インスタントラーメン。
ガチャ…。
玄関のドアを開ける。
電気はついているけど、静かだ。
「ただいまっ…と、あ〜まだ、ダメそうかな…。」
靴を脱ぎ、スーパーの袋をテーブルに置いて、手を洗ってうがいをする。
いつもなら出迎えてくれるけど、今日はほんとにダメらしい。寝室のドアを開ける。
「ただいま。うん…いいよ、寝てな。なんか、食えそう?てか、水分はとれてんの?」
「あぁ、そっか。うん、せめて水分はな、じゃないと点滴とか、入院になっちゃうからってこの間先生にも言われたろ?なんか、腹に入れる?試せそう?」
「こないだ、みかんはいけたろ?だから、ちょっとみかん買ってきた。この季節にみかんって結構ないもんだな。あとひと月、ふた月すれば、どこにでもあるんだろうけど、缶詰はあんまり食べれなかったもんな。いや、いいよ、これで少し栄養とれんなら安いもんでしょ。」
「ほら、泣かない泣かない…。大丈夫だって。今は食べたもんが栄養としていく時期じゃないって先生も言ってたろ?お母さんが食べたいものを、食べられるタイミングで
…そう、ベッドでしょげているのは、妊娠3ヶ月の妻。
このところ、飯が全然食えていない。
正確に言えば、匂いからして受け付けないらしい。
食べてみて平気なものも、わずかながらあるらしいけど、それもその場限りで、今日は良くても明日、大丈夫とは限らないらしい。
…しんどいよな…。
とはいえ、食いたいのに食えない、は誰にとっても辛い以外の何ものでも無いわけで、俺はここ数週間、仕事帰りに彼女の食えそうなものを物色しては帰る毎日を過ごしている。
男にできるのはこれくらい、って言っても、これもありがたい義兄のアドバイスあっての話だ。
「妊娠中の恨みは一生ものなんだって。だから、今、大変でも全力を尽くしたほうがいいよ。大丈夫、永遠に続くもんじゃないから。恨まれたら、永遠かもだけど…。」
…なんて恐ろしいことを笑顔でいう義兄は、姉の夫で、いまや3児の父だ。
あの気の強い姉でも、
「お産の恨みは一生ものらしいからな。今はとにかく全力を尽くせ。」
正確には産前産後の恨みは一生…ということらしいけど、ことわざではないにしても、昔からよく言われてることらしい。
…そして、きっとその上司さんも、何か…あったのだろう。実体験からくる、何かが…。
トツキトオカ+αの期間に起きた出来事をきっかけに、愛する妻に一生恨まれる…とか、無理だわ、生きていけない…。
というわけだから、というわけでもないけれど、単純に、いつも笑顔の妻が元気を無くしていく様は、見ている方もつらいから。なんとかしてやりたいと思うのは夫として当然。
しょぼんとしている妻の頭を撫でながら、そんなことを考えていると、トイレ行く、それでお水飲む、というので、ベッドから立って身体を起こすのを手伝う。
…痩せたな…。
軽々と起こせる位の華奢な肩に、そのしんどさがわかる。もともと細い方だけど…。
そうして、トイレに向かう妻を見送り、ベッド周りを少し整えると、自分の夕飯の支度をしようと、キッチンに向かう。
夕飯というには、質素…てかもう自分の分だけだと、もうめんどくさくて、これでいいやと適当にスーパーで
鍋に水を入れて、火にかける。
ふつふつとお湯が沸く。
インスタントラーメンを放り込む。
特になんの情緒もわかない作業…。
カット野菜と、あと冷蔵庫にハムもあったから、ついでに放り込む。
適当にかき混ぜて、粉末スープも入れる。
…いい匂い。でも、まだ終わりじゃない。
卵を割って、真ん中に落とす。
我ながら良くできた。なんか、急に腹が減ってきた。止まっていた情緒が動きだす。
…ところで、トイレに行ったきりの奥様はどこへ?まだトイレいんの?もしかして、倒れてたりする…?
出来たてのラーメンを前に、最優先事項の序列が変わる、え、大丈夫…?
ガチャ…。
「あ…でてきた、良かった。トイレで倒れてたりしないかとちょっと心配してた。大丈夫か…?え、ちょっと寝てた?あんな不安定なとこで寝たら危ないでしょうよ…。なんかぼーっとしてたら、だいぶ経ってたって…ほんと大丈夫かよ…。」
ぼんやりとした彼女が俺の背中越しの鍋を気にしている…。やべ、鍋からそのまま食っちゃえとか思ってたから…そのままだ。
「えっ…あぁ、これ?あの…俺の夕飯…インスタントラーメン…いっ、一応身体のことを考えてだな…野菜とか肉とか卵が…。」
なんでこんなにいいわけする必要があるのか…俺の飯だから、別に良いはずなのに。
『…お産の恨みは…。』
頭の中で、そんな言葉がこだまする…。
やべ、なんかまずいか?
普段身体に気を使って、バランスよく食事を出してくれる彼女がいないと、こんな簡単な飯で済ませてることを叱られる…?
食べられなくて困ってる彼女を尻目に自分だけ美味そうなものを食ってるってのが、まずかった…?
匂いですらダメなのに、こんな匂いの強い食事を、側で食べるなんて配慮が足りないとか…?
ありとあらゆる、叱られネタに思いを巡らせながら、彼女の顔を見る。
彼女は少し涙目で近づいてくる。
「えっと…あの、いや、ごめん。匂いきつかったよな?とりあえず、ふた被せとくからさ、部屋にまではこの匂いいかないだろうから今のうちに…まだできたばっかでそんなに広がってない…と思うから、あの、ごめんな?俺だけ普通に食べられて…。」
ビビり過ぎか、俺は。
涙目で近づく彼女は俺のところまで来るとそのまま俺を見上げる。
…ちょっと待って何?!可愛い…可愛んだけと?!
『それ、食べたい。』
「えっ?!」
『…美味しそう。それ、私も食べたい。だめ…?』
「…ダメじゃない…です…。」
何なの可愛いっ…いや不謹慎か、こんな状況でっ…てか、食べていいの?こんな…ジャンクな食べ物を…いや、こんなとかインスタントラーメンの会社に失礼か、いやてか、塩分とかなんかそういうの、いいの?!…っでも、食べられる物食べたらいいとか言うし、よくポテトなら食べられるとか、いろいろ聞くしな…ええぃ、もう、食いもんは食いもんだから、まぁいいだろうっ…。
「…じゃ、座ろっか。」
彼女をいつもの席に座らせ、器を出そうと食器棚へ手を伸ばす。
『ずるっ…ずるるっ…。』
「えっ…。」
振り返れば鍋から直にラーメンを
『美味し…。』
ひとしきり食べた彼女がふう…と息を吐き、つぶやく。
…食べられたのだ。2つの意味で…。俺のラーメン…。
…思いもかけない形で、心配事が軽くなったと同時に、腹もさらに減ってきた。
『あっ…ごめん。半分と思ってたのに…。』
気がつけば、その大半を腹に収めたことに自分でも驚いているらしい。それだけ今まで大変だったのだろう。
「ぷっ…いいよ、全部食べて。」
…良かった。ほんとに、良かった。
さて、ところでだ。
俺は何を食べますかね…。
カップラーメンなら、ある。もう野菜は無いけど、食っちゃったんだから、しょうがない。怒られはしないだろ。
お湯を沸かして、カップラーメンの蓋をはがす。
さっき、お湯にインスタントラーメンを放り込んだときより、なんだか気持ちが軽い。
蓋の上に皿を載せ、3分待つ。
彼女は、スープをレンゲですすっている。
ひよこ型のキッチンタイマーが出来上がりを告げる。
…やっと、俺の飯…。
蓋をはがして、少しかき混ぜる。
湯気が立ち昇る。
ひと口食べて…その視線に気づく。
猫のようにらんらんとした目が、獲物を狙ってこちらを見ていた。
『…それも…。』
えっ…いやいやいや、食べれるからって飛ばし過ぎでしょ、これはダメよ、俺の飯。
『…ひとくちだけ…。』
いやいや、可愛くしたってダメでしょ、絶対。お腹痛くなるよ?今まで食べてなかったんだから、びっくりするよ、お腹。
『…スープだけ…。』
ぐっ…なんでそんなに食い下がるんだよ、今日は…負けそう、負けちゃダメだ、さすがに塩分が…。
…お産の恨み…だとしてもこれは、俺は悪くない、はず…食いもんの恨み…だとしても、これも俺の方が、恨んでもいいはず。いや、このくらいで別に恨みやしないけど…。
結局、俺の腹はラーメンでは満たされることなく、冷凍庫で眠っていた焼きおにぎりでようやく落ち着いた。もう少しなんか買っときゃよかった。
妻はというと、久々に満たされた腹に手を当てすやすやと眠っている。ほんと、大変だっのね…。
洗い物して、風呂入って…ビールでも開けちゃおっかな…あ、でも起きてきたらまた飲むとか言い出しそうだ、やめとこう。
あの顔に抗えないことを思い知らされてる今、その攻防に勝ち目はない。
戦わないことが一番だ。
あ、そうだ。みかんでも…食おっかな…。
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