水底の記憶
それから、あなたと私の生活が始まった。あなたは自分のことを、どこにでもいる企業勤めの独身男性だと言った。
ひどく歪んだ始まり方をした新生活だったけれど、私はまるで水槽を移しかえられた魚みたいに、素知らぬ顔でその環境に順応した。それはひとえにあなたが私に適した水質を用意してくれたから出来たことだ。
ごはんも、おようふくも、本やDVDも、すべてあなたが用意してくれた。あなたが帰ってこない日のために、私もすこしずつ家事を覚えていったけれど、ほんの少しだけお料理をして、お洗濯をして、あとはぼーっとしていられた。
初対面のときは死人の一歩手前のような目をしていたあなたは、ちょっとずつ元気を取り戻していった。数日家をあけたかと思うと、いろいろなお菓子とか本とかお洋服とか、私が喜びそうなものを手当たり次第に買ってきて、期待にみちた目で私の反応をうかがってくる。
ふたりの生活がはじまって一カ月もするころには、きれいに片づけたアパートの一室は、私のお洋服やぬいぐるみ、雑貨で溢れかえった。
私はかつての自分がどんな生活をしていたのかという記憶は失っていたけれど、固有名詞や一般常識のように普遍的な情報は思い出すことができた。
そして私が解釈する限り、あなたの『贈り物』の量は、仮にそれが本物の仲睦まじい父娘だとしても度がすぎていた。
ただそれは、あなたが私に課したひとつの制約の、対価のようなものだったのかもしれない。
「絶対に、絶対に部屋の外に出ないでくれ」とあなたは言った。
あなたがどうしても仕事にいかなくちゃいけなくて、私がはじめて一人になる日の朝。あなたは今にも泣きだしそうな顔で嘆願してきた。
「うん、わかった」と私は玄関先でうなずいた。もう何度も同じお願いをされていて、すっかりうなずくのに慣れていた。
外の世界に興味はあったけれど、あなたの言いつけを無視してまで踏み出す気にはならない。
なにより……そのとき私の左の足首には、足枷がはめられていた。絶妙な長さに調整された鎖のせいで、私は部屋のなかは自由に動けるけれど、窓や玄関から出ることが物理的にできなくなっていた。
ただ足枷とは言っても、たとえばフィクションの囚人がつけているように無機質で寒々しいものではない。あなたが用意したそれは、黒いベルトに水色の細いリボンのついた、オシャレのワンポイントとよんでも通用しそうな洒落たものだった。
「悪いけど、くわしい理由を話すことはできない」とあなたは言った。
「だけど、これだけは理解して欲しい。この部屋の外は、ユウにとって致命的な危険がたくさん潜んでいる。絶対に、ひとりで外に出てはいけない。そしてこの足枷は、万に一つにでもユウが間違えを犯さないように守るためのもので……つまるところ、俺が安心するための保険なんだ。窮屈かもしれないが、ごめんな」
彼の言葉の真意を知ったのはそれから半年近く後のことだ。当時の私には具体的にその危険というものが何なのか分からなかった。
窓のそとから見える景色は平和な街並みそのものだったし、テレビのニュースも散発的な事件事故の報道をのぞけば、とりたてて外出を制限するような必要はないように思えた。
私と同年代の子供たちが、制服を着てアパートの前の桜並木を自転車で駆け抜けていった。
私だけが、世界から取り残されている。
とはいえ自分が同伴するという条件でなら、あなたは色々な場所に連れ出してくれた。
たしかあれは、初夏のことだった。
あなたが始めてふたりで出かけようと言ってくれた日。どこへ行きたいか尋ねられた私は海岸とこたえた。あなたのアパートは小高い丘のうえにあり、それも二階の部屋で、窓からは太平洋がみえた。いずれ足を運んでみたいと思っていた。
あなたに買ってもらった真っ白なワンピースを着て、足には愛らしい花飾りのついたサンダルをはいたまま、私は波打ち際に立った。冷ややかな白波が足首をおおい隠す。抜けるような昼下がりの快晴に、水平線がくっきりと分かれて見えた。
潮風にあばれる髪をおさえながら、私は砂浜に座るあなたを振り返った。率直に言って私は間近でみる海原に感動していた。
あなたはその日の海みたいに穏やかな眼差しで私を眺めていた。視線が合うと「危ないから、あまり遠くに行かないでね」と笑った。
ふいに、この人にとって私は何なのだろう、と思った。
記憶が始まった日に説明されて以降、私は彼との関係に踏みこむような質問をしていなかった。自分は後見人のようなものとあなたは言った。でもこの際、そんな続柄の話は関係ない。
重要なのはあなたが私を大切にしてくれていること。それもまるで花を愛でるように甘やかしてくれることだった。
この無償の奉仕の、動機はなに?
まっすぐあなたを見つめながら私は言った。
「あなたにとって、記憶を失う前の私はどんな存在だった?」
あなたはぴくりと眉を動かしたあと、無精ひげをさすりながら言った。
「べつに今と変わらないさ。俺が生活をささえて、ユウはのんびりと生きる。ただそれだけの関係だった」
「それであなたに、なにか得があるの?」
「そんなのはない。身寄りのない十代の子供がいて、俺にはまとまった収入がある。おまけに君は……脳にいつ爆発するともしれない、大きな爆弾を抱えている。それ以上、理由が要るかな?」
その主張は説得力に欠ける気はしたけれど、あなたが根っからの善人であれば全うな理由のように思えた。
次の言葉を選んでいると、あなたは何を勘違いしたか気恥ずかしそうに頬をかきながら言った。
「それと、君が綺麗な女の子だからってのもある。いや、決して変な意味じゃないんだ。ただ、俺は恋人も趣味もない退屈なおっさんで、そんな男が急にユウみたいな子の保護者になったら、そりゃ甘やかしたくもなるさ」
それを聞いて、そういえば、と思う。
あなたは私の父と縁があって私と暮らすようになったと話していたけれど、それはいつからの頃なのだろう? つい最近のできごとなのか、あるいは物心つくまえから、あなたはずっと私の隣にいたのだろうか。
「私はいつから、あなたと暮らしているの?」
「ん? あぁ……三年くらい、前かな」
「そっか」
そう答えてから、あれ? と思う。
脳裏によみがえるのは、あの夕暮れの部屋の記憶。
憔悴しきったあなたの表情と、ゴミが散乱し荒れ切った部屋。そこに、いまの私たちが住む、さっぱりと片付いた空間の面影はなくて。
しっかりとあなたに向き合い、私は言う。
「なぜ『今』の私が目覚めたとき、あなたはあんなに弱っていたの? それに……いつもくれるたくさんのプレゼント。もう部屋いっぱいになってるけど、あれはぜんぶ『今』の私になってからもらったもの。あの部屋には『過去』の私の痕跡がない」
それは、なぜ?
誤解しないで欲しいのだけれど、私はあなたに疑念とか懐疑的な感情を抱いたわけじゃない。ただ自分の認識と現実の乖離の穴うめをしたかっただけだ。
あなたは露骨に嫌そうな顔をした。けれど懸命に言葉を探してくれているようで、「あー……」というながい前置きをしてから言った。
「記憶を失う前の君は、ひどく倒錯した状態にあったんだ。はじめは良かったんだが、段々と周囲の環境や人間関係にほころびが生まれて、精神がまいってきていた。だから新しい君に悪影響がないよう、『過去』の君の痕跡は消させてもらった。……これで良いかな?」
「そっか、わかった」
私は即答した。
「……君はすぐそう言うけど、ほんとうに話を理解してるんだよな?」
「うん、だいじょうぶ」
「……ならいいんだが」
あなたは困ったような顔をする。
私は満足して、ふたたび海に向き直った。おおきく伸びをして、潮のかおりを胸いっぱいに吸い込む。なんだかとても、清々しい気持ちになる。
すこし先の波間で、ちいさな魚が泳いでいた。陽光に反射して銀色に光るそれが気になって、私は水深の深い方へと歩みをすすめる。
あぶないと呼びかけるあなたの声が聞こえ、次の瞬間、私の視界はおおきく乱れていた。どうやら水底の石か何かを踏んだらしく、なれないサンダルをはいた私は、波にさらわれるままバランスを崩し転倒した。
水中に没する。音が、遠くなる。たくさんのあぶく。水面の波紋にあわせて、太陽の光がゆれる。
転んだのはせいぜい数十センチの浅瀬で、私はすぐに手をついて浮上した。
けれど明確に、一瞬だけでも、私は命の危険を感じた。
やけに眉間がひどく痛んで、続けて脳裏にひらめく映像があった。
きっと、ちょっとした走馬灯みたいなものだったのだろう。消失したと思っていた『過去』の私が、どこか心の深いところに眠っていて、大きな衝撃にすこしだけ目を覚ましたのかもしれない。
私はだれかに抱きかかえられていた。いわゆるお姫様だっこというやつだ。まぶたをうっすらとしか開けていないらしく、視界は暗くかすんでいた。暗雲たちこめる空を背景に、人の顔があった。ぼやけているが、どうやらあなたのようだ。
ちいさくうめくように、あなたが言う。
「だめだ、こんなのは、許されるわけがない」
あなたの顔との距離がとおくなる。どうやら降ろされているようだ。天を仰いでいた私の首がカクンと下がり、自分の膝小僧のあたりに視界がうつる。周囲の景色はみえない。四方をかこむように、黒い壁のようなものがある。
私はちいさく丸まったような姿勢で、なにかの入れ物のなかに押し込まれていく。
「俺は……大罪人だ」
チャックの閉まる音がして、世界が暗闇につつまれる。持ちあげられたらしい衝撃が全身をおそって、あとはちいさな揺れと、断続的に土を踏む音。
やがて微睡むように、意識を手放す。
そんな、記憶。
「――……ウ、おい、ユウ!」
はっとした。
世界に色がもどる。真っ青な空を背に、あなたの顔が間近にあった。さっきまでとは違い、明瞭に、表情まではっきりとわかる。怒ってるとも泣いてるともわからない激情的な顔で、腰まで海水に浸かったまま私の肩をゆすっている。
「あ……ボーっとしてた」
そう返すと、あなたは一瞬だけ呆けたようになって。
次の瞬間、力強く私を抱きしめた。
私はちょっとだけ「わっ」と驚いた。当時はあなたと暮らし始めてから一か月くらいで、それまでのあなたはよそよそしいというか、私の機嫌をうかがいながら一定の距離を置いているような気配があった。
だからこんな、感情を直接ぶつけるような行動をされて私は戸惑った。私は海中を漂うクラゲのようにふわふわと生活していたから、こんな事態にどうすれば良いかわからなかった。
とりあえず謝った。
「ごめんね、転んじゃって。あなたは危ないって言ってたのに。……買ってくれた服、濡らしちゃって」
「いや、いいんだ。俺もおおげさに取り乱して、すまなかった」
そう言ってあなたは体を離し立ち上がった。差し伸べてくれた手を借りて私も立ち上がる。びしょびしょのワンピースが体にはりついて動きにくい。
あなたは私の手をにぎったまま、波打ち際へ歩き出した。
「なぁ、ユウ」と前を歩くあなたが背を向けたまま言う。
「さっきの、君が転ぶまでにしていた話なんだが……君が俺を、いろいろと怪しいとか、不審だとか思う気持ちはわかる。外出を禁じるために足枷まで用意したり、バカみたいな量のプレゼントをしたり、何なんだコイツって怖がる方が自然だ」
私は首をかしげる。べつに私はあなたを怖がったりしていない。ただあなたの行動が常軌を逸していたり、問い詰めるような質問をした自覚はあるので、ひとまずはあなたの話を聞いた。
「それを踏まえたうえで……どうしても、お願いしたいことがある。そのためなら俺は、どんな代償を払っても構わない。だから……」
あなたが足を止める。振り返らないので表情はわからない。つかの間の沈黙に、波の音だけが溶けて消える。
やがて決心を固めたような声色で、あなたが言った。
「俺のそばから、離れないでくれ。俺が君を守るから。そして……この先もずっと、一緒にいてくれないか」
「そっか、わかった」
あなたが振り返る。困ったように苦笑しながら。
「君は本当に、話の意味をわかっているのか?」
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