第三夜 ヒトと獣の境界線
「これで火をつければいい、二度と開店できないようにしてやれ」
よく効く鼻で良かった。ガソリンの匂いは遠くまで届く。
「おい、やめとけ。放火殺人は罪が重いぞ」
まだ話の通じる相手だと信じていた。相手は完全に一般の人間で、ただただ一時の激情でこんな間違いを犯しているだけなんだ。そう思って近づいた瞬間に後頭部に衝撃が走った。
「うるせぇ、誰がやめるかよ、これは正当な報復だし調子に乗ってるからお灸をくれてやるんだよ!」
角材で殴られたようだ。流石にダメージが大きい。
「そうだそうだ!生意気なんだよ女のくせによ⋯⋯」
「俺たちが正しいんだ!」
「これは世直しですよ。悪いのは彼女らです」
こいつら、本当に「人間」か⋯⋯?
「まぁいいわ、このあとはシェルターも焼きに行こっかな。ギャハハ!」
自分の中でずっと蓋をしてきた「獣性」が呼び覚まされていくのが分かった。
「最後の警告だ、やめろ!」
聞く耳を持たずに、奴らは作業を続ける。
「⋯⋯忠告してやったのに酷いな。まだ猿の方がよっぽどまともだぜ?」
癪に触ったのか、俺に対して何か喚いている。だが今の俺には、一つとして意味のあるものとして聞き取ることはできなかった。
こいつらは人の皮を被ってはいるが、自分たちが気に入らないからと言う、くだらない理由で暴れる狡賢い獣なんだ。「ヒト」ではない。ならば、大自然の掟に従えばいい。
もう幼年期とは違って、俺は歴とした人狼だ。俺が生まれた時に、母さんとママがにつけてもらった名前は「鋼」と書いて、こう、と読むのだそうだ。粘り強く折れない心と、決して揺るがない信念を持った大人になってほしいという願いが込められている。
「許さんッ⋯⋯!」
拳を硬く握りしめる。黒革のグローブがぎりぎりと音を立てる。大きく空気を肺へと送り込み、全身に力を込め、俺の本来の姿へと、変身する。
体を人から人狼へと移行させていく。喉の奥から唸り声が上がってしまう。お前らみたいな奴らがいるから、この世界に一方的に傷つけられ虐げられる人たちが生まれるんだ。
救ってくれた「恩人」や、ママさんのような優しい人が食い物にされるんだ。
ただの一方的な狩りが始まった。まずは近くにいた奴へ一瞬で距離を詰めアッパーカットで殴り飛ばして、そのまま地面に後頭部を叩きつける。
逃げようとして腰を抜かしていた奴の喉笛に噛み付いて下顎ごと食いちぎって、首を捩じ切って投げ捨てた。知性の腐った不味い肉の味だ。
次は主犯格に狙いを定める。どこから持ってきたのかバットを持っていた。そんなもんがこんなところで役に立つわけないだろうが。
フェイントをかけて腕を振り上げさせて、ガラ空きになった鳩尾にボディブロー。蹲って倒れているところを殴って追撃した。頭蓋骨が砕ける音がした。
コツン、とハイヒールの音がした。チッ、見られたか⋯⋯。
「コウちゃーん、何かお困りかなぁ?」
「手を貸そう、我が娘よ」
聞き覚えのある綿菓子のような甘い声と、凛とした芯の強い声も。
「コウ、よくやった。後は母さん達に任せろ」
頭が混乱する。あの時死んだんじゃなかったのか。
「ごめんね、ずっと貴女を一人にして。見つけるのが遅くなったから貴女の手も汚させちゃった」
「母親失格だ、済まなかった。弁明のしようもない⋯⋯」
そんなことあるはずない。二人からの愛情を受けて育って、大切な人を守り抜くという意志を貫くことの意味を教えてくれたからこそ、今の俺があるんだ。
「いいんだよ。俺はもう、不正義を黙って見ているだけにするのは、やめたんだ」
その言葉を吐いた途端笑顔になった母さん達。何か大ごとになっていることにも、母さんたちが生きていることにも脳が追いついてこない。
「ねぇ、真木さん。私たちの娘は立派な戦士になってくれたわね」
「そうだな雛菊。元来、狼は誇り高い生き物。大義のために戦うことこそ、戦士の誉よな」
二人に抱きしめられ、また親子でいられる事に感謝した。そして、突然、闇夜に向けて母さん達が遠吠えをすると、地下、大通りから狼面の女達が集まってきた。
ママが言うには、今やってきた彼女らは「狐狼会」というギャングの構成員だという。
「狐狼会に所属するためのケジメは、自分一人で戦うことだったの。それで、コウちゃんはそれを達成したということなんだけど⋯⋯」
母さんとママは、まっすぐにこちらを見つめていた。
「コウは、どうしたい」
あの恩人のような女性達を、理不尽で横暴な暴力の元に晒そうとするような奴らを俺は許すことはできない。俺は、毎日を必死に生きている善き人々が、せめて光の中で生きて死ぬことができるように、この力を使い果たしたい。だから、返事は決まっていた。
「狐狼会で役に入りたいいんだけど、いいかな」
そう告げると、二人とも喜んでくれた。親子三人で、再会の喜びを噛み締めていると、狼面の三人が近づいてきた。一斉に面を外すと、見慣れた三人の顔があった。
「私らは家族だってのに、こんな素晴らしい企みに誘ってくれないなんて酷いぞ」
「あたしもやるって決めたの。自分の手を汚してでも守りたい人たちがいるの」
「韓の国より助太刀いたす、なんちゃって⋯⋯」
正直に言って、涙が出るほどに嬉しかった。
「分かった。娘が世話になっているし、幹部として迎え入れよう。だが鋼よ、会に加わるには条件が一つだけある。大学をきちんと卒業することだ」
「⋯⋯えっ」
俺は唐突に、受験生になることが決定した。
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