亀裂を①

 思い出を、重ねる。


 疲れ切った体を引きずって、あなたは私を色々な場所へ連れ出してくれた。私は体調を心配したけれど、いまが人生最大の輝きとばかりに笑顔をみせるあなたを、止めることは出来なかった。


 デジタルカメラと、大きなコルクボードを買った。時が経つにつれて、壁にかけたボードに写真が増えた。私が撮った写真は高速移動してるみたいにブレブレで、あなたのそれはプロの撮ったスナップショットみたいに構図から光の差し込み方まで計算されていた。


「被写体が良いんだよ」とあなたは照れくさそうに笑った。


 水族館のペンギンを食い入るように見つめる私。腕一杯の紅葉を宙に投げ放つあなた。児童公園の滑り台のうえでバンザイをする私。駅前のベンチでハンバーガーを食べるあなた。テーマパークの入口に並んで、ピースサインをするふたり。


 こんな時間が、ずっと続けば良いのに。


 心の底から、そう思っていた。


 自分たちのいる場所が、薄氷のうえだなんてこと、すっかり忘れて。


 あなたは、ストックホルム症候群という心理学用語を知っていただろうか?


 簡単に説明すると、誘拐、監禁などの状況下において、被害者が犯人に好意を抱く心理状態のことだ。


 かつてスウェーデンのストックホルムで起きた銀行立てこもり事件で、被害者が犯人を擁護する行動をしたのが名前の由来だ。原因は諸説あるらしいけれど、この際、その情報は置いておく。


 重要なのは、この知識がナナちゃんによってもたらされた、ということだ。



 あなたとの生活を送るかたわら、ナナちゃんも毎日のように窓から現れた。季節はめぐり、その日の彼女は真っ赤なマフラーと制服のうえにダッフルコートという出で立ちだった。


「ナナちゃんがさ」と私は言った。


「帰り際にいつも言ってる『アデュー』ってやつ。あれ、なに?」


「んー? よく知らないけど、おしゃれなバイバイだよ。そういえば何語なんだろー」


 ナナちゃんがスマホでなにやら調べる。


「へー、フランス語なんだって。……あ! 永遠の別れや長いあいだ会えなくなるときに使いますって書いてある! 毎日言ってるじゃん!」


「永遠って二十四時間なんだ」


「恥ずかしー!」


 身もだえする彼女の姿に、私は苦笑する。


 あなたにもらった制服をナナちゃんとのおしゃべりの時にも着ていくと、彼女はおおはしゃぎで似合ってると言ってくれた。


「それにしても、なんだか色々なところに行ってるんだねー」


 視線を追うと、壁にかけたコルクボードと写真に行きついた。彼女には病弱で外出ができないと説明していた手前、ちょっとだけ後ろめたくて私は弁明する。


「うん、最近、体調が良くて。あの人も私のために、張り切ってくれてるみたいなんだ」


「んー、にしても距離感近くない? 叔父さんだよね? ハッ! まさか禁断の愛ってやつデスカ!?」


 彼女は冗談のつもりだったんだろうけど、私はちょっとムッとする。ふたりの関係はあくまで『親愛』であって、そんな陳腐な男女関係に落としこまれるのは不本意だった。


 ……いや、親愛というには歪みすぎかな。


 不快感が顔に出てしまったのか、ナナちゃんが焦ったように言う。


「でも、そんな大切にしてくれる人がいるって素敵なことだよね! そして私もユウちゃんが大切だよ! はい、ででででっでで〜! ちょこぼぉるぅ〜」


 彼女はコートのポケットからチョコ菓子を取り出し高々と掲げた。自分が失言したと判断すると、彼女はお菓子で私を懐柔しようとする。


「じゃあ、いっくよー!」


 そう言ってナナちゃんが投げてきたチョコの玉を、私は取りこぼしてしまった。


「あ、ごめん!」とナナちゃんがパンッと手を合わせて言う。


「大丈夫、洗えば食べられるから。ちょっと洗面台に行ってくるね」


 私は窓辺から離れ、扉を開け、廊下に出て洗面台でチョコを洗う。その一粒をほおばり、口のなかで転がしながらナナちゃんの元へ戻った。


「おまたせ」


 そう言い彼女の顔を見て、私は凍りつく。


 ナナちゃんは信じられないようなものを見たように、目を見開いていた。ふだんは楽しそうにコロコロと表情を変える彼女が、今は恐怖や未知に支配されたような、鬼気迫る顔つきをしていた。


「ユウちゃん、それ」とナナちゃんはこちらを指さした。


 私の顔よりも、ずっと下。彼女は外にいるから正確には窓枠の下の外壁だ。そしてそれを貫通した先には、私の足元がある。


 そこで、自身の失態を悟った。


 私はナナちゃんと話すとき、決まって窓べりに寄りかかるようにして、そこから離れないようにしていた。彼女が定位置にしている枝は窓枠よりすこしだけ高くにあって、部屋のなかはまだしも、廊下にまで出ると床のあたりが見えてしまう。


 だからいつも扉を可能な限り閉めて、彼女の視線が廊下まで届かないようにしていた。


 床を這い、私まで繋がる鎖が、見えないように。


 完全に、油断していた。言い訳が出来ないほどの、無様な凡ミスだった。


 私はのうのうと廊下を通って、彼女に全身を晒した。この右足に嵌められた足枷まで、見られてしまったのだろう。


「なんのこと?」と私は努めて冷静に言った。


「なんの、じゃなくて。その足のやつ、なに?」


「……」


「私の見間違えじゃなければ、足枷? みたいな。いや、本物なんて見たことないし、自信はないんだけど……当たってる?」


 すっかり真っ白な頭じゃ言い訳なんて浮かばなくて、私はうなずいた。


 ナナちゃんは引きつった笑いを浮かべながら言った。


「なんで……そんな」


「……私が、外に出ないようにって。でも、違うの。あの人は、私の身に万が一があったらって、心配してくれて」


 なんとか説明しようとするけど、明らかに墓穴を掘っていた。だって、仕方がなかった。家の中で拘束具をつけている様を友人に見られて、なんて弁明すれば良い?


「やっぱり」とナナちゃんが言った。


「ユウちゃん、叔父さんに虐待されてるんでしょ」


「え?」


 思ってもない言葉に、私は固まる。


「だっておかしいよ。自由に外に出られなくて、学校まで行かせてもらえなくて、こんな、犯罪者みたいな扱いされて。こういうのを虐待って言うんでしょ?」


「そんな、ちがう」


「ちがわないよ! そのくせ高校の制服なんか着せて、なに考えてるか……。待って、ユウちゃん、変なこと、されたりしてない?」


「ちがうっ!」


 それが自分の声だと気づくのに時間がかかった。そのくらい鋭い声が、私の喉から迸った。


 面食らって言葉を失うナナちゃんに、たたきつけるように言った。


「あの人はっ! 私をほんとうに、大事にしてくれてる。悪く言わないであげて、お願い……」


「……」


 しばらくの逡巡のあと、ナナちゃんは呟くように言った。


「それは、無理だよ。ふつうに考えておかしいもん。ユウちゃん、警察に行こう」


 警察。その響きには現実の手触りがまざまざと感じられた。私たちが必死に目を逸らそうとしていた黒い影が、目の前にまでやってきていた。


「ふつう?」と私は言った。

「ナナちゃんの言うふつうが、わからない。私にはこの部屋が、あの人と過ごす時間が全てで、それがふつう。なにも知らないあなたが、私たちを語らないで」


 それが冷たい言葉だということは認識していた。けれど止まらなかった。ふたりの生活を守らなければという気持ちばかりが募った。


 これは、私の失態だ。足枷に気づかれない方法を、もっとちゃんと考えておくべきだった。そもそもナナちゃんと友達になろうなんて決断したのが間違いだった。


 しばし絶句していたナナちゃんだったが、やがて口を開いた。


「もしかして、ユウちゃん、脅されてるの? それか……あ、私、ユウちゃんみたいな人のこと知ってるかも」


 そう言ってスマホを操作すると、私の方へ画面を向けてきた。


 そこにストックホルム症候群のことが書かれていた。


 原因については諸説あるとした上で、生命を脅かされた被害者が、加害者の機嫌を損ねないようにする生存戦略。あるいは活動を制限されることで、小さな優しさが過大な好意を生む可能性がある。そんなことが記されていた。


 ただ、仮に私がそんな心理状態に陥ってるとして……言えることは、ひとつだけだった。


「だから、なに?」


「……え?」


「なにがあったって、私の気持ちは変わらない。これは余計なお節介だよ、ナナちゃん」


 あえて突き放すように言った。


 これは私たちの問題だから、ナナちゃんは関わらなくていい。放っておいてほしい。


 そんな言葉を続けようとして……私は口をつぐんだ。ナナちゃんの目から、大粒の涙が溢れ出していたからだ。


「そんなこと、知ってるよ。私はお節介だって、人との距離感がおかしいって」


「そこまでは言ってな……」


「高校生になって、それまでの友達とは離れ離れになっちゃったから、新しい友達つくるんだって張り切って、みんなに話しかけた。でも、クラスのみんなは私を避けるようになった。私のいない場所で、あの子ぐいぐい来て怖いよね、ウザいよね、って言われてるのを聞いたの」


「……」


「はじめ、ユウちゃんが私を迷惑に思ってたのは、わかってた。でも、友達になるって言ってくれて、あぁ、なんて優しい人なんだろうって、私、甘えちゃった。それを、後悔したの。……だから、いつかあの子が困っていたら何としてでも力になろうって……。ねぇ、ひとつだけ聞かせてよ」


 すがるように、嗚咽混じりの声で彼女は言った。


「私、ウザいかな?」

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