4変化と不安
とにかくこれでウミは、食事、水、トイレと生きていくのに必要な一通りのことはしてくれるようになった。もちろん、私が外出しているか、寝ている時だけだが……。後はウミが私に慣れて、私が起きている時でも一緒に過ごしてくれるようになれば良いのだが、そうなるまでに後どれくらい時間が必要なのだろうか。あるいは、これから先もずっとそうならない可能性もあるのだ。
家庭内野良猫という言葉がある。家で飼育している猫ではあるが、飼い主には決して懐かず、ご飯やトイレは飼い主がいない時に済ませ、飼い主が起きている間は物陰から出てこない猫のことをいう。ウミがそうならない可能性はゼロではないのだ。まして保護猫カフェでも他の猫に馴染めず、梁の上に追い立てられていた猫である。普通の猫よりも環境変化への適応能力は低いと言ってもいいだろう。そうは言っても、ゆっくりでも良いから今の環境に、私という存在に、慣れていって欲しいものだ。とにかく今は信じて待つしかない。時が解決してくれるということを。
だが時はそう簡単には解決をもたらさなかったのである。私とウミの間はそれ以上の進展することなく1週間が過ぎた。結局ウミは私がいる間は、ついぞ物陰から出てこなかった。もちろん私もこの1週間何もせずに手をこまねいていたわけではない。おもちゃやおやつで何とか誘い出そうとしてみたのだが、おもちゃには見向きもせず、おやつも私が出かけた後でしか食べないのだ。
もうそろそろトライアルの期限である2週間が迫ってきた。私は決めなければいけない。このままウミを飼うのかどうかを。ウミは食事、水、トイレと最低限必要なことは出来るようになった。だからこのまま家で飼っても生きていくことは出来るだろう。でもそれだけでいいのだろうか。もしこのままウミが私に懐かなかったら、ウミは保護猫カフェの梁の上にいた時と同じ様に、何かに怯えながら生きていくことになるだろう。それはウミにとって幸せなのだろうか。それなら一度ウミを保護猫カフェに返して、他にいい人が現れるのを待った方がいいのかもしれない。そんな考えさえ浮かんできた。
一度現状を報告しようと思い、店員さんに電話してみた。
「それならトライアルをもう2週間延ばしてみてはどうですか。これからずっとお付き合いする子ですから、そんなに焦って決めなくても大丈夫ですよ」
まるで心を見透かされたかのような答えだった。私は無意識に諦める理由を探していた。私はどうしてウミを迎えることにしたのだろう。ウミを保護猫カフェに返しても、あの梁の上で縮こまっていたころに逆戻りするだけだ。私はウミを幸せにしたい。違う。ウミと一緒に幸せになりたい。一緒に生きていくのだから、どちらか一方ではダメなのだ。
きっと店員さんは何匹もの猫を里親の元に送り出し、何人もの里親になる人間を見てきたのだろう。その中には私のように初めての飼育で不安になっていた人間も少なからずいたに違いない。そうだ焦る必要はないのだ。私は一体何を焦っていたのだろう。もしこれが改善されないような状況ならば、店員さんもトライアルの2週間延長は提案しては来ないだろう。この提案は店員さんから私への「諦めないで」というメッセージのように思えた。この2週間もう一度信じてみよう。
それに全く希望がない訳でもなかった。これまでの映像を改めて見て分かったのだが、ウミが物陰から外に出ている時間は確実に増えていた。これは間違いなくウミが我が家に慣れてきている証拠だ。
それから3日後、いつものように職場の昼休みにペット用カメラの映像を見ていた私は、おもわず声を上げてしまった。ウミがキャットタワーの上に登って、窓の外を眺めていたのだ。これはウミが我が家に来てから初めてのことだった。その後もウミは飽きずに窓の外を眺めていた。
猫が窓の外をよく眺めているのは、縄張りの監視が主な理由だという。外に出たがっているのだと思って窓を開けてはいけない。家の内と外を自由に出入りさせる半外飼いは、昔は当たり前だったが、今では推奨されていない飼い方なのだ。その代わりに推奨されているのが、完全室内飼いである。つまり猫を決して外に出さず、家の中だけで飼うということなのだが、この飼い方について可哀想という意見もあるようだ。しかし、猫はこちらから外に出さなければ、家の中だけを自分の縄張りと認識して外に出たがることはなくなるし、何よりも交通事故や感染症、他の猫とケンカをして怪我を負うリスクを低減できる。野良猫と半外飼いと完全室内飼いでは、実際に寿命に差が出るのだ。
私はウミに長生きして欲しいし、私が知らない間にウミが交通事故に遭ったりしたら、ウミを外に出した自分のことをずっと後悔するだろう。それに完全室内飼いは保護猫カフェからの譲渡の条件でもあった。猫は常に自分の目の行き届くところで飼わなければならない。ウミが外に出られない分、私は自分の家をウミにとって快適な環境に作り上げる。そして一日でも長くそこでウミと一緒に暮らすのだ。
その翌日もウミはキャットタワーの上で、窓の外を眺めていた。やはりウミの我が家での縄張りは確実に広がっている。ウミは我が家を自分の居場所だと認識し始めているようだ。だから私のことも、一緒に暮らしていく相手だと認識してくれ。
とはいえその最後の一線はなかなか超えられないようで、やはり私がいるとウミは物陰に隠れてしまう。しかし私は諦めなかった。確かにウミは私がいると物陰に隠れてしまうが、私がいなくなると物陰から出て来て、我が物顔で部屋の中を闊歩し始める。ここで私は重要なことに気づいたのである。私が居なくなってから、ウミが物陰から出てくるまでの時間が日を追うごとに縮まっていた。もう少し、あともう少し。そうやって自分に言い聞かせた。だがそれでも時間は決して止まらず、日々は過ぎていく。
ついに最後の朝がやって来た。今度こそ私は本当に決めなければいけない。このままウミと一緒に暮らしていくかどうかを。最後にウミともう一度向き合って見よう。
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