蚊取り線香。
「ただいま〜。」
すっかり暗くなった帰り道に慣れた目が、玄関の明るさにくらむ。夜にもなると、若干肌寒い。日中はあんなに暑いのに。
「おっ…今日は俺の方が遅かったかぁ…夕飯何…?すげぇいい匂い…。」
おかえり、と聞こえてくると同時に、美味そうな夕飯の匂いと彼女が顔をだす。
いつもはわりと俺の方が帰宅が早いから、夕飯作るのも俺の方が多かったりするんだけど、今日は彼女の方が早かったらしい。帰ったら飯があるとか最高…。
「えっ…ちょ…何…?どうしたの、俺帰って来たばっかで、絶対汗臭いよ…?」
キッチンから玄関にやってきた彼女が、俺の周りでスンスンと匂いを嗅いでいる。何、そんな臭い…?今日はそこまで汗かいてないけど…あれか、鬼ごっこはしたな、昼休み…。
「えっ…普段は、しない匂いがする…?は?お線香みたいな…おじいちゃんかよ…てか、線香なんて最近見てすらいないんだけど…あっ…。」
心当たりが1つだけ。いや、多分これしかない。
「あれだ、蚊取り線香。」
そろそろ秋ですが…?とでも言いたそうに、首を傾げる彼女。その仕草がなんかかわいい。
「いや、今日校庭の草むしりの日でさ、それでついでに花壇の植え替えもしようなんてことになって、外でいろいろやってたんだけどさ、蚊が結構いてさ〜。最近の蚊ってさ、真夏は暑すぎて飛べないんだってな。今頃の方が多いって。でさ、虫よけも、子どもたち肌弱いから
こう見えて、俺の仕事は、小学校教諭。今は3年生の担任だ。二学期が始まって、夏休みの植物観察も一段落、少しずつ秋めいた空の下、蚊取り線香ぶら下げて子どもたちの監督と、土いじりをめいっぱい頑張った。
「それでも、そん時はジャージだったし、服も着替えたし、そんな臭うかな…?」
ワイシャツの袖のあたりを嗅いでもよくわからない。そりゃそうだ、着替えたし。
「えっ…あぁ、髪…髪の毛か〜盲点だったわ。えぇ…てか俺、その蚊取り線香臭い頭で電車とか乗ってきちゃったよ〜。めっちゃ周りに気づかれてたかも…。」
線香の匂いのするおばあちゃんとか、たまに出会うけど、別に嫌な感じはしない。仏壇を大事にしてる姿とか、毎日故人やご先祖さまを悼む姿を想像できる。
…でも、蚊取り線香臭い30近い男は…どうなの…?イケてはいないよな…たぶん。
「いろんな意味で虫除けになったかも…って何そのちょっと嬉しそうな顔。悪い虫がついたら困るって…それ、どっちかっていうと君だからね?俺の周りはu-12の子どもばっかりよ?…工業高校の音楽教師やってる君の方が、よっぽど悪い虫が寄ったら困るんだけど?…ほとんど男子でしょ…。」
今はそうでもないよ、とか言ってるけど、割合で言ったら圧倒的に男子の方が多いだろう。そんな中で二十代の女の先生とか色めき立つに決まってる。俺もそうだった。
「なんなら、君が蚊取り線香ぶら下げといた方がいいよ、虫よけに…。てか、もう俺がぶら下がって行ったほうが手っ取り早い?婚約者ぶら下げてればそうそう悪い虫も来ないでしょ?」
俺がぶら下がってる姿を想像した彼女が爆笑している。変なこと言った自覚はまぁ、ある。現実にはぶら下がっていくわけには行かない。
ひとしきり笑った彼女が、「ご飯たべよ?」とか言ってくるもんだから、もうとりあえずなんかいっかって気持ちになる。
でも、シャワーぐらい浴びたほうがいいかな?そんな気持ちを、見透かすかのように「その匂い私嫌いじゃないよ?」なんて言ってくるから、もうじゃあ風呂入んのやめるってなったけど、「ご飯食べたらちゃんと入って。」と釘をさされ、とりあえず手洗いうがいを済ませる。
秋の夜長と虫の声。
今日もよく働いたなぁ…旨い飯最高…。
それじゃ、いただきます。
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