね』と笑った。ぶっちゃけへこんだ。それから俺を選んだ理由をこう話した」
「寂しそうな眼をする人だと、思っていた。なにか、心に欠落を抱える人の目だと。もしそれを埋めることが出来たら、きっとこの人は、私だけを見てくれる。自分を心から愛してくれる。そんな確信があった、と」
「ひどく自分本位な理由だと思った。でもそれは、仕方がないことだとも思った。だって俺たちには、時間がないから。彼女は強く愛されながら死にたくて、でもそれだけの関係を築くためのリソースがない。そして俺は空っぽの人間だ。人の愛を知らず、そして飢えた人間だ。てっとり早く陥落し、自分を愛してもらうには都合の良い相手だと思ったのだろう」
「……まぁ、入隊したときから優しくてあこがれてたとか、よく見るとあの俳優に似てるとか、とってつけたようなフォローをしてくれたが、それはともかく」
「俺は」
「俺は彼女に、君の気持には応えられない、と伝えた」
「彼女の提案は魅力的だった。さっきも言った通り、俺は人からの愛に飢えた人間だ。そんな俺を、求めてくれる人がいる。形はどうあれ、自分が誰かの人生において、大きな意味をもつ。かけがえのない存在になる」
「なんて、美しいことなんだろう」
「……」
「でも、だめだった」
「だって俺たちは、戦争をしているから」
「その愛は、結局、壊れるためのものだから」
「恐れたんだ、繋がりを。小さいころから、ひとりで。大人になって仲間が出来て。彼らが、死んで。喪失への免疫がない俺の心は悲鳴をあげていて。そんな状態で、もっと、大切な人をつくる?」
「あまりにも、馬鹿げてる」
「そう伝えると、彼女は悲しそうな顔をした。これで終わりだと思った。でも違った。彼女は突然、俺の腕に自分のそれを絡めてきた。硬直する俺に、彼女は言った」
「『じゃあ、勝負をしましょう。期限はどちらかが死ぬまで。あなたが私に惚れたら、私の勝ちです。死ぬまで愛してもらいます』」
「それからというもの、日本へ戻るときは彼女が隣にいた。俺は特に用事もなく気晴らしが目的だった。彼女も両親や友人に会う以外に予定はないようだった」
「彼女はやけに手を繋ぎたがった。男を落とすならスキンシップ、ということらしい。手を引かれるまま色々な場所へ行った。彼女の実家へ連れていかれそうになったときだけは、死ぬ気で抵抗した」
「定期的に、お前らがやって来た。出撃して、仲間が死んで、拠点に戻って、まず彼女を探した。視線が合うと彼女は笑って、それを見た俺は何だが泣きたくなった」
「……いつだったか、彼女に言われた。最近よく笑いますね、と」
「ふいに、脳裏を子供のころに見た景色がよみがえった。俺は海辺にいて、水平線に沈んでいく夕陽をじっと眺めていた。それを眺めている間だけは、自分に正直になれる気がした」
「彼女といるときの感覚は、幼き日の夕暮れに似ていた。世界が輝いているような気がした」
「そして、夕陽ってのは、沈むものだ」
「…………」
「勝ったよ、俺は。彼女との勝負に。いや、悪い、嘘ついた。もうとっくに、負けていたんだ」
「悲しまないように、悔やまないように、遠ざけたのに」
「どうしようもなく、辛いんだ」
「言ったよな、愛されながら死にたいって。すてきな男の人の腕のなかで死にたいって」
「ごめん、君の死体、見つからなかった」
「君は死に際、後悔したか? 俺はきっと、君が望むような関係にはなれなかった。手を繋ぐだけじゃなく、もっと抱きしめてやれば良かった。愛してるって言ってやれば良かった」
「後悔ばかりだ」
「俺は何のために、生まれてきた?」
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