お人よし①
それから私たちはよく会話をするようになった。
たまの休日にあなたが帰ってくると、ふたりで食卓を囲みながら他愛のない話をした。あなたは自分の思い出話や仕事での出来事を、私はとくに語れることもないから、その日にみた映画や小説の感想を口にした。
明確に私たちのあいだに何か変化があったわけじゃない。でもあなたは悟ったんだと思う。
私があなたを拒絶しないことを。
あの日あなたが語った『ずっと一緒にいてくれ』という言葉は、それまであなたがしてきた保護者としての振る舞いからは、逸脱しているように思えた。狼狽し私を抱きしめた姿を思い出す。あなたが私に向ける感情は、私が想定していたよりも濃密なものなのかもしれない。
ならば私は、それに答えたいと思った。社会能力のない私にとって、あなたの存在は生命線そのものだし、それを抜きにしてもふたりで過ごす時間は心が安らいだ。私の狭い世界であなたの占める比率はあまりにも大きい。そのうち、あなたが喜ぶと私も自分の口許がほころぶのを感じるようになった。
それもすべて、あなたが私を大事にしてくれていたから起こった変化だ。
「その後、お父さんが大きい魚になった」と私はハンバーグを切り分けながら言った。もちろん実父のことではない。あなたが借りてきてくれたDVDの感想だ。
「あぁ懐かしいな、俺も学生のころにみたよ。たしか最後、お父さんのついていた嘘が、ほんとうは部分的に真実で、って結末なんだよな。すごくやさしい物語だと思った。めちゃくちゃ泣いたような覚えがある」
「? いや、最後は伝説の剣を抜いた息子が、怪魚ファザーフィッシュを倒しておわり」
「え……俺もしかしてパチモンのDVD借りてきた?」
おいしいごはんを食べながら、他愛のない会話を積み重ねる。目の前にあなたがいる、その事実が当たり前になっていく感じがこそばゆくて、私はつい笑顔になる。
「そういえば後輩が面白そうな映画を教えてくれたんだ。今度ふたりで観に行こう」
「うん、わかった」
「あいつのセンスは外れがないからなぁ。……いつか、君にも会わせてあげたいな」
あなたの発言に、私は「え」と言ってしまう。
「ん、どうした?」
「てっきり、あなたは私に友達ができるようなことを、避けてるんだと思った」
それを聞いたあなたは気まずそうに耳の裏をかきながら言った。
「あ、あぁ。でもそれはあくまで、君に悪影響がありそうな場合の話だ。むしろ良い影響がありそうな、信頼できる相手なら、積極的に会って欲しいと思ってる。束縛するようで悪いと思うけどさ」
「そっか」
私はいつもどおり淡白な返事をしたけれど、胸の鼓動が早まっているのを感じていた。
そのときの私には、あなたに隠していた秘密がひとつだけある。
私には一人だけ友達がいた。
名前をナナちゃんという。
◆
彼女に出会ったのはあなたと海に行った一週間後くらいのことだ。
出会ったのは、というふうに言ったけれど、実際は向こうが一方的におしかけてきたと表現した方が正しい。ともかく彼女は私とあなたの聖域へ、ずかずかと土足で入り込んできた。
たしかお昼をすぎたころの時間。冷房の効いた部屋でカーペットに寝そべり小説を読んでいた私の耳に、コンッという何かと何かがぶつかる小さな音が届いた。
すこし前にカナブンのような甲虫が窓ガラスにぶつかり、同じような音を立てるのを見ていたので、気にせず物語の世界へ意識を戻した。けれど数秒もすると、また同じ音がする。さすがに気になり窓に視線をうつす。レースのカーテンが邪魔でよく外がみえない。また音がして、私は立ち上がる。
カーテンに手をかけ、ゆっくりと外をうかがった私は、思わず「ひっ」と息を飲み込んだ。しっかりと恐怖という感情を体験したのは、後にも先にもあの瞬間だけだった。瞼を見開いたまま私は硬直した。
そこには一人の女の子がいた。
まず前提として、私たちの部屋は二階にある。そして私のいた部屋は玄関とは対角にあって、つまるところ窓のそとに通路や廊下のようなものはない。初夏に青々としげった街路樹の桜が、伸び伸びと枝を広げているのがみえるだけだ。
その梢をかき分けるようにして、女の子が顔をだしている。かろうじて人の体重を支えられそうな枝に両足を乗せ、今まさに投げようとしていたらしい手折った細い枝を振りかぶったまま、数メートル先の距離から私をみている。
彼女は学校の制服を身に着けていた。アパートの近所にある高校のものだ。真っ白な布地のうえに木漏れ日が揺れていた。
ふいに彼女は向日葵のように満開に笑ったかと思えば、枝を握ったままぶんぶんとこちらに手をふってくる。そのまま何やら口を動かしていたので、私はおそるおそる窓を開ける。数日前に動物番組でみた排泄物を投げつけてくるチンパンジーが脳裏をよぎり、網戸はしっかり閉めた。
はきはきと溌溂に女の子は言った。
「やぁやぁ、はじめまして幽霊ちゃん!」
……何の話?
あまりにも元気いっぱいに言うので、自分が本当は幽霊なのかと心配になる。大丈夫、ちゃんと足がある。足がなければ足枷の意味がない。
「あの、人違いでは」
気圧されながら蚊の鳴くような声で言うと、女の子は「あー! ごめんごめん!」と笑った。
「学校のみんなが幽霊って呼んでるから、つい!」
だから何の話?
これがあなた以外の人間とのファーストコンタクトという事実など、頭から抜け落ちていた。
「私、山本奈々っていいます! 幽霊ちゃんの名前は?」
「え、夕、です。夕暮れ、夕焼けの、夕」
「うおおおおおお! なにその自己紹介かっこいい! 私もやりたい! 七草粥の奈々です! あ漢字がちがうっ!」
段々と近所迷惑が気になってきた。ただ幸いにもアパート四部屋のうち、一部屋は空室、ほか二部屋は平日の昼間は仕事へ出ているので心配はなさそうだった。
……というか平日の昼間に、この子、学校は?
「そうそう、私幽霊ちゃんと友達になりたくて来たの! どうかな!?」
「ど、どうかな?」
「友達になってくれる!?」
こ、こわい……。圧が、こわい。
あなたとの会話では「そっか」とか「うん、わかった」なんて即答してばかりの私も、さすがに答えを迷った。
彼女のビー玉みたいにまん丸な目が見つめてくる。黒くまっすぐな私の髪とは対照的に、彼女の髪は色素がうすく、そしてふわふわと柔らかなパーマを描いていた。
すっかり怯えながら、私は言った。
「か、考えさせて」
「わかった!! じゃあまた来るからお返事聞かせてね! アデュー!」
彼女はそう言い放つと前触れもなく、ピョインと枝から飛び降りた。
あらためて言うけれど、そこは二階の高さがある。唖然とする私を尻目に彼女は見事な着地を決めた(それもパルクールでみるような、前転で衝撃を殺す方法で)。そして路上に止めていた自転車にまたがると、立ちこぎで颯爽と桜並木を駆け抜けていった。
私は彼女の背中が曲がり角に消えるのを見つめていた。
……これは、夢?
ほっぺをつねってみた。
当然のように痛かった。
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