風の産声

柏望

第1話 山風


 俺は山に住んでいる。山に住むのは不便だし朝から晩まで働きどおしだ。今だって生活に使う山道の点検であちこち登ったり下ったり休む暇もない。生きることで精一杯だから、山で暮らして幸福を感じられる人間は少ないだろう。


 だが、俺は山で幸せに生きている。ふとした瞬間に頬を撫でる風をなにより心地よく感じるからだ。


「ふいー。気分爽快だ」


 鬱蒼と茂った木々に囲まれている場所でも、どうしてだか山の中では風が吹く。日が沈むまで休んでいる暇なんてないんだが、つい足が止まる瞬間がある。

 木漏れ日に揺れる太陽の光。靴の裏から伝わってくる土と葉の重なった地面の感覚。秋を過ぎて冷え始めた空気。

 街中では味わえない。人里近くともどこか違う。人が近づかない山の中でしか感じられない肌触りや匂いを感じた時だ。


 山で暮らすようになってから苦労しかしていない。それでも、人の声や視線に触れないのは背負った苦労以上に気分安らかにさせてくれる、はずなんだが。


 声が聞こえる。迷い人とかどっかの猟師とかじゃない、鈴を転がすような女の声だ。半月も前にここら一帯は閉山してるし、登山経験者でもここまで来るのに疲れ果てているのが大半だ。


 端的に言って、聞こえるはずのない声が聞こえている。


「ははー。さては狂ったな」


 今まで東京のど真ん中に住んでたのがいきなり山暮らしだ。環境の変化に脳が追いつかなくても驚きはしない。月に数度は人里に降りているんだが、正気を保つには回数がちと足りなかったか。


 やりたいことはまだまだ残っているが、今日は戻ろう。茶でも飲みながら読書してゆっくり休もう。


「もう少し待って」

「いけずです」


 幻聴同士で会話をすることもあるのか。詳しく聞き取ろうとすればよけいに頭がおかしくなりそうなので無視するが、聞こえた地点から離れると声も遠ざかるのは驚きだ。


 とはいえ、少しできすぎている気がしないでもない。


 風の向きが変われば声の強弱も変わる。石や落ち葉の多いところを歩けば足音にかき消される。声の出所だって計算すれば掴めるのだが、幻聴というものはここまではっきりしているものか。


「もしかしたら。もしかするかもしれないよな」


 この辺りは閉山しているがべつに番人がいるわけじゃない。いるとするなら、近くの山小屋の管理人をしている俺がそうだろう。


「仕事を変えても、お節介まではやめられないか」


 沢を渡って木立を抜けて、獣道からも外れたある場所が声の出所だった。

 大人が数人手をつないで輪を作ったくらいの空間に、小さな青い花が群れるように集まって咲いているだけの場所。


 倒木も若木もなく、ただ花だけが咲いている。不思議だという点で山では珍しくない。一つを除けば。


 掌に乗る程度の大きさをした、羽の生えた女が花の上に乗ってキャイキャイ騒いでいる。


「どこよここ。風は吹いてないし、水辺すらない。海でないなら地上だろうけど。こんな気が滅入るようなところがあるなんて信じられない」

「あら。海から離れたことないのに泡になってしまったのですね。もったいない。地上のあれこれを知らないなんて、ねえ」

「風の精になった相手に開口一番嫌味なんて。ムカつくわねあなた」

「なかよくなかよく。これから先は長いのよ」


 女三人寄れば姦しい、とはいうが妖精も同じらしい。

 こういう妙な連中に会うのは初めてだが、話くらいは聞いたことがある。いてもおかしくないのが山という場所だと認識している。さっさと離れるのが筋なんだろうが、こういうことは初めてだ。警戒心より興味が勝った。


「ふざけてる時間はないの。次に吹いた風に乗って、私はさっさと出ていくわ」


 スミレ色の髪をなびかせながら、青空のような瞳の妖精が辺りを伺っている。落ち着きのない様子はその辺にいる少女とそうは変わらない。


「ふふふ。右も左もわからないのにどこにたどり着けるというのでしょう。なんとかわいらしい」


 濡れたように艶の深い黒髪に鈍い輝きを放つ黄金の瞳。優しいようで舐め腐ってるだけのコイツは妖精というか妖怪に近いと直感した。


「みんな仲良く、ですよ。ようこそ地上へ、はじめまして私の姉妹」


 星のように眩しい金髪に深い海の底のような青い瞳の妖精らしい妖精が、新入りらしいスミレ色の髪をした妖精を歓迎する。

 恭しい態度に見た目もあいまってか、お姫さまが絵本から抜け出したかのようだった。


「それと。人間のお客さま」


 お姫さまの言葉と一緒に六つの瞳が俺に向いた。ひゃー。見つかってたのか。


「迷い人かと思って来たんだがアテが外れた。アンタさんがたの邪魔はしない。口外もしないし、この辺には二度と近づかないから帰っていいか」

「厭ですわつれないお方。女同士のきままなお喋りを盗み聞きされたのですもの。おあしはいただかないと。ねえ新入りさん」

「ムカつくけど同意だわ。声を聞きたがるような連中は、みんな水底に引きずり込むのが私たちの流儀だったもの」


 あちゃー。選択を間違えた。見つかった時点でさっさと逃げるべきだったのか。ビビってるのか疲れているのかわからないが、足がピクリとも動かない。

 新入りは獲物を狩るように、妖怪モドキは玩具を見つけたように俺を見ている。そこそこ楽しかった山暮らしもここで終わるらしい。気分しょんぼりだ。


 そんな中で、お姫さまだけは可憐な表情のまま口を開いた。


「人間さん。人間さん。こわがらないで。私たちは人間になりたくて風の精になりました。傷つけようなんて思っていません。だから逃げずにここにいてください」


 一歩こっちへ進んだお姫さまが小さな頭をぺこりとさげてきた。


「そうですよね、姉妹たち。みんな仲良く過ごしましょう」


 スミレ色の髪をした新入りも、黒い髪の妖怪モドキも、お姫さまの肩越しに俺を見ているだけで否定しない。こちらの出方を伺っているだけかもしれないが、付け加えることもしないのだからお姫さまの言う通りなのだろう。


 向こうに丸く収める気があるなら、こっちだってなにか気に入りそうな話でもするべきだ。


「ふーん。盗み聞きしたのは俺が悪い。靴以外ならどれでもここに置いていくし、あるものなら住んでる小屋まで取りに行く。干したキノコとか山菜で作ったお茶とかでよければだけどな」

「あらあらなんて可愛らしい。今の日本でそんなつましい生活をしてるお方。いったいどんなお辛いことがあったらそうなるのでしょう」

「ぼんぼんってあるかしら。妙な香りの水が中に入ってる泥だんごみたいな見た目のやつ」

「ストップ。ストップです。みんな、まずは私たちをこの人に知ってもらいましょう」


 やいのやいの言い出した新入りと妖怪モドキをお姫さまが静止する。言われてみればそうだった。こいつらいったいなんなんだ。


「私たちは風の精です。善い行いをして人間の魂を手に入れるために頑張っています」

「そんないいもんじゃないぞ、人間なんて」


 思わず漏らした一言で水を差してしまったのか、妖精たちは三人それぞれに顔を合わせて俺を見る。あれほど気ままに振舞っていた三人が、すっと同じ行動を取るのは異様ですらあった。


「そういう考え方を否定はしません。でも、人間に心の底から美しいと思ったから。人間の愛が欲しくて。人魚だった私たちは泡になったんです」

「ちょっと待った。どうして人魚が泡になる。泡になったら風の精になるのもだ。というよりなんだって人間なんかに」


 風の精だと思っていた連中はもともと人魚だったらしい。泡になったあと、風の精になって善行を積んでいる。それも人間なんぞになるために。

 ちょっと情報が多すぎる。一つ一つどういうことか聞いてみようと思ったが。


「あら。恋破れた人魚が泡になる話って、人間の方でも有名じゃないの。私は振ったけど」

「なんで風の精になると言われましても。神様がお決めになられたことですので。わたくしは存じあげません」


 新入りと妖怪モドキがそれぞれに語るのを聞いて思い出す。人魚姫は人魚だった彼女が泡になって終わりではなかったのだと。

 風の精になった人魚の姫は人間の魂を手に入れ、神の国へ向かうために善行を積んでいるのだという。


「人魚だったときも、風の精になったあとも、人間もこの世界のこともわからないことばかり。だから聞いてください、私たちのことを。そして教えてください、あなたのことを」


 お姫さまの顔は真剣そのもので、海のゆらぎをたたえたような瞳は俺を捉えて離さなかった。無視して気楽な山暮らしに戻ろう、というのはちょっと難しい。


「わかった。俺の話で気分すっきり。は無理だろうが、聞きたいなら話す。で、アンタたちの話は誰から聞けばいいんだ」

「私にやらせて。風の精になってまでやりたいことだもの。最初に振り返るのもいい経験でしょ」

「あぁよかった。わたくし恥の多いもので、新入りのあなたにどう喋らせようか考えておりましたの」

「茶化してはいけませんよ。私はあなたのお話が聞けるなんてとっても嬉しいわ。なんでも聞かせて」


 妖怪モドキが新入りをまぜっかえし、お姫さまがなだめる。楽しく盛り上がってるところに水を差す趣味はない。日が暮れるようなら小屋に戻れるか頼むつもりだったが、話は意外と早くまとまった。


「話すだけ話したら、こんなところさっさと出てくわ。だから口を挟まないでちょうだい」

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