亀裂を②

 とっさに、答えることが出来なかった。以前に彼女を煙たい存在だと感じたのは事実だし、現にこの瞬間は早く消えてほしいとまで思っていた。直接的な表現を避けなければ、自分は彼女を「ウザい」と思っている。


 けれど、それを口に出すほど良心を捨ててはいなかった。だから、考えた。私は何故、彼女といるのだろう。彼女と友達になったのだろう。


 そうだった。あの目だ。


 あの日のあなたと同じ、あの、救いを求める目だ。


 私が、手を握ることを選んだ。もちろん私が救わなきゃみたいな偉そうなことは考えてない。実際にできることなんて一緒におしゃべりすることしかなかった。それでも彼女の欠落を埋める助けになりたいと願った。


 こんな罵り合いを、するためじゃなかった。


 私たちは友達だ。つまるところ対等だ。……友達がいないからよく分からないけど、たぶん、そういうものだと信じたい。


 だから、語り合うべきだと思った。たがいの意見が食い違うなら、対等な関係で主張をぶつけ合って、ふたりが納得できる結論を導くべきだと思った。きれいごとかもしれない。でもそうするべきだ。だって私もナナちゃんも、まだ十代の女の子だ。たくさんの間違いを犯して、それを認め合いながら未来へ進んでいくしかない。


 そして、ふたりを対等と呼ぶには、私は秘密を隠しすぎていた。


「ナナちゃん」と名前を呼んだ。さっきまでとは別人のような落ち着いた声が出た。それでもナナちゃんは肩をびくりと震わせた。


 彼女の自虐的な質問をあえて無視して、私は言った。


「叔父さんって説明したあの人、実は叔父さんじゃないの」


「え?」とナナちゃんが目を丸くする。

「じゃあ、誰なの?」


「さぁ?」


「さ、さぁ?」


「知らない人。元、知らない人」


「え……そ、そうだとして、なんでユウちゃん知らない人と住んでるの?」


「私、あの人に誘拐されたらしいんだ」


「……冗談はやめて」


「ううん、本当の話。でも確証はない。私、記憶喪失なんだ。ここ半年より前の記憶がないの。自分の名前もわからないから、夕っていうのも、あの人にもらった名前」


 ナナちゃんは無言で私を睨みつけている。


「それとここからは嘘の話だけど、あの人は正義の味方なの。ニュースでも取り上げないけど、世界は外宇宙からの侵略を受けていて、あの人はそれと戦う地球防衛軍の一員。っていう設定を私たちは信じて、心のよりどころにしてる」


「あのさ、ふざけるのも大概にしてよ。こっちは現実的な話をしてるの」


「それ、初対面で人のこと幽霊よばわりした人が言えたセリフ?」


「そ……れは、いま関係ないじゃん。私はユウちゃんを心配してるんだよ。変な揚げ足とりしないで」


「関係あるよ。私には幽霊を探すために二階の窓から突撃してきて、友達になるよう迫ってくる女の子の心理が理解できない。


 ナナちゃんには誘拐犯と同棲して外宇宙からの侵略者の幻想に取り憑かれて記憶喪失で学校行ってないのに制服着てて足枷はめられてて、でもその生活を幸せだと疑わない女の心理が理解できない。


 そこに何の違いがあるっていうの?」


「ぜんっぜん違う! すっごい違うよ!」


「同じだよ。つまりはこういうこと。私はナナちゃんの生きる世界を知らない。ナナちゃんは私の生きる世界を知らない。そして私は自分の世界を守りたい。ただ、それだけ。私は幸せなんだって、大丈夫なんだって、わかって欲しいんだ」


「そうかも、しれないけど……」


 しぼりだすようにそう言うと、ナナちゃんは髪の毛をぐしゃぐしゃと搔きまわして「んぐあぁぁぁ!」と咆哮した。ひとしきり発狂し、ただでさえふわふわの髪を爆発したように逆立て、肩で息をしながら言った。


「だめだ! 誘拐とか記憶とか、それが嘘かほんとかはともかく、すくなくともユウちゃんの足には鎖が繋がってて、それはいけないことなんだって私のなかの私が言ってる! ユウちゃんの言いたいことはわかるけど、私の常識と十六年の人生がそれを否定するの!」


 どうやら説得に失敗したようだった。もう恥も外聞も捨てて泣き落とししかない……そう思った矢先、ナナちゃんが「でも!」と叫ぶ。


「ユウちゃんが、今の生活を守りたいって気持ちは、すごく伝わってきた。その、誘拐犯? のことを好きって気持ちもわかった。世間的には大人の人に報告するのが正解なのかもしれない。でもそれでユウちゃんの幸せを壊したら、私は謝っても謝り切れなくなる。それは、絶対に、嫌だ!」


「だから……!」とナナちゃんは視線をさまよわせたあと、苦虫を噛み潰したような顔で言った。


「時間をちょうだい。私がユウちゃんの世界を受け入れられるまで、待ってて欲しい。それまではここに、来ないから」


 そんな彼女の様子に、私は微笑みながら言った。


「そっか、わかった」


 だいたい、これは彼女が私の存在を誰かに話すか否かという問題だ。私にできることは、はじめから彼女の決断をじっと待つだけだった。


 ふいにナナちゃんはスマホを取り出し画面をみると「うわ、もう休み時間おわりじゃん!」と大声を出した。


「……じゃあ、そういうわけだから戻るね」


 そう言うと木から飛び降りて、きれいな着地を決める。いつもはそのまま自転車へ直行するのに、その日は何かを思い出したように私の方を見あげて、けれど何も言わなかった。


 鼻の頭やほっぺを真っ赤に染めて、まだ瞳には涙の余韻を輝かせて。


 また明日には何事もなかったように、ここを訪れるのかもしれない。あるいはずっと来ないのかもしれない。そのあいだ、彼女はどうやって休み時間を過ごすのだろう。どこでお昼ごはんを食べるのだろう。


「ナナちゃん」と私は呼んだ。

「最後にひとつだけ、聞かせて」


 彼女はスマホで時間を確認してから「なに?」とぶっきらぼうに言った。


「私の記憶が確かなら、ナナちゃんは幽霊を探しにきた理由を『ほんとうに幽霊がいるなら、自分の世界も変わると思った』って言ったよね」


「……言ったけど。あれは気の迷いっていうか、ほんとうに追い詰められてたというか」


「思うに、それはたぶん幽霊じゃなくて、UFOでも地底人でも怪獣でも、ナナちゃんの現実を根底から覆すような出会いなら、なんでも良かったんじゃないかな?」


 ナナちゃんは「いったい何を」とでも言いたげな表情を浮かべ、すぐに私の意図を察したのか大きく目を開き、ぱちくりとまばたきをした。


 そんな彼女に私は笑顔で言った。


「私は幽霊じゃない。ナナちゃんの友達。でもあなたの常識をまっこうから否定するくらい、現実離れしたすっごく変な友達なんだ。場合によっては、幽霊なんか目じゃないくらいに。


 だから、ナナちゃん、教えて。


 私の存在は、あなたの辛い現実に、ちょっとでも亀裂を入れることができるかな?」


 あなたの世界を、変えられるかな?


 ナナちゃんは黙って話を聞いていた。しっかりと私を見ていた。けれどやがて顔を伏せて、ちょっとだけマフラーに顔をうずめて、噛みしめるみたいにゆっくりと言った。


「そっか、この世界には、私の知らないことがたくさんあるんだもんね」


 それからナナちゃんは「ごめん、時間だから行かないと」と首をふった。


「それじゃあ……もちろん今日はアデューって言わないよ」


 はじめて出会ったころ、私は彼女を向日葵のように笑う女の子だと思った。


 けれどこの日の彼女は、まるで雪のひとひらが溶けて露となるように、控えめにふわりと微笑んだ。そして気恥ずかしそうに小さく手をふりながら言った。


「じゃあ、またね」



 あとになって、思う。


 彼女は最後まで、別れのあいさつの使いどころを間違えていた。


 そのちぐはぐさが彼女らしくて、なんだか微笑ましくて、


 私は、あたたかい気持ちになる。

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