償い

 膝からくずれおちた。そのまま地の底まで落ちていくように錯覚して、けれど私の体は床にたたきつけられただけだった。


「大丈夫ですか!?」と扉のそとから慌てた声がした。


 ドアノブの回る音がした。


 私は喉が千切れるくらい叫んだ。


「来ないでぇっ!」


 この部屋は、ふたりのための空間だ。


 あなたの帰ってくる場所だ。


 他のだれも入ってはいけない聖域だ。


 だから、入ってこないで欲しい。放っておいて欲しい。このまま一人にして欲しい。


 そんな意志を伝えようとして、


 けれど私の口から溢れ出したのは、とめどない嗚咽だけ。


「うぐっ、う、うわあああああぁっ!」


 なんで、なんで、なんで。


 そればかりが頭を埋め尽くして。


 あの凍えそうに寒い海で、ふたりで手を繋いで。これからも一緒にいようって、言って。この時間が幸せだって、笑い合って。


 先に言い出したのは、あなたなのに。私を抱きしめて、ずっと一緒にいて欲しいって言ったのは、あなたなのに。


 あの日の言葉を思い出した

 

『そうか、ユウは、この世界で生きていけるんだな』


 そんなこと、言って欲しくなかった。


 私はずっと、


 あなたに繋ぎとめられていたかったのに。


 それから、ひとしきり泣いて。「あのっ」と私はひどくしゃくりあげながら言った。

「あの人は、志願したって、言いましたよね? なんで? この世界を、救うため?」


 言葉がまとまらなかった。世界を救うためだったのは確かだろう。けれど何も告げず、私を残していく選択をしたのが、信じられなかった。いや、信じたくなかったのだ。すべてを投げ出してでも一緒にいて欲しかった。


「それは……」と扉のむこうで戸惑うような気配があった。

「正直なところ、私にもわかりません。失礼を承知で言うと、山田さんは隊員としては優秀でしたが、とりたてて強い正義感を持っている人間には見えませんでした。世界のために命をかける覚悟はあっても、生きて帰れる可能性がゼロとイチでは重さが違う。あの人が志願したと聞いたとき、耳を疑いました」


「そう、ですか」


「ただ……一度だけ、気になることを言っていました。『俺はこの世界を裏切ったから、償いをしなくちゃいけない』、と」


「……償い?」


「はい、それと……『これ以上の幸せには、耐えられない』とも言っていました。私には見当もつきませんでしたが……なにか、ご存知ですか?」


 償い。つまり犯した罪への後悔があった。


 そして、幸せ。


 愕然とした。


 かつて、あなたは私を誘拐したことに罪悪感を抱いていると口にした。キャンドルの明かりに照らされながら、私と一緒にいると辛くなると訴えた。


 だから私は、あなたを救いたいと思った。『物語』をつくって、この現実から二人で逃げ出そうと提案した。


 でも私が語ったのは、『現実』だった。


 それをあなたがどう受け止めたのかは、わからない。けれどきっと、恐ろしかったと思う。自分はどこにもいけない人間なんだと、絶望したはずだ。


 幸せを積みかさねるほど、あなたの心は蝕まれる。


 私はあなたを、救えなかったんだ。


「ごめんなさい……私にも、わかりません」


「わかりました。ありがとうございます。奥さんにもわからないなら、もう考えない方が良いのかもしれませんね」


「……え? 奥さん?」


「あ、失礼しました」と扉のむこうから慌てた声が聞こえた。

「声だけじゃわからなかったので、てっきり。娘さんですか?」


「いえ、ちがいます」


「えと……じゃあ、恋人、とか?」


 どうしよう、と思う。誘拐されてますとは言えない。とはいえ、あなたという生活の基盤を失った以上、ばれるのは時間だった。


 そうか、と今更になって気づいた。


 この生活は、終わりなのか。


 あなたを待つ必要も、もうないのか。


 なんだか、すべてがどうでも良くなった。


「あの人と私の関係に、名前はありません」


「はい?」


「あの人が私をどう認識していたかは、知りません。でも、私にとっては……」


 ぶわっと、目頭が熱くなった。おさまりかけていた涙が、また湧き出してきた。


 さっきみたいに奔流のような涙じゃない。ぎゅっと握りしめたこぶしの上に、ぽたぽたと、閉まり切ってない蛇口の水みたいに大きなしずくが落ちた。


「あの人は、なによりも、大切なひとでした。こんな世界の明日より、人類の存続より、ずっと、ずっと、大切なひとでしたっ」


 こんなことを言ってはいけないと、わかっていた。あなたも、扉のむこうの男性も、この世界を守るために戦ってきたのだから。


 でも、あなたのいない世界に、何の意味があるのだろう? どうせ空っぽの世界なら、いっそ壊れてしまえば良かった。


 あなたと波打ち際で手をつなぎながら、終わりゆく世界を眺めていたかった。


 肩を震わせて、泣いた。ぐちゃぐちゃの感情も、あなたとの思い出も、私のこれからも、ぜんぶぜんぶ溶け合って透明なしずくになってしまえば良い。


 扉の向こうから遠慮がちな声が聞こえた。


「あの、今更ですが、私がここへ来た理由をお伝えします。山田さんから受けた依頼は、あなたの今後の面倒をみて欲しいというものでした。責任の重い話でしたが、あの人には何度も危機を救われましたし、世界のために命を投げ打つ恩人の頼みを、断るわけにもいきませんでしたからね」


 私は嗚咽を漏らしながら聞いていた。


「ですが部屋にいる誰かが、具体的にどういう関係の人間なのか、あの人はまったくもって教えてくれませんでした。ですが最後、最終任務におもむく部隊を皆で送り出したのですが、そのときに部屋の鍵を渡されながら、こう言われました」



『あの部屋にいるのは、こんな世界よりも、ずっとずっと大事な女性だ』



 おおきく、息を吸った。 


「ばか」と私は言った。


「ばかばかばかばか! なにが世界よりも大事な女性よ! だったら一緒にいてくれれば良かったじゃん!

 幸せに耐えられなくなった? 償いをしなくちゃいけない? 知らないよ! だったら教えてよ! あなた一人に抱えさせないって、言ったじゃん!

 だいたい、そんな死ぬようなこと? いや、そりゃあなたの代わりに誰かが犠牲になったかもしれないけど……それでも、相談してくれたって、良かったでしょ!

 これは、私たちの罪なんだから! ふたりは共犯者なんだから! 償うなら一緒にっ…………」


 まくし立てながら、ちょっと待てよ、と思う。


 たしかに誘拐は犯罪だ。いけないことだ。でも、たとえ精神的に追い詰められていても、死ぬようなことだろうか?


 もちろん人によって、重大性の捉え方はちがう。けれどあなたは地球存亡という規模の大きな問題に立ち向かっていた。それに比べれば私のような小娘の身柄なんて、死の淵に追い込まれるほど大きな問題とは思えない。


 償い、と私は考える。


 さっき部下さんは、あなたの発言をなんと言っていた? たしか、


『俺はこの世界を裏切ったから、償いをしなくちゃいけない』


 この世界を裏切ったから。償いばかりに気を取られて意識から外れていた。


 女の子を誘拐することを、世界を裏切ると形容するだろうか? あまりに大げさすぎるんじゃないだろうか。


 あなたは誘拐とはべつに、世界を裏切るレベルの罪を犯した、ということになる。


 でも……あなたは私のことを世界よりも大事なひと、と言ってくれた。そんな私を置いて世界への償いとやらを優先させるのは、矛盾しているのではないか?


 そう考えると、ふいに騒がしい友達とのやりとりを思い出した。


『ユウちゃんの言いたいことはわかるけど、私の常識と十六年の人生がそれを否定するの!』


 理性と常識。


 愛情と、罪悪感。


 あなたは私と世界を天秤にかけて、私を選んでくれた。


 けれどその天秤すら狂わせるほどの罪が。


 この地球に生まれ落ちた生命である以上、命をもって償わざるをえない本能に根差した過ちが、あなたの心をさいなんだとしたら。


 私は涙をぬぐい、ゆっくりと、立ち上がった。


「あの、大丈夫ですか?」


 動く気配が伝わったのだろう、扉の向こうから気遣うような声がした。


「ひとつ、訊かせてください」と私は言った。

「あの人は、なにか世界を裏切るような罪を、犯しましたか?」


「え、いや、山田さんはそんなことしませんよ」


「そうですか。すいません、すこし待っていてください。あるいは帰ってもらっても結構です」


 私は扉からきびすを返して部屋に戻った。扉の向こうから「じゃあ、待ってます」と困ったような声が聞こえた。


 窓のそとは夜が明けかけていた。ずっと暗闇にいたせいか、月夜にも満たない薄青い暗がりでも、部屋のなかがしっかりと認識できた。


 私は写真のならんだコルクボードの前に立った。そっと、写真のなかのあなたを撫でる。この穏やかな笑顔のうらに、どんな苦しみを抱えていたのだろう。


 あなたの、罪。


 もしも完全に私の知らない悪事なら、どうしようもない。


 けれど、そうではないという確信があった。


 すべての答えは、私のなかにあるはずだった。


 この――失われた記憶のなかに。


「眉間の痛みといっしょに、映像がみえることがあった」


 トリガーはわからない。


「あれは間違いなく『過去』の記憶。映像そのものは不明瞭で、支離滅裂で、よくわからない」


 そして映像以外にもうひとつ、今と『過去』を繋げたもの。


「あなたに語った『嘘』、あるいは『物語』」


 まさかノンフィクションになるなんて。


「あのなかに、答えがある。あるいは答えに繋がるなにかがある」


 ……たぶん。


 ぎゅっと、眉間に力を入れる。あの日の会話を思い出す。あれはたしか夏の終わりのころで、半年も前のことで、けれど不思議と、鮮明な情景まで思い出せた。


 アロマキャンドルに浮いた赤いバラ。冷房の効いた部屋。花の香り。汗ばんだ私と泣きそうなあなた。


 鮮烈な橙色の光。


 夕刻、夕暮れ、夕焼け、夕景。


『じゃあ、嘘をつこう』とあの日の私は言った。


 ずきりと、眉間が痛んだ。


『あなたは、正義の味方なの』


『誰も知らないけれど、この世界は滅亡へと近づいていて、あなたと仲間たちはその危機に立ち向かってる。その危機っていうのは……外宇宙からの、侵略者』


『あなたの戦う敵は、あまりにも強くて。たとえば空を飛べるとか――



 ほかの生き物に擬態するとか



 瞬間、頭がはじけた。


 そう錯覚するほどの衝撃があった。


 まるで眉間を、銃弾で打ち抜かれたような、



 世界が、黒く染まる。

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