『嘘』あるいは『物語』②
あなたはじっと私の瞳を見つめていた。まるで叙情的な映画を観ているときのような目だ。自分では関与できない美しい物語を、ただ静かに観測しているかのような眼差しだった。
ながい沈黙の果てに、あなたは言った。
「記憶が、戻ったのか?」
私は横に首をふった。私の問いかけは、ただの状況証拠と、あなたの証言の脆弱性を集約した結果に生じたものだった。
なぜ、私と外の世界のつながりを絶とうとするのだろう。それも拘束具なんかを用意してまで。かたくなに『過去』の私について隠したがるのも気になる。仮に自分が誘拐犯だとして、記憶の障害を患った女の子は、様々な問題をクリアするのに容易なんじゃないだろうか。
大体この記憶の喪失さえ、あなたが病気だと言っているだけで、その真相はわからない。
「そうか」とあなたは言った。
私はあなたから目を離さなかった。あなたは再び自身の目元を隠すように腕を乗せた。私はもういちど口を開いた。
「あらためて言うけれど、私はただ、あなたの抱える問題を」
「朝が」とあなたは私の言葉を遮った。
「いや、厳密には朝日が、嫌いだった。子供のころの俺は、家にも学校にも居場所がなくて、生きてるのが憂鬱で仕方がなかった。こんな世界滅びてしまえって、いつも思ってたんだ。
だから一日がはじまる朝が嫌いで、それをもたらす太陽が、朝日が、嫌いだった。
なに当然みたいな面して毎日やって来るんだって、憎いってよりは、鬱陶しいって感情が大きかったな。馬鹿みたいな話だよ」
私は黙って話に耳を傾けた。
「その点、夕日は良い。なにが良いって、あとは沈んでゆくだけってのが良い。
つまらない学校が終わって、家に帰ったって母親が帰ってくるのはどうせ朝で、あとは俺の、俺だけの時間が待っている。すこしずつ自分の世界に沈んでゆく下校路の俺を、橙色の光が包んでくれていた。
夕焼けは、解放の色だ。
俺の実家も海沿いにあった。どうしようもなく泣きたいときは、波打ち際のテトラポッドに腰掛けて、消えゆく落日をいつまでも眺めていた。それが俺の、原風景ってやつになった」
ははは、とあなたは乾いた笑いを立てた。
「まぁ、どちらも同じ太陽なんだけどさ。大きくなるにつれて、やるべきことが増えて、はじめて徹夜した日に、朝も昼も夕方も夜も、すべてが一繋がりなんだって実感して。
それでも夕刻という時間帯は、俺にとって特別だった。あの光だけは、俺が俺に戻ることを許してくれる気がした。
夕刻、夕暮れ、夕焼け、夕景。そんな言葉が、概念が、現象が、どうしようもなく美しいと感じて、それで」
あなたは小さく鼻を啜ってから、言った。
「名前も知らない君を、夕と呼ぶことにした」
それですべて伝わるだろう。沈黙がそう語っていた。
「そっか」と私は言った。
「話してくれて、ありがとう」
「感想は、それだけか?」
「じゃあ」と私は視線を天井にさまよわせた。
「あなたは、どうして私を誘拐したの?」
「……普通は、家族のこととか、どこに住んでいたとか、名前とか、そういうことが気になるんじゃないか? まぁ、誘拐された記憶喪失の女の子の普通なんて、知らないが」
「すくなくとも私は、なにも思わない。『過去』の私は向こう側の生活が好きだったかもしれないけど、『今』の私はあなたとの生活が好き。ただそれだけだよ」
あなたはじっと押し黙っていたけれど、やがて小さく言葉をこぼした。
「君をさらった理由。悪いが大した理由じゃないんだ。そのとき俺は、ひどく疲れていて、子供のころみたいに、世界が終わってしまえば良いのになんて考えていた。そんなときに君と出会ってしまった。そして、魔が差した。……これで満足か?」
「あなたは、私といるのが苦しい?」
あなたは黙ってうなずいた。こちらを見てはくれなかった。
私は傍らで燃えるキャンドルに視線を移した。炎が溶けたロウに反射し、液面を黄金色に輝やかせている。いつのまにやら気化した香料が、部屋中を名前も知らない花の香りで満たしていた。
この輝きも、香りも、あなたの後悔が運んできたものだ。さっき食べた炒飯の具材も、お昼に飲んだアイスカフェオレも、私の血肉となったご飯はすべて、あなたの罪悪感が用意したものだ。
そう思うと自分の体が透明になっていくような気がした。けれど結局のところ、それら全てはあなたの選択が招いた結果だった。
私はあなたを、糾弾したくはなかった。
「じゃあ、嘘をつこう」と私は言った。
あなたは顔の上に乗せていた腕をずらしてこちらを見た。
「嘘?」
「うん。あるいは物語」
眉をひそめるあなたに続ける。
「あなたには、罪を犯さざるをえない、正当な事情があった。それを今から、ふたりで考える。ふたりで、それを信じる。どう?」
「どう……って言われても、無理だろ、そんな」
すべてを諦めたようにあなたが言う。妙案だと思っていたのでムカついた。黙ってキャンドルの火をあなたの髪に近づけると、あなたは「わかった、わかったから」と苦笑した。そこで私も緊張していた口角を緩めることが出来た。
「ただ、ふたりで考えるってのはナシだ。自分の罪を正当化する理由を、自分で考えるなんて許されない。ぜんぶ、ユウに任せるよ」
「そっか。わかった」
空想する。私は世間知らずだから、リアリティは追及しない。絵空事でも良いから、あなたが私を、私があなたを救う物語を思い描く。ふたりが出会う前の時間に、思いを馳せる。
ふいに眉間のあたりに違和感を感じた。誰かが私のひたいに指を押し当てて、力を込めているような感覚だった。ひとまずそれを無視して、脳裏に浮かんだ情景を言葉にした。
「あなたは、正義の味方なの」
「うん」
「誰も知らないけれど、この世界は滅亡へと近づいていて、あなたと仲間たちはその危機に立ち向かってる。その危機っていうのは……外宇宙からの、侵略者」
自分で言っていて笑いそうになる。思うままに語っているが、数日前にみた映画から影響を受けすぎていた。
海外のSFアクション映画で、エイリアンと地球が戦争をしている。その映画の肝になる部分は、主人公がタイムリープする能力を持っていることだ。主人公は幾度となく命を落としかけながら、武勲を立てヒロインと心を通わせていった。
けれどあなたは違う。等身大の人間で、失ったものは戻らない。だから日々の激戦による疲労や、散っていった仲間たちへの喪失感に心を蝕まれていく。
「あなたの戦う敵は、あまりにも強くて。たとえば空を飛べるとか、ほかの生き物に擬態するとか、とほうもなく大きいとか、そんな怪物ばかりで。がんばって、がんばって、そしてあなたは、壊れていった」
あなたは言葉を失ったようにじっと私を見つめている。
「そんな絶望の日々の最中に、私を見つけた。きっと私も、なにかに酷く傷つけられていた。たすけを、求めていた。あなたは正義の味方だから、私を放っておくことはできなくて。そして私も、あなたの手を握った。
あなたは私の救世主で。私はあなたの、立ち上がる動機になった。その出会いはきっと世界を救うのと同義だから。
だれもあなたを責められない。そして私も、共犯者だ」
とつぜん、眉間の違和感が痛みに変貌した。
目と目のあいだに五寸釘を打ち込まれているような、筆舌に尽くしがたい激痛だった。頭蓋骨が割れるようで、私は思わず頭を抱えてあなたに倒れこんだ。
「ユウ!?」とあなたの慌てるような声。
脳裏に、映像が浮き上がる。明滅し不明瞭な、断片的な映像。
むき出しの土のうえに、男の人が倒れている。その人はなぜか裸で、全身に無数の穴が……おそらく銃創が、開いている。溢れ出す血流と、開き切った唇と、すでに光を失った、虚ろな目。
その人は、あなたじゃなかった。知らない人だった。
場面が、変わる。私は倒れていて、黒と灰色の境界みたいな淀んだ空を仰いでいた。
「いいよ」と『過去』の私が言う。
事切れる寸前のような、掠れた声で。
「あなたを……
愛して、あげる」
音が戻る。
「ユウ! おい、どうした!」
逼迫したあなたの声が聞こえる。あなたが体を起こして、私の肩を揺すっている。私は大きく息を吸って喘いだ。潮が引くみたいに痛みが離れていく。
「大丈夫か? 今日はもう眠ろう、な?」
「これで」
「ん?」
「この物語で……私の嘘で、あなたは救われる?」
言わんとすることを悟ったのか、あなたはハッとしたように言った。
「あぁ、信じるよ。俺は正義の味方で、この世界を守っている。そして君と俺は、支え合うために手を取り合った」
「だから私たちは、いっしょにいて良い」
いつか二人で海に行ったときのことを思いだした。あのときあなたは私を抱きしめてくれた。そしてこう言った。「ずっと一緒にいてくれないか」、と。
ゆっくりと、あなたの首元に腕をまわした。私はひどく汗をかいていて、部屋に充満した花の香りがそれを誤魔化してくれることを願った。
呆然とするあなたの耳元で、私は囁いた。
「さっきの嘘は、『過去』の話。未来の私たちが、どうなるかは、わからない。いつ戦いが、終わるのかも。どうしようもなく理不尽な戦いのなかで、あなたは消耗していって、もしかしたら、命を落とすかもしれない。ある日とつぜん、この部屋に、帰ってこなくなるかもしれない」
「でも、でもね」と私は言う。
「わすれないで。私はあなたの味方だから。あなたがもう立ち上がれなくて、とても深い、深い、真っ黒な場所に落ちていくなら」
ぎゅっと、抱きしめる。
あなたの腕が、遠慮がちに背中にまわされる。伝わってくる震えに、かつて海に沈む落日を眺め続けた、子供の頃のあなたを幻視した。
夕刻、夕暮れ、夕焼け、夕景。
私はあなたの夕日だから。
あなたがもう戻れなくなった、そのときは。
「私もいっしょに、沈んであげる」
あなたが命を燃やすたび、世界はちょっとだけ平和になる 岩瀬ひとなつ @hitouatsu
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