第六話
来ないで。どうか、お願いだから。心の中で懇願しても足音が止まるはずもない。
すぐ背後まで気配が迫って来て、わたくしは振り返らずにはいられなかった。
そこに、驚きに染まるレオンの顔がある。
「待っていなさい、と……言ったでしょう?」
「――――」
「乙女の、秘密を覗く、だなんて。王子殿下ともあろう者が、はしたない、ですわ」
言葉が途切れ途切れになってしまうのはどうしようもなく、溢れ出るものを誤魔化すことも不可能。だからもう開き直ってやった。
一瞬にしてレオンはすぐに今の状況を理解したらしい。さすが元神童様だけある。
彼は今まで聞いたことがないくらい、全力であろう声を響かせ、叫んだ。
「ベルが……! シェリル、来てくれ!」
それを聞いて、「は、はいっ」と慌てて木立の向こうからシェリルがすっ飛んでくる。
亜麻色の髪を振り乱しながら走ってきた彼女は、わたくしの姿を見るなり顔を強張らせ、足を止めた。
「何があったんですか!?」
「僕にもわからない。だが、危ない状況なのは確かだ。早く治癒を頼む!」
「わかりました! ベルティーユ様、今、助けますから」
突然の事態に混乱しているだろうに、迷わずわたくしへの治療を始めるシェリル。
彼女はまさしく聖女の鑑だ。その力で、慈愛で、今まで一体どれだけの人の命を救ってきたことか。
――けれど、彼女とて、何もかもを癒せるわけではない。
「治癒が効かない!?」
シェリルの手から発せられるあたたかな魔法は、わたくしの体をするりと通り抜けてしまう。
当然だ。これは病でも傷でもない。時戻りの代償の支払いの
鮮血が漆黒のドレスを濡らし、流れ落ちていく。
それと同時にわたくしの存在がこの世から薄れるような、そんな気がした。
本当にこのまま塵も残らずなくなってしまえればどんなにいいだろう。
今すぐ消えてしまえるのなら、必死に無駄な奮闘を続けるシェリルの姿に目を向けなくても済むのに、と思った。
「嫌、嫌です、待ってください。ねぇっ。魔王にやられたんですか。まさか、後遺症が今になって現れた? 私たちを庇って、前に立ってくださったから……!」
見当違いも甚だしいことを言いながら、シェリルは涙を流していた。声は震え、可愛い顔はくしゃくしゃになってしまっている。
レオンは泣いてはいなかった。でも、苦しそうな顔は油断をすれば今にも泣き出しそうに見える。
つい先ほどまでの楽しげな笑顔がまるで嘘のようだった。
世界を救った悪女の
こんな顔をさせるつもりではなかった。わたくしは、こんな顔をさせないために頑張ってきたのではなかっただろうか。
わからない。二人がこんな顔をする理由が理解できなかった。
だからつい、子供のような弱々しい声で訊いてしまう。
「泣か……ないで。どうして、泣くの?」
悪辣で、傲慢で、わがままで、どうしようもない女だったはずだ。最初から最後までそのように演じ、振る舞ってきたのだ。
わたくしのために流す涙なんて、あなたがたにはない。家族は悲しみもしないだろうから、誰一人として泣かれることはないと思っていた。――なのに。
「ここで、こんなので終わっていいわけがないじゃないですか! 私はまだ、ベルティーユ様に受けた恩を一つも返せてない!」
「あら……そんなこと、ですの? 借り、など……作った覚えは、ありません、わよ?」
逆に、わたくしの方が借りを返し切れたか怪しい。一度目の人生だけではなく、今回だって旅の道中のあれこれやら怪我人の治療やら、様々な負担を負わせてしまった。
わたくしにできることは全力でやり切ったと自信を持って言えるけれど、それだけでは精算できるはずもない。
けれどそんな本音は押し隠して、笑みを浮かべた。
「わた、くしは……生きたいように、生きた。世界も、救って、みせましたわ。だからもう、充分……」
「ベル、死ぬな。たとえ君が充分でも、僕もシェリルも何も納得していない。ずっとおかしいと思っていたんだ。せめて説明してもらわないと、夢見が悪いじゃないか。頼むよ」
「教えて、やりません、わよ。だって……わたくし、悪女、ですもの」
「待ってくれ。ベルは僕の婚約者だろう。妃としての輝かしい未来が待っているはずだろう。こんなところで終わるのは間違ってる――!!」
いいや、間違ってなんていない。
わたくしはわたくしの生きる意味を正しく果たしたのだから。
「素敵な、お誘い……ですわね。ですが……お断り、ですわ。わたくし……あなたがたが嫌い、ですので。あなたがたは、勝手に、わたく……しの華々……しい功績……を盗んで、悪人に……なればいい」
まるっきり嘘だった。大好きで、何よりも守りたいと思ってきた人たちに、わたくしは呪詛を吐く。
わたくしが奪ってしまった栄光は彼らに正しく得てもらわなければならない。そのために、とびっきりの悪女を演じ切ってやるのだ。
ちかちかと視界が明滅していた。声なんて、もうほとんど出ていない気がする。
すぐそこまで訪れている終焉を感じ、全身が冷たくなっていく感覚。
わたくしは今も、美しく嗤えているだろうか。
「せいぜい……二人で、お幸せに」
すすり泣く聖女の声、「ベル」と幾度もわたくしの名を呼ぶ英雄の声が聞こえた気がしたけれど、きっとそんなのは幻聴だ。幻聴だと思い込むことにした。
わたくしは静かに目を閉じて――そのまま二度と開くことはしない。
「置いて逝かないでくれ。好きなんだ、ベルティーユ」
最後に唇に感じたあたたかさは一体何だったのか、わからない。
考える暇もなく自分が失われていくことが、わたくしはなぜか悔しかった。
時戻りの悪女は戦場を行く 〜全てを滅ぼして、嘲笑って、救ってあげましょう〜 柴野 @yabukawayuzu
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