3小さな変化

 次の日は平日だったので、私は仕事に行かなければならなかった。相変わらずウミは物陰に隠れていた。私がいない間に何かあったらどうしよう。家を出た途端、私は猛烈な不安に襲われた。

 私は鞄からスマートフォンを取り出すと、家のペット用カメラと連動しているアプリを起動した。今の時代は便利なもので、ネットワークに繋がったペット用の監視カメラで、スマートフォンを使って家の様子をリアルタイムで見ることが出来るのである。さらにカメラには録画機能もついていて、後から自分がいない時間に何があったのかを確認することも可能だ。昼間は仕事で家を空けなければいけない私にとって、このカメラは本当に役に立つ道具だった。

 映し出された映像は、家を出る前と同じ様にカーテンの一部が膨らんでいて、そこにウミがいることが分かった。とりあえずは安心だ。それから休み時間やトイレに行くたびに、アプリを起動して家の様子を見てみたけれど、相変わらずウミはカーテンの裏にいた。カメラの映像ではカーテンの裏までは見ることが出来ない。カーテンの裏のウミを見るには、直接自分の手でカーテンをめくるしかないのだ。だからその日はとにかく早く家に帰りたくて、とにかくがむしゃらに働いた。就職してから一番真剣に働いたかもしれない。猫が家にいるだけで、それ以外の時間にもこれ程の張りが生まれるとは。


 家に帰って餌皿を見てみると、私が家を出た時と同じ量のキャットフードが残っていた。カメラの録画映像も見てみたが、ウミは一度もカーテンの後ろから出てきていなかった。そっとカーテンをめくってみると、ウミはカーテンから飛び出して今度はテレビの裏に隠れてしまった。

 私にもこの家にも、慣れるのにはまだ時間がかかるらしい。食べ残してあったキャットフードをゴミ箱に捨て、新しいものを入れた。とにかく私が起きている間は自由に家の探索も出来ないだろうと思い、今日は早めに電気を消して寝ることにした。明日の朝起きたら、またカメラの映像を見てみよう。

 翌朝起きるとウミは昨日と同じように、カーテンの裏にいた。昨日と同じように?ウミは確かに、昨日は一日中カーテンの裏にいた。しかし家に帰って私がカーテンをめくった時にテレビの裏に移動したはずだ。つまり夜の間にテレビの裏から出てきて、またカーテンの後ろに戻ったのだ。ペット用カメラの録画映像を確認してみると、確かに私が寝た後の深夜2時くらいに、ウミはテレビの裏から出てきて部屋の中を探索していた。

 しばらくウミは部屋のあちこちを見て回っていたが、部屋の隅にあるトイレでおしっこをし始めた。ウミは最初から、自分がどこでトイレをすればいいのかを理解していたのである。とはいえこれは実は偶然ではない。トイレ用の猫砂に、保護猫カフェで使っていた猫砂を少し混ぜておいて、保護猫カフェのトイレと同じ匂いがするように工夫しておいたのである。(もちろんこの工夫を教えてくれたのは店員さんだ。)一度トイレの位置を覚えたからなのか、ウミはその後もすんなりと我が家のトイレを使ってくれるようになった。もちろん私がいない時にだが。しかしとにかく、所構わずトイレをするという問題には、幸いにして直面しなくて済んだようだ。

 おしっこをするということは、それだけの水分が必要なわけで、昨日水皿の3目盛り分ぴったりまで入れた水が、今は3目盛りと2目盛りの中間になっていた。ウミが飲んだのである。水皿は目盛りがあるものにすると、猫がどれだけ水を飲んでいるかが分かりやすい。これは下調べで得た知識だった。

 トイレシートと水を替えると、そろそろ出勤の時間が近づいて来たので仕方なく家を出た。その日は仕事が忙しく、なかなかペット用カメラでウミを見ることが出来なかった。夕方になってようやくカメラを見ると、カーテンの膨らみが消えていた。ウミが移動したのだ。録画映像でも確かにウミは部屋の中を歩き回っていた。しかし、相変わらずご飯は食べていないようだった。

 そこで私は一計を案じた。帰りにホームセンターのペットコーナーで、猫用のおやつを購入したのである。猫用のおやつといえば頻繁にCMで見かけるペースト状のものが有名だが、あえて茹でたカツオの真空パックにしてみた。これは単なる私のカンである。これでダメなら別のものにしてみよう。おやつのローラー作戦である。


 家に帰るとやはりキャットフードは減っていなかった。とりあえずキャットフードを新しいものに入れ替えると、私はカツオの準備に取り掛かった。そのまま与えてもいいが、湯煎で温めてから一口大にほぐして与えるのがオススメらしい。湯煎したカツオのパックを開けると、魚の匂いが部屋中に広がった。これなら食べてくれるかもしれない。いや、食べてくれ。結果は明日の朝には分かるだろう。

 翌朝起きると、私はすぐに餌皿を確認した。しかしキャットフードもおやつのカツオも全く減っていなかった。やはりそう簡単ではなかったのだ。このカツオはもう捨てるべきだろうか……。しかし、何となくもったいなく思えて、今日の夕方に私が帰るまではそのまま置いておくことにした。もし夕方にまだ残っていたら、もったいなくても今度こそ捨てよう。結果的にこれが功を奏したのである。

 その日の夕方帰宅して餌皿を見てみると、ほぐしたカツオが少し減っていた。ウミが食べたのだ。ウミはほんの少しだけれど、ようやくご飯を食べてくれた。私は安堵した。ウミをなでようと思い、そっとカーテンをめくって手を伸ばすと、ウミは手の隙間から素早く逃げてテレビの裏側に隠れてしまった。

 結局カツオが呼び水になったのか、その日を境にウミはドライのキャットフードも食べてくれるようになった。ところでこれは余談だが、後日ウミにあの有名なペースト状のおやつを与えてみたが、全く見向きもしなかった。その後色々なおやつを与えてみたが、結局ウミがよく食べたのは、茹でカツオの真空パックだけだった。最初にカツオを買った時の私のカンは見事に的中していたのだ。それにしても実に贅沢な猫である。でも結局かわいいので許してしまうのだが。

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