『嘘』あるいは『物語』①

 ナナちゃんとの関係は、あなたに話さないことに決めた。


 彼女が私のもとを訪れるのは、平日の昼間の三十分だけと短かく、あなたが気づくことはないと判断した。

 彼女には諸事情で同居人と顔を合わせてほしくないと説明し、あなたの車の特徴を教え、いちど駐車場を確認してから来てほしいと伝えた。それと外出をすることはおろか、部屋に入れることも出来ないと話した。


 彼女は怪訝な顔をしていたけれど、「体が弱くて」や「家庭の事情で」と適当に伝えたら、最終的には「うん、わかった!」とうなずいてくれた。かなり濁しているが嘘ではない。便利な言葉だ。


 あなたに隠し事をするのは後ろめたかった。けれどその頃のあなたは、ながい出張から帰ってくるたびに段々と疲れの色が濃くなっていくようだった。そんな状態の大切な人に、自分勝手な問題を投げつける気にはなれない。


 ナナちゃんは部屋のまえの木に登り、枝葉のなかでランチを食べた。メニューは決まってスクランブルエッグが挟まったサンドウィッチか、卵焼きが刺さったおにぎりだった。あまり学校のことは話したくないようで、SNSや動画サイトの流行のトピックについてよく口にした。


 彼女の手にするスマートフォンは、私にとって完全に未知の存在だった。


「でもユウちゃんのお父さん……あ、いや叔父さんだっけ? きびしいねー、この時代にスマホ持っちゃいけないって。私だったら五分で発狂するね!」


「? なぜ発狂するの?」


「そりゃもう、成功している誰かをみて常に自己投影してないと、脳内麻薬がきれて禁断症状が出ちゃうからだよ!」


「え、こわい」


 こころの中であなたに感謝を伝える。私にスマホを与えなくてありがとう。


「このタイムラインをスクロールする時間がたまらな……あっ! 推しが熱愛報道されてるっ! ぬぁーッ!」


 さわがしいナナちゃんに、私は思わず笑みが漏れる。はじめは押しの強さに戸惑ったけれど、話してみれば普通に楽しい女の子だった。凪いだ海のように静かだった生活に、あたらしい風が吹いている。


 窓べりに寄りかかり、グラスに注いだアイスカフェオレを飲みながら、私はふと思い至る。


「そういえば、ナナちゃん、私が幽霊だと思ってここに来たんだよね?」


「あっ! それ言わないで、恥ずかしい!」


「たしか、誘拐された女の子が……」


「そ、そうだったら良いなーって思っただけだから! 本気にしてたワケじゃないから!」


「じゃあ、念のため、調べてもらえるかな」


「ほえ?」とナナちゃんが口を開ける。


「なにを調べるって?」


「私が殺されてないか」


「ん? んー?」


 頭にクエスチョンマークを浮かべるナナちゃんに、ちょっと強引だったかな、と反省する。切り口を変えて私は言葉をつづける。


「ごめん、冗談。私の名前で、検索をかけて欲しいんだ。前にみた映画の主人公がやってて、興味があるの」


「あー、はいはいはい、なるほどー! 誰しもやりたくなる定番だね! 私はお母さん世代の演歌歌手に同姓同名の人がいたよ!」


 そして何やらスマホの画面を操作したあと、ナナちゃんが言った。


「ユウちゃんの苗字ってなにー?」


「あ」


 しまった、と思った。自分の苗字を聞いたことがなかった。必要になる機会なんてないと思っていた。


「えと……山……だ。山田夕」


 ナナちゃんの山本に引っ張られながら適当な苗字をあげる。


「ユウちゃんも山の民だったんだね! えとねー……漢字が違う人ならいっぱいでるねー。ほえー、ジョッキーさんだってー」


「そうなんだ、ありがとう。あ、そういえば……」


 欲しい情報は得られそうになくて、私は話題を変えた。


 あとはもう、あなたに直接きくしかないな、と思った。



 ある日の夕方、あなたは紙袋を片手に帰ってきた。いつもは「ほら、ユウ、今日は高いプリンを買ってきたんだ。なんと桐箱に入ってる」みたいにご機嫌で渡してくれるお土産。


 けれどその日は気まずそうに私から目をそらしながら、「はい」と手渡しされた。


 なんだろう、と中を覗くとお洋服のようで、取り出してみるとそれは学校の制服だった。しかも近所にある、つまりはナナちゃんの通う高校指定の夏服だ。


 私は跳ねるようにあなたを見た。ナナちゃんとの関係がバレたのかと思った。けれどあなたは何を勘違いしたか言い訳するように言った。


「いや、この前、あの高校の制服がかわいいって言ってただろ。俺も学校に行かせてやれないのは申し訳ないと思ってたからさ、形だけでもな。どこから手に入れたかは聞かないでくれ」


 そういえば会話の流れでそんなことを漏らした気もする。手にした制服に目を落とす。かわいいお洋服はたくさん買ってもらっていたけれど、その制服は純粋にデザインが素敵なだけでなく、なんだか知らない世界の一端に触れるようで、見ているだけで心臓の鼓動が早くなった。


「ありがとう。ほんとうにうれしい」と私は制服を胸に抱きながら言った。まぶたが柔らかく細まるのを感じた。


「なら良かった」とあなたも笑う。それからシャワーを浴びたいと言って脱衣所の方へと入っていった。ちょうど良いタイミングだと思い、私は制服へと着替えた。


 足枷が邪魔なのでスカートを頭からかぶる。タイは結び方がわからないので、雰囲気でそれっぽく結ぶ。膝の下まで、ソックスを引きあげる。玄関の姿見の前に立って、すっかり女子高生の格好をした自分を見つめる。


 妄想する。この服を着たまま、私はあなたに「いってきます」と言って玄関を出る。アパートの前の街路樹には桜が満開に咲いている。意気揚々と歩く私の横で、追い付いてきたナナちゃんが自転車を降りて「おはよう」と言う。そのまま二人で中身のない話をしながら学校へと向かう。


 その先の風景が思いつかなくて、現実へと意識を戻した。


 姿かたちを真似たところで、私の本質は変わらない。


 さて、と私は姿見から離れる。あなたが浴室から出てくるまでに、ご飯を作ろうと思った。その頃のあなたは気丈に振る舞っていても、目の下の隈や肌のハリから無理をしているのが伺えた。まるで出会ったころに逆戻りしていくようで、私はひどく心が落ち着かなかった。


 制服を汚したくないのでエプロンをした。冷蔵庫から自然解凍済の豚肉とネギをとりだす。あなたはきっとお腹がすいているだろうから、手早く炒飯を作る。具材を炒めていると背後に気配を感じた。部屋の入口に髪を濡らしたままのあなたが立っていた。


 なにも言わずまじまじと見つめてくるから、私は「どうしたの?」と訊いた。


「いや」とあなたは無精ひげをさすりながら言った。


「なんだか夢でもみてるみたいだったからさ。俺の家で制服姿の女の子が料理を作ってる」


 私はいったん火を止めた。そしてエプロンを脱いで、あなたに正面から向き合う。とりあえず見て欲しかっただけなのだけど、あなたがポカンとした顔をするから、私も何だか気恥ずかしくなった。ナナちゃんの真似をして、顔の横に作ったピースサインを小さく振りながら、私は「どうかな?」と言った。


「あ、あぁ。すごく似合ってると思う。俺の人生は間違ってなかったんじゃないかって思えてきた」


「なにそれ」


「なんでもない、忘れてくれ。そうだ、ご飯作ってくれてるんだな、ありがとう。久々に酒でも飲もうかな」


 そう笑顔で言うとあなたは冷蔵庫から缶ビールを取り出す。冷蔵庫にお酒があるのは知っていたけれど、私の前で飲むのは初めてだった。なんにせよ上機嫌なようで私も嬉しくなった。調理を終わらせて二人分のお皿をテーブルに持っていった。「ありがとう」とあなたは微笑んだ。


 あなたはあまりお酒に強くないらしく、ご飯を食べ終わる頃にはすっかり顔を赤くしていた。


「その部下がほんとに優秀でさ」とあなたがいつもより大きな声で言う。


「俺の指示を100パーセント忠実守ったうえで、自分なりのアレンジを加えて130パーセントの結果を出すんだよ。正直あたまが上がらないんだけど、そいつは俺を慕ってくれてるみたいだから『よくやったな』なんて言ってみて、いや何様だよって感じ」


「なら、あなたもすごい人なんじゃないかな」


「そんなことないさ。俺なんか人の上に立つ器じゃない」


「でも私は、あなたといて幸せだと思ってる」


「それは……いや、そう思ってくれるなら、嬉しいよ」


 それからあなたは「ごめん」と言って席を立つと、カーペットの上で仰向けになった。「悪酔いしたみたいだ、疲れてるのかな」と腕を瞼のうえに乗せながら言った。


 私も席を立つと、あなたの贈り物が積まれた部屋から小さな箱を持ってきた。中に入っているのはアロマキャンドルだった。透き通ったロウのなかに、真紅のバラが浮いている。そのキャンドルをあなたの頭の近くにおき、一緒に入っていたライターで火をつける。部屋の電気を消すと異変に気づいたあなたが「ユウ?」と呼びかけてくる。


 私は無言であなたの傍らに立った。闇夜に沈んだ音のない空間で、ふたりの周囲だけが、儚くも鮮烈な夕陽色の灯りに染まった。


「これから質問することは、」と私は切り出した。


「決して、あなたを拒絶する意志で訊くんじゃないってことを、理解して欲しい。これは私なりに考えた、あなたの力になる方法。あなたがどんな仕事をしているか、私はくわしく知らない。けれど、せめて、私があなたの人生の重荷になることは、避けたいと思う」


「ユウ?」と再びあなたが名前を呼ぶ。


 私はゆっくりと、あなたの体をまたぎ、そしてお腹のうえに腰を下ろした。衣擦れの音と、おしりの下に感じる熱い体温。私は呆然とするあなたの頭の両脇に手をつき、覆いかぶさるような姿勢になる。


 あなたの顔に垂れ落ちてしまった髪の束を、耳にかきあげながら私は続ける。


「これは、正直なところ、あなたと暮らし始めたころから抱いていた疑問。というか、いちど、聞いたこともあったっけ。たしか、海に行ったときかな」


 私はちらりと、自分の右足に視線を送る。銀色の鎖にキャンドルの光が反射する。


「深くふみこめば、あなたの機嫌を損ねると思っていた。じっと黙っていれば良いと思っていた。でも実は最近、きっと、それじゃ何も変わらないと気づける出会いがあって……私が踏み出さなきゃ、あなたを元気づけることが出来ない、って思った。だから、教えて。抱えているものを、私にも分けて」


 少しだけ潤んだあなたの瞳を見つめながら、私は言った。


「あなたは、私を誘拐した?」

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