意抜噛家の沈下

第一階層 嫌われ者の結婚

「最初はあんたのことなんて、ただの金ズルだと思っていたってのに⋯⋯」

 館の中に取り残された西園寺 龍真(たつま)は、えらく趣味の悪い、鯖のようにギラついた鼠色のスーツをだらしなく着崩すと、投げやりに言葉を吐き出し始めた。

「没落した老舗の金貸し屋が、どうにか生き残ろうと交わした政略結婚だ、相手の世間知らずのお嬢さんを騙くらかして、利用するだけ利用して、意抜噛家(いぬがみけ)の莫大な資本でもせしめてやろうと思っていたんだよ」

「それなのに、紫(ゆかり)さんは俺のようなドブネズミにも慈悲を向けてくれた⋯⋯」

「清々しいほどの真っ白な、澱みない慈愛を受ける事など、自分のような人間にあるはずないと思っていたもんでね、あぁ、嬉しかったんだな俺は⋯⋯」

 名探偵、百合塚 周はどうにかこの危機を乗り切るために頭を働かせる。目の前の屋敷から空気がぬけていき、彼女は確実に死ぬだろう。やっと、金以外の物、他者からの愛を受けたにも関わらず。


 名探偵は、赤い脳細胞を活性化させこの窮地を脱しようと動き出した。


 ────西園寺 龍真は深き愛を受けたことがなかった。


 親としての最低限の愛情はあったのだろう。母から、生まれた時から西園寺家の今後を担う存在として期待され教育が施された。高等教育までは順調だったのだが、すぐに龍真には金貸しのセンス、いわゆる才能がないことが分かってしまった。

 上昇志向もなく、他人を蹴落としてでも幸福になりたいほどに強欲な人間でもなかった。善人であったのだ。親族の心情を最も逆撫でしたのは、龍真が真に好奇心を燃やしたのは「料理」であったことが最たる理由であろう。

 当然、そんなことを家は許すわけもなく、進路を打ち明けた龍真には罵倒の言葉が浴びせられた。実際に役に立たぬなら、西園寺という「銘柄」を付加価値として人柱にでもせよと、両親は吐き捨てるように告げたのだ。意抜噛家との政略結婚をせよと。 

 自由な人生は終わりを告げ、役立たず、穀潰しと陰口を叩かれる日々であった。叩き込まれたのは礼儀作法、テーブルマナー、言葉の使い方、絵画の値踏み、どれも客寄せの愛玩動物としての「一芸」程度であった。大学までの教育、銘柄に恥じないレベルの物を身につけられたことは幸運だった。

 自由な人生を諦められる訳もなく、この牢獄のように息苦しい家を出られるならばどんな悪さでもしたが、その度に母親に頬を張られては今度こそ、今度こそ、何度逃げても徒労に終わる。この飼い殺しの生き地獄は龍真の心を歪めてしまった。

「西園寺の傀儡として、役割を演じればいいんだ。それでいい⋯⋯」

 この世の全てを諦めたかのような、死人のような目をしながら鳥籠であるこの屋敷と外を睨みつけるように見つめる。そして俺は、ついに西園寺ですらなくなった。

 この結婚は、社会に対して、我々は先進的で寛容で多様で、素晴らしい家柄であるアピールとしてのパフォーマンスでしかないが、龍真は従わざるを得なかった。もはや彼女が自由に、奔放に生きられる場所など、この地球上には存在するはずもないのだ。


 金屏風の前で三十分前に顔を合わせたばかりの女性と、婚約の発表をする。集まった記者達から写真を撮られて、内容の知っている質問に、セリフ通りに答える。

 全くもって意味のない芝居だと吐き捨ててそのまま出ていってしまえ、と心の中にいる反逆者の自分はいうが、飼い慣らされ自由意志すらもがれた今の俺にはできなかった。


「ごめんなさい、このようなくだらない茶番に付き合わせてしまって」


 彼女と初めて顔を合わせた時、紫は、龍真に向かって頭を下げた。意抜噛が生き残るために貴女の人生を浪費させていただきますと真っ直ぐに龍真を見据えながら言った。


 なかなかに面白い女だということは一目瞭然だった。西園寺の人間には全く感じない、強い意志と燃え盛る情熱を持っているような不思議な女であった。


 意抜噛いぬがみグループは老舗の百貨店である。だが、景気の冷え込みと百貨店業界の不振により経営に限界が見え始めた。その頃、西園寺家より「婿入り」の打診、というよりも厄介払いを金で頼み込んできたというのが正確であろう。一族へ取り入る代わりに一人放り出されたというわけだ。

 意抜噛の館で生活を始めた。稀代の建築家、紀行茜が作り出したカラクリ屋敷だという。秘密の仕掛けがある、金銀財宝が地下に眠っているなどの根も葉もない噂が立っていた。

 馬鹿馬鹿しい話だ。すぐに記憶の隅に追いやった。だがこれが、後に大きな失敗だったなと思う時がやってくるなどと知る由もなかった。

「今日の夕食は一品、私が作りました。拙い料理ですが⋯⋯」

 点数稼ぎのための余興として、調理場を借りて料理し振る舞ったハンバーグステーキを紫さんが痛く気に入ったという噂が耳に入ってきた。

 料理人達がいうには、それほど彼女が反応をするのは珍しいことだそうで、あんなに顔が綻んでいるところを見られて嬉しいと目に涙を浮かべていた。


 数日後、紫が突然「龍真さんの料理をまた食べてみたい」と言ってきたことを皮切りに、台所の使用を許されることとなった。面倒なことを、とは言えずじまいだった。

 貼り付けた笑顔のフリをしながら、食材を適当に拝借して、昼食にカツレツとトマトを丸ごと使ったソースを合わせた一皿とライス、手づくりドレッシングのサラダを出した。


「美味しいわ!カツレツの揚げ具合はもちろん、肉の薄さも均一で火の入り方にもムラがないなんて信じられないわ。それにこのソースが加わることによって調和が生まれているの。添えてあるライスの具合も完璧ね。サラダのドレッシングも野菜のおいしさを引き立てているし、それに、何よりも、うまく言語化できないのだけれど、とても優しい味がするの。心が、ふと明るくなるような」


 何だ、この女は。彼女の言葉には、何の下心も無いじゃないか。本当に、ただただ料理を味わってその料理がいかに美味しかったかを伝えているだけだった。

「ははは、私の数少ない、拙い特技を気に入っていただけたのであれば幸いです」

 当たり障りのない会話ができているだろうか。料理を褒められたのは何年振りだっただろうか。小さい頃に一度だけ母親からそれらしい言葉を聞けたような気がする。

「あっ、私一人で喋りすぎました。うう、お恥ずかしい⋯⋯」

 赤くなったり青くなったり、ころころ変わって忙しい女だ。裏を探っているのがナンセンスに思えてくるほどの能天気さだった。だがそれを心地いいと思っている自分もいた。

「い、いえ。料理が褒められたことがなかったので」

 だが龍真は動揺していた。また一品、私のためだけに作っていただけますかと、屈託のない、無垢な笑顔で彼女は言うのであった。


 この一件以来、彼女らの中に打算以外の感情が芽生え始めていた。


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