第2話 潮風 上

 数百年を微睡むように生きた私は、たった数晩過ごした相手のために泡になった。数えれば一日にも満たない時間の逢瀬。

 海に浮かんだ泡が弾けるまでのような時間が、過ごしてきた数百年より重かった。


 夢のように朧な海にいたころの記憶。これから語る記憶も彼と出会った記憶と紐づいているから思い出せる。人魚だったころのことは、たまたま忘れていなかったという程度のものしか残っていない。


 風の精になって振り返るような機会がなければ、こんなことにも気づかなかった。


******


 月のない夜だって人魚は奔放だ。

 仲間が寝ている間、一人の人魚がふらふらと遊泳にでかけた。闇に忍びながら、一筋の光もない海の中でソイツは見つけたのだ。

 波が運んできた地上のものを。

 見つけた人魚は棲み処に戻って自慢を始める。眠っているところを叩き起こされた人魚たちはみんな業腹だという気持ちを隠せていなかったが、仲間が持ってきた地上の産物を見た途端、流れるように態度を変えた。

 たった一人、人間に興味のない私を除いて。


「みんな見てちょうだい。綺麗な鉄が降ってきたのよ。錆びてないからつやつやなのね。降ってきたばかりの鉄って、どうしてこんなに輝いているのかしら。みんなご覧になりなさいな」

「綺麗な珊瑚と真珠を持っいます。とても綺麗に養生できたので鉄と比べてみたいです」

「いい考え。鰭に飾ってみるのもいいかもしれない。はやくみんなに伝えるべき」

 

 仲間たちの手と手を渡る鉄の欠片は海では見つからない魅力があった。岩や骨とはまた違う硬い感触。鈍い輝きが放つ無機的な存在感。人魚が夢中になるのも仕方ない。

 早く飽きてくれないものかと微睡んでいたら、仲間が全員どこかへと泳いでいった。鉄を拾った人魚のように、我も我もとその辺へと繰り出したのだろう。


 なにかしら見つけてくる人魚もいるだろう。飽きて戻ってくるのか大半だろうが。

 どちらにせよ、戻ってきたら戻ってきたで騒ぎ立てるのは間違いない。せっかく静かになったのだ。うるさいのが戻ってくる前にどこかへ行ってしまおうか。

 寝床を兼ねていた珊瑚の園を抜け出して、私はまだ微睡んでいる我が身を潮の流れに差し出した。


******


 ふと目覚めた場所は水面で。目に見える部分すべてに深海のような朔の夜が広がっている。水面といっしょになだらかな上下を繰り返して、緩やかに身体がほぐれていく。


 気づけば唇から音が漏れていて、波がつくりだす拍に合わせるようになり、思い思いの音色を乗せてしまい、いつの間にやら歌っていた。


 Lah—ehya—yaaa—


 自然の脈動と私の声が合わさって一つの音楽が完成していく。

 世界が私のものになって、私は世界そのものになる。境界が限りなく薄れていく一体感に身を任せて私は歌い続ける。


 どれほど歌ったのか。そんなこともわからなくなるころ、潮風が運ぶ波の音に雑音が混ざった。


「なんて聞き苦しい。なにをすればこんなに酷い声が出せるの」


 内臓を絞り上げて漏れ出したような醜い呻き。人魚はあんな声を出せはしない。だとすれば声をあげている生命は。


「人間ね」


 耳から聞こえることだけでもわかることはいくらでもある。

 心臓の脈動が乱れている。筋肉は硬直していて、肺が空気を出し入れできていない。そのうち心臓が止まって死ぬのだろう。


 海も地上も命の苦しみはありふれている。だから人間が苦しんでいる姿に興味はない。

 苦しむ姿に興味はないが、人間がどう死ぬのかは気になった。まさか人魚のように泡になったりはしないだろうが、死んだら死にっぱなしではあるまい。人魚以外のすべての海の生き物は死ねばなにかの餌になるのだから。

 人間の死骸はどんな生き物が食べにくるのか想像が膨らんだ。カジキのように素早いのか。クジラのように大きいのか。齧られるのか丸呑みされるのか。

 見たこともなければ聞いたこともない。まったくの未知だ。一度気になってしまうと、頭の中から興味を消すことができない。


 よし。ちょっと見てみよう。

 人間を食べようとする生物に狙われても問題ない。私は人魚だ。なにかあっても海の底へ引きずり込んでやる。


******


 波に沿って岸まで行けば、一人の人間が地面に転がっている。


 身の丈は私より少し小さいくらい。育っているようには見えないから大人ではないだろう。私と同じ年頃に見えなくもないが、人間なら十年かそこらしか生きてないはず。

 あとは男だということしか見た目からではわからない。華奢な体格で長い髪を後ろに結んでいるとはいえ、潰れていないときの声の音域がテノール相当だから男なはず。たぶん。


「せっかく見に来たのよ、なにか喋ったら。死ぬってどんな感じなの。教えて」


 声をかけてみたが、止まりそうな呼吸を繰り返すだけで返事はない。私の声が聞こえているかさえ疑わしいだろう。

 

 肉は少ないだろうが、捕食者にとってこれほど容易い獲物はない。抵抗もなくそのまま丸呑みしてしまえそうなほど、目の前の人間は弱り切っていた。


 七転八倒しながら悶えたり、ひきつけを起こしながら短い呼吸をしたり、人間が苦しむところを見るのは楽しかった。

 楽しいのだけれど、人間を食べにくる生き物がいつになっても現れそうにない。

 ひょっとしたら人魚を恐れているのかもしれない。そうだとしたらどれだけ待っても時間の無駄にしかならない。

 このまま海へと戻るのもいいけれど。


「このまま帰るのも癪ね」


 人間と関わった人魚は泡になる。人魚の間で囁かれている下らない話。ただそうだからというだけで、私を含めた人魚は人間に近づこうとしなかった。本当にそうなるところなんて見たことないくせに。

 だとすれば、人の死んだところを見たと言えばどれだけの人魚が羨むだろう。鉄の塊を拾ったくらいで大喜びする連中はいったいどんな顔をするのだろう。考えただけでも笑いが止まらない。


「飽きるまではいてあげる。精々苦しんで死になさい」


 返事のつもりかしらないが、うんうん唸り始めた人間を私はじっくりと観察する。苦しんでいるところを観察するのも飽きてきた。

 下半身には鰭じゃなくて足がついてるだとか。服というのだったか、布を身体に纏わりつかせているのだとか。

 海の生き物と違うところを見つけていけば、同じところにも気が付いていく。

 胸に手をあてているのは心臓のあたりが苦しいからだろう。口を開け閉めしているのは死にかけの魚が鰓を動かすのと同じ理屈か。

 人体の仕組みに見当をつけていけば、苦しむ理由もわかってきて。これがなかなか面白い。


「あ」


 気まぐれに頬に触れてみたら、思わず声が漏れた。温かいことはクジラやイルカと同じだけれど手触りがまったく違う。温かく湿っていて、滑らかだけれど吸いつくようで。生命感に溢れている感じは人魚の肌とも違っていた。

 額に貼りついた髪を除けてやり、目じりに浮かんだ涙を拭って、柔らかい頬を撫でた。緩やかになった呼吸をこのまま止まるまで見ていようか迷ったけれど、立ち去ることにした。


 渚にもう飽きたのだ。


 海へと振り返った瞬間に、温かい感覚が指先に触れる。なぞるように撫でれば、先ほど触れた人間の肌だと判断するのは簡単だった。


「まだ死んでなかったの。安らかに眠りなさい。邪魔をするつもりはないから」

「ありがとうって言ってないからね」


 潮風にかき消されそうなほど小さい声だけれど、確かに聞こえた。それどとか、指先に人間の掌がそっと被さっていく。


 死ぬものだとばかり思っていたから驚いた。半信半疑ながら振り返れば、ゆっくりと肩を上下させながらも上体を起こした人間がいる。


「ありがとう。おかげで元気になったよ」


 荒い息を整えながら、人間は笑顔で感謝してきた。

 なにもしないで眺めていただけの私がなにをしたと思っているのか。よほどおめでたい性分に違いない。無性に腹が経ってくる。


「余計な期待は抱かないでくれる。私、人間が死ぬところを見たかっただけだから」

「面白いものじゃないよ。今だって死ななくてよかったって本当に安心してるんだから」


 回復力というのか、平静に戻る力が凄いのだろう。汗を拭った人間はゆっくりと呼吸を整えながらなにごともないように人魚へと話しかけてくる。

 腰から下が見えていないわけでもあるまいに、随分と馴れ馴れしいやつだ。私に一目惚れでもしたのだろうか。


「気安く話しかけないでくれる。人間と馴れあうつもりはないの。驚くなり怯えるなりして、今日のことは忘れなさい」

「びっくりはしてるよ。でもこうやってお話しできているなら、怖がることはないのかなって。なら、いてくれて嬉しかったって言いたいんだ。ありがとう」

「こいつ」


 人魚とまったく違う存在だから人間を観察しに来たというのに、この人間から見た人魚はそうは見えていないらしい。

 自分を含めて、人間を珍しがってきた人魚という存在が急に莫迦のように思えてくる。


「あーそう。わかった。うん。十分。元気になったようでなにより。おめでとう。巣だか家だかわからないけど、来たところに帰りなさい」


 我ながら酷い捨て台詞だ。


 外敵に脅かされない環境で育った生命は見た目が似ているというだけで、傍にいる存在を仲間だと思うらしい。目の前の人間もきっと似たような類の生き方をしてきたのだろう。

 

 そうでないとわかっていても、虚仮にされていると感じる自分が厭になってくる。

 だから海へと戻るはずだったのに。


「今日は楽しかった。また会ってくれるかな。僕の名前は万洋まひろ。じゃあね」


 振り返ったときに見た顔は、遠い昔に一度見たダイアモンドの欠片を思い出させた。

 今まで忘れていた光景を瞬時に思い出させ、そして塗りつぶすほど眩しい笑顔だった。


******


「昨日は面白いものがたくさんあったのよ。硝子っていう硬くて透明なピカピカしたものを見つけたの。氷と違って消えたりしない。泡のように弾けもしない。とってもとっても素敵よね」

「陸に上がればもっと綺麗なものがみられるのでしょうか。溶けていかない。弾けない。混ざりもしない。海にはない美しいものがあるのでしょうか」

「愚問。それは避けるべき。人間に関わってはいけない。この辺りの人間は人魚を食べれば八百年生きるって考えている。他所の人魚は人間のために泡になったらしい。人魚と人間は違うもの。一つのみんなにはなれない」


 人間が人魚に興味を持つように、人魚だって人間に興味はある。人は海に潜れず人魚は陸へと上がれない。生きていける場所が違うから互いに互いを夢見ていく。

 とある人間が人魚について夢想した物語が今も地上で広まっているように、とある人魚が人間について語った物語が今も人魚の間で伝わっている。

 紡がれた物語はどちらも人魚と人の恋愛譚で、人間のために人魚が泡になって消えるのが結末だ。


「あなたもなにか見つけたのかしら。一番帰ってくるのが遅かったのに、昼の間は潮に揺られて揺蕩うばかり。海月くらげみたいにゆらりゆれて。歌声もあげず貝のようにだんまりしずまり。ねえ、なにを見つけてきたの。教えてちょうだい」

「なにを考えているのでしょうか。なにも考えてないのでしょうか。どちらなのか気になります。私たちは気まぐれですが、気まぐれだから退屈せずにいられるのです。それほどまでにあなたを留めるものは、いったいなんなのですか」

「不思議。歌いもしないで漂うだけのあなたは初めて。漂うことがそんなに楽しいこととは思えない」


 夜更かしをしたからしゃっきりしないというだけなのに。興味の矛先が私に向かってしまうとは。

 昨晩のことを自慢しようかとも思ったがやめておく。人間に触れるどころか遠く見るだけでも精一杯の連中だ。盛り上がったらどこまで付き合わされるかわかったものじゃない。

 わかっててイソギンチャクをつつくような真似をするほど私は馬鹿じゃない。


「勘違いも詮索もしないでくれる。せっかく一人になったのだから静かな場所まで歌いに行っただけ。喉の養生をしたいから黙っていたのに。邪魔をするなら失礼するわ」


 その場から立ち去ったのはいいけれど、水の中は音が伝わりやすい。歌おうものなら誰かしら人魚が来るはずだ。

 退屈を持て余した人魚の暇つぶしに付き合うくらいなら。


『明日もいるから』


 あの人間は今晩も私に会いに来るとか言っていたか。


 無視をしたっていいのだけれど、ほんの少し顔を合わせて二言三言交わせば満足するだろう。

 ひょっとしたらあの後死んでいるかもしれないし。

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