トレンチコートマフィア
島原大知
本編
2024年7月16日、翔太は、電車の車窓に映る自分の顔を見つめていた。黒縁の眼鏡の奥に潜む目は、どこか虚ろで、生気を失っているように見えた。朝の通勤ラッシュの中、人々は無表情に立ち尽くし、まるで人間性を失った人形のようだった。
車内アナウンスが次の駅名を告げる。翔太は深いため息をつきながら、鞄を握り直した。22歳。大学を中退し、今はコンビニエンスストアでアルバイトをしている。高校時代のいじめられた記憶が、今でも彼の心に重くのしかかっていた。
「この国には何でもある。だが希望だけがない」
ふと耳に入った誰かの呟きに、翔太は思わず顔を上げた。その言葉が胸に刺さる。周りを見回すが、誰が言ったのかはわからない。しかし、その言葉は彼の心に深く沈殿していった。
電車が駅に滑り込む。ドアが開き、人々が流れるように出ていく。翔太も人の流れに身を任せ、ホームに降り立った。そこで彼は、黒いコートを着た若者たちのグループと目が合った。
彼らの眼差しには、社会への鋭い批判と怒りが宿っていた。翔太は思わずその視線から逃げるように目を逸らした。しかし、彼らの存在が気になって仕方がない。何か特別なものを感じたのだ。
駅を出ると、朝の冷たい風が頬を撫でた。7月だというのに、今年の夏の朝は妙に肌寒い。地球温暖化の影響か、それとも社会全体が冷え切っているせいなのか。翔太は首を縮めながら、コンビニに向かって歩き出した。
店に入ると、いつもの無機質な蛍光灯の光が彼を出迎えた。「おはようございます」と、機械的に挨拶を交わす。フロアを見回すと、朝のルーティンワークが待っている。商品の補充、清掃、レジ打ち。毎日同じことの繰り返し。でも、それが翔太にとっては安全な日常だった。
しかし今日は、なぜか胸の奥がモヤモヤとしている。電車で聞いた言葉が、頭の中でリフレインし続けていた。「希望がない」。そう、彼自身もそう感じていたのだ。でも、それを誰かに言葉にされると、急に現実味を帯びてくる。
昼休憩。翔太は裏口で一人、コンビニ弁当を食べていた。スマートフォンでニュースをチェックする。政治家の汚職、経済の低迷、教育の荒廃。暗いニュースばかりが目に入る。
ふと、高校時代の記憶が蘇った。教室の隅で一人、肩身の狭い思いをしていた日々。「お前なんか生きている価値がない」。
あの言葉が、今でも耳に残っている。社会に出ても、結局何も変わっていないのかもしれない。
午後のシフトが始まる。レジに立つ翔太の目の前を、様々な人が通り過ぎていく。スーツ姿のサラリーマン、制服姿の学生、疲れた表情の主婦。みんな何かに追われているようで、誰一人として幸せそうには見えない。
「お会計は258円です」
「あ、ポイントカードお持ちですか?」
「ありがとうございました」
同じ言葉を繰り返す。まるで人間ではなく、プログラムされたロボットのような気分だった。
夕方、シフトが終わり、再び駅に向かう。夕暮れの街を歩きながら、翔太は考え込んでいた。この先の人生、どうなるんだろう。このまま毎日を過ごしていくのか。それとも、何か変わることはあるのだろうか。
駅に着くと、朝見かけた黒いコートの若者たちがまた目に入った。今度は彼らがビラを配っている。翔太は躊躇したが、何か引き寄せられるように近づいていった。
「社会を変えよう」「今こそ行動の時」。そんな言葉が踊るビラを受け取る。若者の一人と目が合った。その目には、朝見た怒りとは違う、何か強い意志のようなものが宿っていた。
電車に乗り込む際、翔太はそのビラを鞄にしまった。家に帰ってからゆっくり読んでみよう。そう思った瞬間、胸の奥で小さな炎が灯ったような気がした。
狭いアパートに帰り着いた翔太は、ベッドに身を投げ出した。天井を見上げながら、今日一日を振り返る。普段と変わらない一日のはずなのに、何かが違う。何かが変わり始めている。
翔太は鞄からビラを取り出し、じっくりと読み始めた。そこには、彼が漠然と感じていた社会の問題が、鋭く指摘されていた。政治の腐敗、格差社会、環境問題。そして、それらに対する具体的な行動の呼びかけ。
読み進めるうちに、翔太の心は激しく揺さぶられていった。これまで自分が感じていた違和感や不満が、言葉となって目の前に現れたのだ。しかし同時に、恐れも感じていた。行動を起こすということは、現状を変えるということ。それは、彼にとってはとても勇気のいることだった。
窓の外を見ると、夜の闇が街を覆い始めていた。明日もまた、同じ日常が彼を待っている。でも、何かが違う。翔太の心に、小さいながらも確かな変化が芽生え始めていた。
彼は深く息を吐き出すと、スマートフォンを手に取った。インターネットで社会問題について調べ始める。知れば知るほど、世の中の歪みが見えてくる。そして、自分の無力さも痛感する。
夜が更けていく。翔太の目は、画面に映る情報に釘付けになっていた。明日への不安と、何かを変えたいという思いが交錯する。彼の22年の人生で、初めて感じる感情だった。
やがて、東の空が白み始めた。翔太は一睡もしていなかった。しかし、疲れは感じない。むしろ、体の中に新しいエネルギーが満ちているような感覚があった。
彼は立ち上がり、窓を開けた。朝もやの向こうに、新しい一日が始まろうとしていた。翔太は深く息を吸い込んだ。
今日も、いつもと同じ日常が始まる。でも、もう何もかもが同じではない。彼の心に、小さいながらも確かな炎が灯されたのだから。
朝日が高層ビルの合間から差し込み、翔太の小さなアパートを柔らかな光で満たしていた。彼は眠そうな目をこすりながらベッドから起き上がった。一晩中社会問題について調べていたせいで、頭が重い。しかし、その重さは単なる睡眠不足からくるものだけではなかった。
鏡に映る自分の顔を見つめる。黒縁の眼鏡の奥に潜む目は、昨日までとは違う光を宿していた。知識という重荷を背負った者の眼差しだ。翔太は深呼吸をして、今日という日に向き合う準備をした。
アパートを出て駅に向かう道すがら、高校時代の記憶が鮮明によみがえってきた。教室の隅に一人佇む自分の姿。誰も話しかけてこない。むしろ、近寄られることすら避けられている。スクールカーストの底辺。そう、それが翔太の居場所だった。
「おい、佐藤。今日も一人か?」
「友達いないの?かわいそー」
「あいつと目が合うと不幸になりそう」
かつての級友たちの言葉が、今も耳の奥で反響している。翔太は首を振って、その記憶を振り払おうとした。でも、完全に消し去ることはできない。それは彼のアイデンティティの一部となっているのだから。
駅に着くと、昨日と同じように黒いコートの若者たちがいた。今日は彼らと目が合っても、翔太は目を逸らさなかった。むしろ、積極的に近づいていった。
「あの、昨日のビラ...」翔太は緊張した様子で話しかけた。
若者の一人が振り返る。昨日、目が合った青年だ。
「ああ、読んでくれたのか」彼は微笑んだ。「どう思った?」
翔太は言葉を選びながら答えた。「色々と考えさせられました。僕も...何か変えたいと思うんです」
青年は翔太の肩に手を置いた。「そうか。なら、今度の集会に来てみないか?」
その言葉に、翔太の心臓が高鳴った。これが、変化の始まりなのだろうか。
電車の中で、翔太は集会の案内が書かれた小さな紙片を何度も読み返していた。土曜日の夜。場所は都内の小さなライブハウス。「社会を変える第一歩」というタイトルが、彼の目に焼き付いていた。
コンビニでの仕事中も、翔太の頭の中は集会のことでいっぱいだった。レジを打ちながら、ふと考える。この国の経済システム、労働環境、そして自分の立場。全てが繋がっているような気がした。
「お会計は258円です」
その言葉を発しながら、翔太は考えた。この258円は、誰のためのものなのか。企業のため?社会のため?それとも...
「翔太くん、ちょっといい?」
店長の声に我に返る。「はい、なんでしょうか」
「最近、レジの金額が合わないんだ。気をつけてくれるかな」
その言葉に、翔太は一瞬凍りついた。自分は間違えていない。そう確信していた。でも、反論する勇気はなかった。
「はい、申し訳ありません。気をつけます」
そう言いながら、胸の中で怒りが渦巻いていた。なぜ自分が責められなければならないのか。これも社会の歪みの一つなのではないか。
シフトが終わり、翔太は急いで帰路についた。今夜は集会の日だ。心臓が高鳴る。これまで経験したことのない世界に足を踏み入れる。それは怖くもあり、同時にワクワクする気持ちでもあった。
ライブハウスに到着すると、既に多くの人が集まっていた。様々な年齢層の人々が、熱心に議論を交わしている。翔太は少し緊張しながら、人々の輪に加わった。
「じゃあ、そろそろ始めましょうか」
先日会った青年が壇上に立つ。彼の名は木村隆司。グループのリーダーらしい。
「皆さん、今の社会に満足していますか?」隆司の声が会場に響く。「毎日、同じことの繰り返し。誰かのために働き、誰かのために生きる。それで本当にいいんですか?」
その言葉に、会場がざわめいた。翔太も強く共感を覚えた。そう、これが自分の感じていた違和感の正体だったのだ。
「私たちには力があります。変える力が。でも、それには勇気が必要です。現状に甘んじず、声を上げる勇気が」
隆司の熱弁は続く。政治の腐敗、経済格差、環境問題。次々と社会の問題が指摘される。そして、それに対する具体的な行動計画が示された。
デモ行進、ネット上での情報拡散、そして...。翔太は息を呑んだ。違法な手段も示唆されていたのだ。
集会が終わり、人々が三々五々帰っていく中、翔太は立ち尽くしていた。心の中で葛藤が渦巻いている。確かに社会を変えたい。でも、違法な手段まで使っていいのだろうか。
「どうだった?」
振り返ると、隆司が立っていた。
「色々と考えさせられました」翔太は正直に答えた。
隆司は優しく微笑んだ。「そうだろうね。一朝一夕には決められないさ。でも、考え続けることが大切なんだ」
その夜、アパートに帰った翔太は、長い間窓の外を眺めていた。街の明かりが、まるで星空のように瞬いている。その一つ一つの光は、きっと誰かの人生なのだろう。
翔太は深くため息をついた。高校時代、自分は何も変えられなかった。いじめられ、無視され、存在を消されそうになった。でも、今なら違う。何かを変えられるかもしれない。
しかし、その「変化」が正しいものなのか、翔太にはまだわからなかった。彼の心は、希望と不安、正義感と恐れ、様々な感情が入り混じっていた。
翌日、コンビニでの仕事中、翔太は客の一人一人をよく観察していた。疲れ切ったサラリーマン、不安げな表情の主婦、希望に満ちた目をした学生。みんな、それぞれの人生を生きている。
「お会計は1080円です」
その言葉を発しながら、翔太は考えた。この1080円は、誰のためのものなのか。そして、自分は誰のために生きているのか。
レジの横に置かれた新聞の見出しが目に入る。
「安倍元首相銃撃事件から2年」「東京都知事選で小池氏が3選」「若者の政治離れが加速」「トランプ前米大統領暗殺未遂」「京アニ放火事件から5年」
それらの文字が、翔太の心に突き刺さる。このままでは、自分たちの未来はないのかもしれない。でも、どうすれば変えられるのか。
仕事が終わり、翔太は再び駅に向かった。ホームで電車を待つ間、彼は人々の顔を観察した。みんな下を向いている。スマートフォンを見つめるか、ただぼんやりと前を見ているだけだ。
そんな中、一人の女性が目に入った。どこかで見覚えがある顔だ。
「翔太くん?」
声をかけられて、ハッとする。山田美咲。高校時代の同級生だ。
「美咲さん...久しぶり」
翔太は少し戸惑いながら答えた。美咲は高校時代、クラスの人気者だった。翔太とは別世界の住人のような存在だった。
「元気にしてた?大学は?」
美咲の質問に、翔太は言葉を詰まらせた。大学中退。それを言うのは少し恥ずかしかった。
「あ、ごめん。聞かなくてよかった」
美咲は翔太の表情を読み取ったようだ。
「いや...大丈夫だよ。今はコンビニでバイトしてる」
翔太は小さな声で答えた。
美咲は優しく微笑んだ。「そう。頑張ってるんだね」
その言葉が、翔太の心に染みた。頑張っている。そう、自分なりに頑張っているんだ。でも、それで十分なのだろうか。
二人は電車に乗り込んだ。車内で、美咲は大学生活のことや、ボランティア活動のことを楽しそうに話した。翔太は黙って聞いていた。その話を聞きながら、自分の人生との差を感じずにはいられなかった。
「ねえ、翔太くん」美咲が真剣な顔で言った。「高校の時は、ごめんね」
翔太は驚いて美咲を見た。「え?」
「あの時、助けてあげられなくて。いじめられてるの、知ってたのに」
その言葉に、翔太の胸が締め付けられた。過去の記憶が蘇る。教室の隅で一人佇む自分。周りから無視される自分。そして、それを見ているクラスメイトたち。
「いいんだ」翔太は小さく呟いた。「もう過去のことだから」
美咲は悲しそうな目で翔太を見た。「でも、私、あの時のこと、ずっと後悔してたの」
翔太は黙っていた。何と言えばいいのかわからなかった。
「だから今、色んなボランティアしてるの。少しでも、誰かの役に立ちたくて」
その言葉を聞いて、翔太は考え込んだ。美咲は自分なりのやり方で、社会に貢献しようとしている。それは、隆司たちとは違う方法だ。でも、同じように社会を変えようとしている。
電車が翔太の最寄り駅に到着した。
「じゃあ、また」翔太が言った。
「うん、元気でね」美咲が笑顔で答えた。
電車から降りた翔太は、ホームに立ち尽くした。美咲との再会は、彼に新たな視点を与えてくれた。変化は、必ずしも大きな行動だけではない。小さな親切や、日々の努力の積み重ねかもしれない。
夜の街を歩きながら、翔太は自問自答を続けた。自分は何をすべきなのか。隆司たちの過激な方法か、それとも美咲のような穏やかな方法か。
アパートに戻った翔太は、机の上に置かれた集会のビラを見つめた。そして、スマートフォンを手に取り、美咲が話していたボランティア団体のウェブサイトを開いた。
窓の外では、月が優しく輝いていた。その光に照らされながら、翔太は自分の進むべき道を模索し続けた。変化は、確実に始まっている。でも、その先に何が待っているのか。それは誰にもわからない。
翔太は深く息を吐き出した。明日もまた、新しい一日が始まる。その一日が、彼の人生をどう変えていくのか。それは誰にもわからない。でも、一つだけ確かなことがある。もう二度と、誰かに踏みつけられるようなことはない。翔太は強くそう心に誓った。
朝もやが街を覆う中、翔太は目覚めた。窓から差し込む薄明かりが、彼の小さな部屋を不思議な雰囲気で満たしている。ベッドから起き上がり、深呼吸をする。今日も、何かが変わる予感がした。
鏡に映る自分の顔を見つめる。黒縁の眼鏡の奥に宿る瞳が、以前よりも鋭く、何かを求めているように見えた。高校時代、いじめられっ子だった自分。コンビニのバイトに甘んじていた自分。そして今、社会を変えようとしている自分。全てが繋がっているようで、でも全く別人のようにも感じる。
朝のルーティンをこなしながら、翔太は昨晩のことを思い出していた。隆司たちの過激な集会と、美咲との偶然の再会。二つの出来事が、彼の心の中で激しくぶつかり合っている。
アパートを出て駅に向かう道すがら、街が少しずつ目覚めていく様子が見えた。コンビニの店員が看板を出し、新聞配達の自転車がすれ違っていく。普段なら何とも思わない光景が、今日は妙に鮮明に感じられた。
駅のホームに立つと、いつものように人々が行き交っている。しかし翔太の目には、一人一人の表情が際立って見えた。疲れ切ったサラリーマン、不安げな主婦、希望に満ちた学生。そして、どこか虚ろな目をした自分と同年代の若者たち。
電車に乗り込むと、翔太はスマートフォンを取り出した。隆司から新しいメッセージが届いている。
「今度の行動、参加するか?」
その言葉に、翔太の心臓が高鳴った。「行動」。それが何を意味するのか、彼にはわかっていた。法律のグレーゾーン、もしくはそれを越えた何か。それは社会を変える力を持つかもしれない。しかし同時に、取り返しのつかない結果をもたらす可能性もある。
返信を躊躇する翔太。その時、美咲の笑顔が脳裏をよぎった。彼女の言葉が蘇る。「少しでも、誰かの役に立ちたくて」
翔太は深く息を吐き出した。そして、ゆっくりとメッセージを打ち始めた。
「考えさせてくれ」
送信ボタンを押す指が、少し震えていた。
コンビニに到着すると、いつもの光景が広がっていた。蛍光灯の無機質な光、規則正しく並べられた商品、淡々と仕事をこなす同僚たち。しかし今日の翔太には、全てが違って見えた。
「おはようございます」
声をかけられて振り返ると、店長が立っていた。
「あ、おはようございます」
翔太は少し緊張しながら答えた。昨日のレジの件を思い出したからだ。
「昨日は悪かったな」店長が意外な言葉を口にした。「よく確認したら、レジの不足は別の原因だったみたいだ」
その言葉に、翔太は複雑な感情を覚えた。安堵と同時に、なぜ最初から自分を信じてくれなかったのかという思いも湧き上がる。
「いえ...大丈夫です」
そう言いながらも、翔太の中で何かが変わった。今までなら黙って受け入れていたことに、疑問を感じ始めている自分がいた。
仕事中、翔太の頭の中は様々な思いで混乱していた。隆司たちの過激な方法。美咲の穏やかなアプローチ。そして、目の前にある日常。全てが交錯し、彼の心を揺さぶる。
レジを打ちながら、ふと考える。この仕事は、本当に社会の役に立っているのだろうか。単なる歯車の一つになっているだけではないのか。でも、それでも誰かの生活を支えているのは確かだ。
昼休憩。翔太は裏口で一人、コンビニ弁当を食べていた。スマートフォンでニュースをチェックする。相変わらず、暗いニュースばかりが目に入る。しかし今日は、それらのニュースの背景にある構造的な問題が見えてくるような気がした。
ふと、高校時代の記憶が蘇る。いじめられていた自分。誰も助けてくれなかった日々。しかし今、美咲の言葉を思い出す。「あの時、助けてあげられなくて」。人は変われるのだ。そして、社会も変われるはずだ。
午後のシフトが始まる。レジに立つ翔太の目の前を、様々な人が通り過ぎていく。一人一人の表情を見つめながら、翔太は考え続けた。自分に何ができるのか。どうすれば、この社会をほんの少しでも良くできるのか。
そんな中、一人の老婆が店に入ってきた。よろよろとした足取りで、棚の前をうろうろしている。翔太は思わずレジを離れ、老婆に近づいた。
「何かお探しですか?」
優しく声をかける。
老婆は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「あら、ありがとう。実は、孫のおやつを買いに来たんだけど、どれがいいかわからなくて」
翔太は老婆と一緒に、おやつを選ぶ手伝いをした。たった数分のやりとりだったが、老婆の喜ぶ顔を見て、翔太の心に温かいものが広がった。
これも、社会を変える一歩なのかもしれない。小さな親切の積み重ね。それが、大きな変化につながるのではないか。
シフトが終わり、翔太は駅に向かった。帰り道、街の景色が少し違って見えた。同じ風景なのに、何か希望のようなものが感じられる。
駅に着くと、またしても黒いコートの若者たちがいた。翔太は迷わず近づいていった。
「やあ」隆司が声をかけてきた。「考えはまとまったか?」
翔太は深く息を吸い、言葉を選びながら話し始めた。
「僕は...大きな行動は控えたいと思います」
隆司の表情が曇る。
「でも」翔太は続けた。「別の方法で、社会に貢献したいんです」
翔太は今日あった老婆とのエピソードを話した。そして、美咲から聞いたボランティア活動のことも。
「小さな積み重ねかもしれない。でも、それが大切だと思うんです」
隆司は黙って聞いていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「わかった。君なりのやり方があるんだな」
その言葉に、翔太は安堵の息をついた。
「でも、忘れるな」隆司が真剣な表情で言った。「社会を変えるには、時に大きな行動も必要なんだ。我々の活動を、これからも見守っていてくれ」
翔太は黙って頷いた。隆司たちの思いも、よく分かる。ただ、自分には別の道があるのだと確信していた。
電車に乗り込んだ翔太は、車窓に映る自分の顔を見つめた。数日前とは明らかに違う表情をしている。迷いは消えていないが、確かな意志が宿っているように見えた。
アパートに戻った翔太は、すぐにパソコンを開いた。美咲が話していたボランティア団体のウェブサイトを開き、参加申し込みのフォームに記入を始める。
途中で、隆司からメッセージが届いた。
「君の選択を尊重する。でも、いつでも戻ってこられる場所はあるからな」
翔太は微笑んで返信した。
「ありがとう。僕たちはきっと、違う方法で同じ目標を目指しているんだ」
メッセージを送信し、翔太は再びフォームに向き合った。送信ボタンを押す指が、少し震えている。しかし、それは恐れからではなく、新しい一歩を踏み出す高揚感からだった。
窓の外では、夜空に星が瞬いていた。翔太は深く息を吐き出した。明日からまた、同じ日常が始まる。コンビニでの仕事、人々との何気ない触れ合い。でも、全てが違って見えるだろう。
なぜなら、彼の中で何かが確実に変わったのだから。社会を変えるのは、必ずしも大きな行動だけではない。日々の小さな積み重ねこそが、本当の変革をもたらすのかもしれない。
翔太は窓を開け、夜風を感じた。街の喧騒が遠くから聞こえてくる。その中に、希望の音色を聴いた気がした。
彼は静かに呟いた。
「これが、僕の選んだ道だ」
そう、これが翔太の選んだ道。小さいかもしれないが、確かな一歩。それは、彼の人生を、そして少しずつ社会を変えていくだろう。
翔太は深呼吸をして、ベッドに横たわった。明日への期待と不安が入り混じる。でも、それは良いことだ。なぜなら、それこそが生きているという証だから。
目を閉じる前、翔太は再び呟いた。
「明日も、頑張ろう」
そして、新しい朝を迎える準備をして、彼は静かに目を閉じた。
夏の終わりを告げる風が、翔太の頬をかすめていった。彼は駅のホームに立ち、遠くを見つめていた。過ぎ去った数か月間の記憶が、走馬灯のように脳裏をよぎる。
ボランティア活動を始めてから、翔太の日々は大きく変わった。コンビニでの仕事、清掃活動、環境保護のワークショップ。一つ一つは小さな営みかもしれないが、それらが積み重なって、彼の人生に新しい意味を与えていた。
電車が到着し、翔太は乗り込んだ。車内は、いつもの朝と同じように混んでいる。しかし、彼の目に映る光景は、もはや以前とは全く違っていた。
サラリーマン、学生、主婦。それぞれが、社会を構成する大切な一員なのだと、今の翔太には理解できた。彼らの表情に、苦悩や希望、そして生きる意志を見出すことができた。
ふと、隣に立つ中年の男性が、スマートフォンでニュースを見ている姿が目に入った。画面には、大規模なデモの様子が映し出されている。翔太は、その光景に見覚えがあった。
そう、隆司たちの活動だ。
翔太の胸に、複雑な感情が湧き上がる。彼らの過激な方法には賛同できないが、その根底にある思いは理解できる。社会を変えたいという強い願望。それは、翔太自身も持ち続けているものだった。
駅に到着し、翔太は急ぎ足でコンビニに向かった。今日は早番のシフトだ。店に入ると、いつもの無機質な蛍光灯の光が彼を迎えた。しかし今では、その光さえも暖かく感じられた。
「おはようございます」
翔太の挨拶に、店長が優しく微笑んだ。
「おはよう、翔太くん。今日もよろしく頼むよ」
仕事を始めて間もなく、ドアが開き、常連の老婆が入ってきた。翔太は、彼女の名前を覚えていた。田中さん。孫のためにおやつを買いに来るのが日課だった。
「おはようございます、田中さん。今日はどんなおやつにしますか?」
老婆は嬉しそうに微笑んだ。「あら、覚えてくれてありがとう。そうね、今日は...」
こうした小さな会話の積み重ねが、翔太にとっては大切だった。一人一人のお客さんとの関わり。それが、社会を少しずつ温かくしていく。そう信じていた。
昼休憩。翔太は裏口で一人、コンビニ弁当を食べながらスマートフォンでニュースをチェックしていた。デモの様子がより詳しく報じられている。平和的に始まったデモが、一部で暴徒化したという。
翔太は深いため息をついた。暴力は新たな暴力を生む。それは、高校時代のいじめの経験から学んだことだった。でも、だからといって声を上げないことが正しいわけでもない。
そんな複雑な思いに浸っていると、スマートフォンが震えた。美咲からのメッセージだった。
「翔太くん、大変なことになってるみたい。隆司くんたちが逮捕されたって...」
その言葉に、翔太は息を呑んだ。予想はしていたが、実際に起こってしまうと、心臓が締め付けられる思いだった。
返信を迷っていると、今度は隆司本人から電話がかかってきた。翔太は少し躊躇したが、受話器を取った。
「もしもし、隆司か?大丈夫か?」
「ああ、翔太か。俺は今、警察署にいる。でも、大丈夫だ」
隆司の声は、意外にも冷静に聞こえた。
「なぜ電話してきたんだ?」
「お前に頼みたいことがあるんだ」
隆司の言葉に、翔太は身を乗り出した。
「俺たちのやり方は間違っていたのかもしれない。でも、俺たちが伝えたかったことは間違っていなかった。それを、お前なりの方法で広めてくれないか」
翔太は黙って聞いていた。隆司の声には、後悔と希望が混ざっていた。
「わかった。できる限りのことはするよ」
電話を切ると、翔太の胸に決意が芽生えていた。
その日の夕方、シフトを終えた翔太は、急いで最寄りの公園に向かった。そこで、緊急のボランティアミーティングが開かれることになっていた。
公園に着くと、既に多くの人が集まっていた。老若男女、様々な人がいる。みんな、今日のニュースを受けて集まったのだ。
翔太は深呼吸をして、みんなの前に立った。
「みなさん、今日は集まってくれてありがとうございます」
そう切り出すと、翔太は自分の経験を話し始めた。高校時代のいじめられた経験、社会に対する不満、そして隆司たちとの出会い。そして、ボランティア活動を通じて見出した新しい希望について。
「暴力や違法な手段は、決して正しい解決策にはなりません。でも、社会を変えたいという思いは、尊重されるべきだと思います」
翔太の言葉に、人々は真剣に耳を傾けていた。
「私たちにできることは小さいかもしれません。でも、一人一人が自分にできることを積み重ねていけば、必ず社会は変わっていくはずです」
話し終えると、周りから拍手が起こった。そして、次々と意見が飛び交い始めた。新しい活動の提案、既存の活動の改善案。みんなの中に、何かを変えたいという強い思いが溢れていた。
ミーティングが終わり、夜の公園に人々の熱気が残っていた。翔太は深く息を吐き出した。今日の出来事は、彼の人生の大きな転換点になるかもしれない。
家に帰る途中、翔太は空を見上げた。都会の夜空には星はほとんど見えない。でも、そのわずかな光が、彼の心に希望を灯していた。
アパートに戻ると、翔太はすぐにパソコンを開いた。今日の出来事を、自分の言葉でブログに綴り始める。社会を変えるための小さな一歩。それは、こうして自分の思いを発信することから始まるのかもしれない。
書き終えて送信ボタンを押す瞬間、翔太の脳裏に高校時代の自分が浮かんだ。誰にも声をあげられず、隅に追いやられていた自分。その自分が今、こうして自分の言葉で世界に向けて発信している。
窓を開け、夜風を感じる。街の喧騒が遠くから聞こえてくる。その音の中に、希望の鼓動を感じた。
翔太は深く息を吐き出した。明日からまた、同じ日常が始まる。コンビニでの仕事、ボランティア活動、人々との関わり。一つ一つは小さな営みかもしれない。でも、それらが積み重なって、確実に社会を変えていく。そう信じていた。
ベッドに横たわりながら、翔太は今日出会った人々の顔を思い出していた。ミーティングで意見を交わした仲間たち、コンビニの常連客、そして遠く離れた場所にいる隆司。みんな、それぞれの方法で社会と向き合っている。
目を閉じる前、翔太は小さく呟いた。
「俺たちはトレンチコートマフィアだ。一人一人の小さな力が社会を変える、静かな革命者たち」
そして、新しい朝を迎える準備をして、彼は静かに目を閉じた。明日はまた、新しい一歩を踏み出す日。小さいけれど、確実な一歩を。それが、いつか大きな変化をもたらすことを信じて。
翔太の物語は、ここで終わりではない。むしろ、本当の物語はこれから始まるのだ。
社会を変えるための長い旅路が、彼の前に広がっていた。そして彼は、その旅路を歩む準備が、今ようやくできたのだった。
トレンチコートマフィア 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI
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