雪と火柱

 ナナちゃんとの別れから数日後、あなたが帰ってきた。


 いつもは日没ごろの帰宅なのに、その日はめずらしく朝方だった。トレンチコートをハンガーにかけていたあなたに、私は「話がある」と言った。あなたは探るようにじっとこちらを見たあと、うつろな目で「コーヒーでも淹れようか」と言った。その日は一段と疲れているように見えた。


 空はどんよりと曇っていた。日の入らない部屋のなかも、こころなしかぼんやりと灰色がかっているように見えた。


 テーブルに向かい合って座り、あたたかいマグカップを手でつつんだまま、私はナナちゃんのことを話した。彼女がとつぜん部屋を訪れたこと。友達になってたくさんおしゃべりしたこと。足枷のことがバレて、結局あなたとの関係のすべてを話したこと。彼女なりに理解の姿勢をみせてくれたこと。


 あなたは優しく相槌をうってくれていた。私が「勝手なことをして、ごめんなさい」と締めくくると、「いや、気にしなくていい」と薄く笑った。


 それからカップをもって席を立つと、いつもナナちゃんが来ていた窓へ行きガラガラと開け放った。もちろんそこには誰もいない。すっかり冬枯れした枝木が寒々しく広がっているだけだ。暖房の効いた部屋に真冬の風がすべりこんで、足元をしんと冷やしていった。


 こちらに背を向け外を眺め続けるあなたに、何だか胸騒ぎを覚えた。思えばあなたは誘拐犯で、私はそんな相手に罪が露呈してしまったと告白した。それも被害者である私と同年代の女の子に。もちろんあなたを疑う気はないけれど、なにかの間違いが起きないとも限らない。


「そうか」とあなたが呟く。


 けれど振り返ったあなたの目を見て、自分の心配が杞憂だと悟った。柔らかく細めたあなたの眼差しは、ただ私だけを見ていた。そこに見ず知らずの女子高生の影はなく、全ての関心は私に向けられているのだと、直感でわかった。


 おもわず胸をなでおろした。あなたは怒っても困ってもないようだった。


 あなたはホットコーヒーを一口飲んでから言った。私が安心できたのは、あなたがその言葉を発するまでの短いあいだだった。


「そうか、ユウは、この世界で生きていけるんだな」


 何気ない、おだやかな言葉。安堵するような、そして愛おしむような響き。けれど私の胸に飛来した感情は、たぶん寂しさだった。


 この寂寥感はなんだろう、と考えて思い至る。


 いまの発言に私はなんだか、あなたが私から一歩とおざかるような。


 まるで『君は、俺がいなくても生きていけるんだな』とでも言われたような。


 そんな漠然とした不安を、感じたのだ。


 もちろん考えすぎかもしれなかった。ナナちゃんのことへの罪悪感で、疑心暗鬼になっているのかもしれなかった。それでも不安はなかなか消えなくて、心だけが底の見えない深い穴へ落ちていくような気がした。


 私がなにかを言う前に、あなたがコーヒーを一気に飲み干して言った。


「今日はせっかく早めに帰れたんだ。いまから少し出かけないか」


「……でも、疲れてるんじゃない?」


「いや、大丈夫。なんというか、風にあたりたい気分なんだ」


 そう言われては否定する理由もなくて私はうなずいた。


 あなたは座ったままの私のほうへ来ると、足元にひざをついた。ジーンズのポケットから小さな鍵をとりだして、足枷の鍵穴へと刺した。


 私の目の前に、あなたの頭頂部があった。いつから髪を切っていないのか、ごわごわとした黒い毛玉のようだ。そんなあなたの頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でてみた。不思議そうに見上げてくるので、私は努めて口角をゆるめながら言った。


「いつもおつかれさま。……今日もこの世界を守ってくれて、ありがとう」


 あなたは照れたように「ふっ」と笑い、ふたたび視線を落とした。


 かちゃり、という音を立てて、足枷が外れた。



 あてもなく車を走らせた。よくわからないけど、あなたは黒くて良い車に乗っていた。ナナちゃんが「うわー! なんでこんなアパートにスポーツカーがあるの! ぴかぴかー! たかそー!」と言っていたので、たぶん良い車だ。


 淀んだ空から白いものが舞い降りていた。今の私になってはじめての雪だった。ひとひらの雪片は大きかったけれど、降り方はまばらで通行人も傘をさしていなかった。


 途中でナナちゃんの通う高校の前を通った。あなたに頼んで車を停めてもらい、しばらく校舎をながめていた。どうやら既に冬休みらしく、広々としたグラウンドから見渡す敷地内は森閑としていた。枯草のうえに野球ボールが転がっていた。


 あの建物のなかで同年代の子が数百人と生活している。なんだか想像がつかないけれど、それがナナちゃんの世界なのだと思った。そこに混ざる自分はどうやっても想像できなかった。


「ありがとう、車を出して」と私は言った。


 途中にファミレスでお昼ご飯を食べた。店内ポップがイチゴのデザートを大々的に押し出していた。世間的にはクリスマスが近づいていた。その日もあなたはきっと帰ってこないだろうし、これも私には関係のない話だった。


 それからしばらく車を走らせて、最終的に私たちは海へたどりついた。半年前の初夏に訪れて以来だった。ちかくの市営駐車場に停車して砂浜までの階段を下りた。こんな雪の降る日だ、ほかに人はいなかった。


 私は波打ち際に立った。波がブーツのつま先のギリギリを何度も行ったり来たりした。半年前、良く晴れ渡った日の海は、世界がどこまでも広がっているのを感じられた。この先にたくさんの命があるのだと思った。


 けれどその日、こんこんと雪が舞うなかで眺めた海は、まるで世界の果てみたいにひっそりとしていた。とある映画の結末を思い出した。文明の滅んだ世界を旅した親子が、ぼろぼろの体で海へと辿り着く。そのラストシーンもこんな寂寞とした曇り空をしていた。


 あなたが隣にならんだ。真っ黒なトレンチコートの裾が海風にはためいていた。


「実は」とあなたがふいに言った。


「もう少しで仕事が……あぁ、いや、侵略者との戦争が終わって、世界が平和になりそうなんだ」


 私はあなたの顔をみあげた。あなたはじっと海の方をみつめていた。


「これからは、ずっと部屋にいられるの?」


「それは……どうだろうな」


「クリスマスは?」


「……すまない」


「そっか」


 気まずそうに目をふせるあなたに、私は微笑みながら言った。


「がんばったんだね。世界を救ってくれて、ありがとう」


 あなたはゆっくりと、こちらを向いた。まるで信じられないものをみるように私を見た。


「……怒らないのか?」


「なぜ? あなたが大きな問題から解放されたんでしょう? なら私もうれしいよ」


 嘘だった。ちょっとだけ寂しい。ふたりでいる時間が増えれば、とおくまで旅行にいけるのに。


 あなたは言葉を失ったように黙っていた。やがて足元の波をみつめながら零すように言った。


「ユウ……俺、ほんとうはこの世界のことなんて、どうでも良かったんだ。ただ君との生活を守りたかった。守りたいと思ってしまった。その結果がこの、あたたかい気持ちなら、俺の戦いにも意味があったんだろう」


「……えと、ありが、とう?」


 私は首をかしげた。なんの話かわからなかった。でもなんだか、うれしいことを言われたのは分かった。


「ユウは、どうだ?」


「え?」


「俺はユウを、幸せにできたか?」


 誘拐犯がいえたセリフじゃないけどな、と苦笑する。


「うん、幸せだよ」と私は言った。


「なら、よかった」とあなたは言った。


「でも、うぅん、よく考えてみると、どうだろう」


 そう言ってみると、あなたはぎょっとしたようにたじろいだ。その様子がおかしくて、すこし意地悪をしたな、と思う。


「ごめん、でも私はあの部屋と、あなたとの時間しか知らないから。……あと、ナナちゃん。つまり、私の世界はひどく狭くて、これが本当に幸せとよべるか、自信がなくなってきたんだ。ほんとうの幸せは、私の知らないところに、ころんと転がってるかもしれない」


「俺と一緒じゃ、ユウは幸せになれない、ってことか」


「まさか、ちがう」と私は笑った。

「だからこれからも、いっしょに時を過ごそう。いろんなものを見て、聞いて、食べて、世界を知って。私の感じる幸せが正しいものだって、断言できるように」


 ふたりの出会いが、間違いじゃなかったって、言えるように。


 私がそう言い終えると、あなたは心のそこから幸せそうに微笑んだ。


「ありがとう、ユウ。君に会えてよかった」


 ふたり並んで海を眺めた。まるで世界の果てみたいな、旅の終点みたいな光景だったけど、私たちの心はみたされていた。


 冬の海風にかじかんだ手を、あなたのそれにそっと重ねた。



 その日の夜、夕ご飯を食べているとあなたの携帯に着信があった。神妙な面持ちでうなずいたあと、すぐに出かける準備をはじめた。


 玄関で靴を履きながら、あなたは悲し気な顔で「ごめんな」と言った。


「がんばって。待ってるから」と私は言った。


 三日後の晩、私はひどい頭痛で目を覚ました。眉間を熱した鉄の棒でえぐられるような激痛だった。


 床にうずくまり痛みに耐えていると、ふいに部屋のなかが明るくなった。オレンジ色の光だ。光源は窓からで、けれど日の出には早すぎる時間帯だった。時計の針は午前三時半をさしていた。


 顔をあげて部屋のそとをみた瞬間、痛みなんて忘れてしまった。そのくらい壮絶な光景だった。私は立ち上がり、おぼつかない足取りで窓辺へと歩みより、震える手で窓を開いた。



 巨大な、炎の柱だった。



 距離は、かなりあるようだった。ほぼ水平線くらいの洋上から、まるで神話に出てくる大樹みたいに、計り知れない大きさの炎があがっていた。


 視界にうつるすべてが、夕焼けみたいに赤々と染まっていた。


 ただ、立ち尽くした。眉間の痛みだけが寄せては返す波みたいに去来して、この光景が夢じゃなく現実なんだって主張した。


 別の部屋の住人が「おい、テレビつけてみろ!」と誰かに叫ぶのが聞こえた。


 私も窓から離れてテレビをつけた。画面には『緊急会見』というテロップと、この国でいちばん偉い人が映っていた。


 その人は、緊張した面持ちでこう説明した。


 この地球は数年前から、外宇宙、あるいは別次元からの侵略を受けていた。


 戦場は太平洋上にひらいた『空間の裂け目』のなかであり、混乱を避けるため一部の関係者を除き情報規制が敷かれていた。


 そして本日未明、世界各国が協力して製造した『最終兵器』を用い、別次元の侵略者の掃討、ならびに『空間の裂け目』の破壊に成功した。


 人類は絶滅の危機から脱したのだ。


 また、この日を迎えるまでの数年間、地球存続の死線は世界中から集められた『精鋭』たちによって支えられていた。


 激しい戦いのなかで、命を落とした者も多い。


 人類は、彼らに多大な感謝をしなくてはならない。


 会見は、そこまでだった。詳細は後ほど開示するとしたうえで、洋上の火柱は『最終兵器』の余波であり、津波や有害物質など、国民生活に影響を与える可能性はないと説明された。


 真っ白になった頭で、そうか、と思った。


 あなたのために考えた『物語』は、嘘じゃなかった。てっきり映画の影響をうけた私の創作だと思っていた。でもそうじゃなかった。



 あれは、私の『記憶』で。


 あなたの『現実』だったんだ。

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あなたが命を燃やすたび、世界はちょっとだけ平和になる 岩瀬ひとなつ @hitouatsu

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