「首」

 結局、夢なんか見れること無く目が覚めた。時間にして1時間ほどしか眠れていない。結構に重労働をしていたから、寝落ちは良かったのだが、目覚めるのも同じぐらい良かった。目が覚めると、四肢を無くした葉佩はばきさんと、リノリウムの床に広がっている乾いた血の跡が目に入り、一瞬心拍数が上がった。が、直ぐに思い出して溜め息をついた。それから立ち上がって体を伸ばすと、鋸を手に取った。刃に付いていた血が乾ききっていて、錆びた様な色になっている。爪でカリカリとこすってみると、爪の中に汚れが入る感覚があった。もっとも、手が汚れきっているので実際にどう入っているのかは分からないが。私は1度その部屋を出て、手を石鹸でガシガシ洗って戻った。廊下に出た時に、外の日が差し込んできて眩暈を覚える。リノリウムの部屋には窓が無く、時間感覚が狂うのだ。

「もう、朝みたいですよ。」

 やたらとはっきりした声が出る様になり、目を閉じたままの葉佩さんに話しかけた。冷房の効いた部屋で、葉佩さんは微動だにしない。当たり前のことだ。私はひとまず葉佩さんをあのステンレス製のテーブルに寝かせ、床を雑巾で掃除した。四肢は風呂場から拝借したバスタオルで綺麗にして、体の隣に並べておいた。それから軽く鋸を洗って、私はまた葉佩さんを床に寝かせた。いや、葉佩さんだった物、というのが正しいのかもしれない。私は昨日の夜された様に、葉佩さんに馬乗りになった。まぁ、脚が無いので馬乗りと言うよりは、ただ私が地面に座っている様な感じなのだが。そして、1度やってみたかった「床ドン」という体勢を取った。顔の距離が近いな、と思った。じっと眺めてから、葉佩さんの首に顔を近づける。――それから、ガブリと嚙みついた。純粋な好奇心からだった。勿論反応は無い。

「へぇ……死人にも噛み痕って付くんですね。」

 ぽつりと呟いて、私はそれを指でなぞった。左側に付けた噛み痕から、外れてそっと右の首の端の方に指を滑らせる。首の右側には、ざっくりとした深い傷があった。

「……痛そう。」

 そう言ってから、私は笑ってしまった。四肢の切断よりも、この小さい傷の方が痛いんだろうか。可哀そうなことをしたかな。なんて思ってしまう。ひとしきり笑ってから、ゆらりと鋸を振り上げた。

「これで、終わりですからね。……終わりですから。」


 葉佩はばきというペンネームは、日本刀のはばきという部分から来ていると葉佩さんは言った。

刀を鞘に納めた時に、刀身が鞘から滑り出ない様固定する役割と、鞘の中で刀身を浮かせる役割を持つ部分なのだと、葉佩さんは私に言った。

「私ね、自分の汚くて、気持ち悪いところが人目に滑り出さない様にするための手段として小説を書いてたの。だからハバキ、っていうペンネームにしたんだ。」

 だから、本当にただの文字遊びなんだよ、と言って疲れたように葉佩さんは笑った。冷たいリノリウムの床に、2人して寝そべりながらそんな話をした。首だけ左に向けると、葉佩さんの逆さの顔が視界に入る。葉佩さんは入り口に足を、私は頭を向けて会話をしているという事だ。何とも不思議な感じだが、その不思議がさして大きくもない様に感じていた。その程度の事だった。

「伊吹ちゃんの、ペンネーム……緋色ひいろだっけ。」

「えぇ。」

 緋色。伊吹緋色。正直言うと、私は緋色が好きでは無い。私は暗い寒色系の色を好むのだ。それなのに、自分のペンネームをこれにしたのは――ただ語呂が良かったからだ。その響きが好きだったから、緋色にした。それだけのことだ、と葉佩さんに言うと、少し悲しそうに笑った。

「伊吹ちゃん、緋色とか、赤とかが似合うのに。」

 私は面食らってしまい、驚いていた。そんな私を見ると、葉佩さんは声を上げて笑った。そして、私の頬に触れて指で擦った。そっと手を離して私に見せる。葉佩さんの指は血で濡れていた。どうやら私の頬に付いていたらしい。

 この葉佩という人は、感情が欠如していた。

恐怖や不安といった負の感情が彼女には無かったのだ。それは、さっきのホテルでの1件でもそうだったが、人間としての倫理観的なものも著しく欠けていた。だからさっき人を殺した時も動揺しなかったし、ミステリーにも暗っぽい感情が反映されていなかったのだ。

 何も感じない。ということだろう。想像ができないが。

「伊吹ちゃん。」

 葉佩さんの凛とした声で引き戻される。私はただ、その人の目を見た。

「私は伊吹ちゃんのこと、大好きだけど――大嫌い。」

 悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、葉佩さんはそう言った。その一言は私にとってあまりにも鋭く、冷たい一言だった。私は、葉佩さんの言葉の次を待った。

「私の事、殺せる?」

 大好きだけど、大嫌い。その一言には、彼女の精一杯の負の感情が詰まりきっていた。わざわざ、自分の事を愛しく思っている人に自分を殺させようとしている。それはすなわち、その人が嫌いである故に一生モノの罪悪感を背負わせて生かしたいという事なのだろう。

 私はきっと、葉佩さんを愛しく思っているために、彼女を殺すと壊れてしまう。そして葉佩さんは、私が嫌いなために私の崩壊を望んでいる。

「……殺せますよ。」

 大好きですから。私は貴女の事が、心の底から好きですから。そう告げると、葉佩さんは心底嬉しそうに笑って礼を言った。

「実は生きるの、もう飽きちゃったんだよね。」

 だから結構さっきも躊躇いなくできたんだよー、と葉佩さんは軽く言った。次に興味があるのは死かな。なんて、遊びに行くところを相談するような口ぶりで言った。私はただそれを薄笑いで見ているしかなかった。それから、乾いた唇を動かした。

「じゃあ、なんで泣いてるんですか。」

 葉佩さんは図星を突かれたという顔になった。それから顔を両手で隠して、泣きながら大きな声で笑った。

「君が大好きだから、って言っとこうかな。」

 それは、私との別れを惜しんでいるのか。それとも、私に殺されることを喜んでいるのか。聞く勇気は無かった。

「……じゃあ、最期に言い残すことは。」

「んっとねぇ、まず、こう、思い切りよくやってね。痛いの嫌だから。」

「分かってますよ。」

「あとは……あ、そう、バラバラ死体にしてほしいんだよね。」

「バラバラ死体、ですか。」

「そうそう。なんかすごくない?」

「それは分かんないですね。」

「えぇー?ま、いいや。あ、あとね。全部終わったらちゃんと部屋掃除してね?」

「はい。勿論。」

「あとはー……。バラバラにしたら、伊吹ちゃんの好きな所に私の体撒いといて。」

「ははっ、酷い人だなぁ。貴女も。」

「ふふ、誉め言葉だね。――あ、じゃあ。ちょっと顔向けて?」

「はい?――っ、い、っだっ。」

「へへへ、痛いでしょ。結構強めに殴ったから。」

「な、にするんですか……。」

「あれ、ちょっとー?死なないでよ?」

「にしても……鋸の柄で殴る事無いじゃないですか……。血ィ出てきたし。」

「ありゃ、やりすぎたな。――いやさぁ、一応私はこれから痛みを感じるわけだから。君にも同じぐらい感じて欲しいかなーって思っちゃって。」

「いや、私はこれから一生かけて痛みを背負うんですけど。」

「あ、そうだったね。ごめんごめん。」

「――で、それだけですか。言いたいことは。」

「うん。――あ、あとやっぱ1つだけ。」

「何ですか?」

「ふふ――大好き。」

「……はぁ。」

「え、何。酷くない?」

「いえ。酷くないですよ。――私も大好きです。」

「ははっ、ありがと。」

 ステンレス製のあのテーブルに座らせて、私は葉佩さんの背後に立った。右手に新品の鋸を構えて、刃が水平になるように持った。それから思い切り振りかぶって、首に突き立てた。

  ザシュッ

 皮膚の破れる音がして、刃が深くめり込んだ。少し手前に引きながら鋸を首から離す。直ぐに血が吹き出して、葉佩さんの体が倒れた。テーブルから落ちそうになった体を受け止めて、抱きしめる。それから暫く放心していた。血が止まり始めてから、私はぼんやりと意識を取り戻した。まだ人としての温もりを持っている葉佩さんの小さな体を、そっと抱きしめた。途端、後頭部にずきりと痛みが走り、一気に状況を呑み込んでしまった。

「……はぁ……はぁ、……はぁっ。」

 息が苦しい。心拍数が急激に跳ね上がり、体中が熱くなる。それから、私はそっと葉佩さんを見た。――それはもう、死体と呼べる様だった。

「はぁっ。」

 私は、葉佩さんを殺してしまったのだ。


 私は鋸を片手に、葉佩さんの胴体を見下ろしていた。もう片方の手には、葉佩さんの頭を抱えている。鋸を適当に放り投げ、風呂場に向かう。浴槽に水を張って、そこで丁寧に葉佩さんの頭を洗った。あの柔らかい髪も丁寧に洗って、乾かした。胴体も軽くタオルで拭いて、四肢の傍に並べた。

「ははっ、バラバラ死体の出来上がりー。」

 私は力なく笑って、四肢を濁った浴槽の中に放り込んだ。ビシャビシャと水が跳ねる。

「申し訳ないけど、自分の好きな人は1人占めしたいんですよ。」

 このまま放っておけば、きっと腐るだろう。それからどうするか考えよう。

「もう、朝ですよ。」

 私はバスタオルで丁寧に葉佩さんの頭部を包んで――葉佩さんの部屋を後にした。

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