あなたが命を燃やすたび、世界はちょっとだけ平和になる

岩瀬ひとなつ

夕刻、夕暮れ、夕焼け

 あなたと出会った日のことを……いや、この表現は的確じゃない。あなたとこの部屋で初めて話した日のことを、思い出した。


 うっすらと瞼を開く、私の目を焼く西陽。

 ぼんやりする頭のまま目をすがめて辺りを見渡すと、知らない場所……後に私の聖域となるアパートの一室だった。


 今となっては必要最低限の家具しか置いてない小奇麗な部屋だけど、当時はあちこちに腰の丈くらい積み上げられた書籍の塔が立ち並び、その合間にペットボトルやお弁当のトレーといったゴミが散乱していた。床に転がる私の目から見上げるオレンジ色に染まったその光景は、どこかの遺跡群のように見えた。

 

 そんな雑然とした部屋のなかで、あなたは逆光を背にして椅子に座っていた。うなだれるように頭を垂れ、なにかに祈りをささげるように両手の指を絡ませている。かたく目をつむっていたようで、私の目覚めに気づくまでたっぷり数十秒はかかった。


 はっと私の方に顔を向けたあなたの瞳は、泥沼のように淀んだ色をしていた。


 沈黙のあと、あなたは顔を強張らせながら私に言った。


「……君は、自分が何者か覚えているか?」


 その声色は純粋な問いかけというより、詰問するような鋭さをはらんだものだった。まるで『お前は自分が何をしでかしたか、分かっているのか』と責め立てるような。


 曖昧模糊としていた意識が、少しずつ覚醒し始めていた。ゆっくりと言葉の意味を咀嚼し、考え、やがて私は首を横にふった。


 自分の名前も出自も、ひとつたりとも分からなかった。そのときの私の記憶は、夕暮れに染まったこの部屋から始まっている。


 長い沈黙のあと、あなたは一言だけつぶやいた。


「……そうか」


 あなたが再び視線を落として、私は手持ち無沙汰になる。そのときになってようやく、私は自分の両手首と足首が太い鉄線でぐるぐる巻きにされていることに気づいた。

 素裸のうえにオーバーサイズの黒いパーカーを着せられ、私はイモムシのように転がされている。


 そのときの私は自分が何者かもわからないまま、得体の知れない男性に、いちどは裸に剥かれたであろう格好で拘束されていたのだ。


 ただそんな状態にあっても、私は特に焦りや戸惑いを覚えたりはしなかった。なぜ自分は何も覚えていないのだろうという純粋な疑問は湧いたけど、それはまるで『昨日の夜なに食べたっけ?』のように緊張感のかけらもないものだった。


 むしろ平静でいられなかったのは、あなたの方だ。


「そうか、そうだな」と、あなたはおもむろに言った。視線は私を向いていない。


「やっちまったもんは仕方がない。そうしないと俺は壊れていた。いや、とっくに壊れてたからこんなことになったのか……。まぁいい、とにかく現実を直視するんだ。そうするしかないんだ」


 うつろな表情でぶつぶつと呟いたあと、あなたは顔をあげた。数分前に向けられた険しい表情とは打って変わり、あなたは目じりをやわらげ、敵意のない笑みを浮かべている。色濃くにじんだくまの浅黒さだけが、異様に浮き出て見えた。


「ごめん、状況を説明するよ。とりあえず、そんな格好にして悪かった。わけあって君の自由を奪う必要があってさ、決して害を加えようってわけじゃないのは理解して欲しい。というかむしろ、君を守るための処置なんだよ。証拠をみせろって言われたら困るけど……とりあえず信じてくれるかな」


 あなたは不安そうに言ったけれど、私に疑うつもりは毛頭もなかった。当時の私には他人を疑うという選択肢が、そもそも湧いてこなかった。


 私が黙ってうなずくと、あなたは安堵の溜息をついた。だけどすぐに表情を硬くして、


「じゃあまず……そうだな、俺が誰かってことから。俺は君の後見人みたいなものだ。色々あって君のご両親は君と生活をすることが出来なくなった。血縁はないけど君のお父さんと縁があって、なんやかんやの末、俺と君は共生関係にある」


 あなたは私の様子を伺いながら言葉をつむぐ。両親という単語が出ても何の感情も浮かんでこなかった。そうなんだ、と思っただけだ。


「そして君の記憶についてだけれど、まぁ、そういう病気なんだ。ある日とつぜん記憶が飛んでしまう。今がちょうどその時ってわけ。手足を縛っているのも、目覚めた君が錯乱して暴れたりするのを危惧してのことだから、気を悪くしないで欲しい」


 そこまで言うとあなたは椅子から立ち上がり、私のほうへ歩み寄ってきた。大柄なあなたの影が逆光を受けながら立ちすくんでいる。床に寝そべった私から見上げるあなたは、神話に出てくる荘厳な巨人のようだった。


「なにか質問はあるかな?」とあなたは言った。


 やや考えて、私は言った。


「なぜ私は下着をつけていないの?」


「あー……記憶がなくなる直前の君は、お風呂に入っていたんだ、うん」


 気まずそうに頬をかきながらあなたは言うと、私のすぐそばにしゃがみこんだ。ジーンズのポケットからニッパーを取り出し、私の手首に巻かれた鉄線を断ち切った。つづいて足元に回り、足首の拘束も解いてくれた。


 ジーンズのベルトループに、ホルダーのようなものが掛かっているのに気づいた。そこには黒く武骨な何かしらの道具が収められていた。それが大型のスタンガンだと気づいたのは、数か月後にあなたとスパイ映画を観たときだった。


「あぁ、そうだ」とあなたは言った。


「大事なことを言い忘れていた。君の名前だ」


 私は強張った体をほぐしながら上体を起こした。しゃがんだままのあなたと視線がかさなる。さっきも思ったけれど、ひどく淀んだ……いや、疲れ切った目をした人だと思った。


「『ユウ』。それが君の名前だ。夕刻、夕暮れ、夕焼けの、『夕』だ」

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