「脚」
その人――
「……しっろ。」
絹肌、というのだろうか。透き通るような白だった。もしかすると雪女か何かなのではという状況に似合わぬ馬鹿な考えが浮かんで、1人で吹き出しかけた。まだ大して汚れていないので触るのを躊躇うと同時に、葉佩さんのこの美しい脚に触れてみたいという謎の葛藤が生まれる。ゆっくりと、乾いた指で太ももをなぞる。腕と同様、滑らかだった。女性らしい柔らかさを感じて指先がぞくりとする。……いけない。これ以上は良くない気がする。そう思って鋸を手に取った。ぎゅっと、その柄を握りしめた時にふと思い出した。確か私は、少し前にもこの白い脚に、目を奪われていたのだ。
あの時、葉佩さんは珍しく鮮やかな青のピンヒールを履いていた。カツカツと気味の良い音を響かせながら、私に手を振ってくる。私はただ機械的に振り返した。
「ごめんねー、ちょっと手間取っちゃって。」
「いえ、私も道に迷ったんで。今ついた所です。」
今日は件の出版社主催の集まりの日だ。私は適当に選んだ白いワイシャツに黒いクロスタイを付けて、一応パーティーっぽい服を見繕って来た。葉佩さんは私のその恰好に、微笑みながら似合ってると言ってくれた。葉佩さんはというと、鮮やかで深い青の7分袖ワンピースに、ピンヒールだった。葉佩さんは背が高い方では無く、そのピンヒールを履いたことで私と肩が並ぶぐらいになった。それに気づいた葉佩さんは嬉しそうに笑って私の肩を指先で弾いた。私はただ純粋に恰好を褒め、それから会場のホテルに向かった。
そこはさして規模の広いホテルではなく、宿泊と言うよりはこうした集まりに利用されることの多い、出版社御用達のホテルだ。私は憂鬱な気持ちを抱えながらその大広間の扉を開けた。部屋の中にはざっと見て2、30人の人たちが思い思いに立ち話をしていた。皆スーツやドレスで本当にパーティー気分である。私は隣に葉佩さんが居る事も忘れて思い切り溜め息をついた。それを見た葉佩さんにくすっと笑われた。
「あぁ、
突然正面から嫌な声がした。編集長だった。私は苦笑いを浮かべながら挨拶をし、事情を話した。編集長は嬉しそうに笑うと、今夜は楽しんでくれと言って立ち去って行った。
「ねぇねぇ、伊吹ちゃん。私なんか食べたい。」
葉佩さんはそれだけ私に言って何処かに行ってしまった。振り返った時には居なかったのだ。後で連絡しようと思い、部屋の隅に移動する。こういう集まりごとに参加しなくてはならない時に必ずやるのだ。そこで壁にもたれて本を読んでおく。そうすれば誰も話しかけてこない。
私が作家になったのは、社会不適合者だからだ。びっくりするほど世渡りが下手だったために、人付き合いがまるで上手くいかず20を越えた。泣きたくなるような話だが、そんなひねくれものだからこそ小説家に成れたのかもしれないと思うと少し嬉しくもなる。ほんの少しだが。最初は自分の思いをただ書いていた。新人賞に通ったのもそういう作品だったと思う。だからと言って、その思いがどうにかなったのかと問われると答えに困る。
葉佩さんのミステリーは何処までも明るかった。
殺人のシーンでさえ、おどろおどろしさを感じさせない。あくまでも事実を述べている様な文体に軽く恐怖を覚えたほどだった。きっと葉佩さんは――嘘が上手なんだろう。私は正直者では無いが、人に嘘をつくのがどうしようもなく下手だった。本当直ぐに露見する。
もし、あの葉佩さんの笑顔が嘘なら。あの底なしの人間性が嘘なら。少しは救われるだろう。
あの人に友達が居ない理由は完璧だからだ。きっとあの人の隣に居ると、己の小ささをダイレクトに感じてしまうのだろう。私が前に感じた名の無い何かはソレだったのだ。妬み、恨み、僻み。そういう感情を、あの天女みたいな人に向けてしまう自分に対する嫌悪感が募っていく。
なんで仲良くなったんだっけ。ふとそんな疑問に当たった。私と葉佩さんはどこまでも対極的なのだ。陰と陽、正と負。そんなイメージだ。なのに存外仲が良い。不思議な事だ。
「……。」
遠くに、葉佩さんのワンピースの青が見えた。そして――その手を引く男が居るのも。
「……っ。」
腹の底から嫌悪感を覚えた。こんな感情になるのは久しぶりだと思いつつ、無意識にその2人を追いかけていた。大広間を出て、一気に周りが静かになる。正面のフロントを右に曲がっていく2人が見えた。私は少し立ち止まって迷う。それから歩き始める。その方向にはトイレがあるのだ。私はこれから何が起こるのかを想像して溜め息をついた。いつもなら気にもしないが、心の底から嫌だったのだろう。2人がトイレに入っていった。葉佩さんが若干抵抗しているのが見えたが、そのまま視界から消えてしまった。私は歩くスピードを速める。
「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌――。」
ぶつぶつと小声でそう呟きながら私はスピードを速めた。途中つまづきかけたが、そのまま歩き続ける。それからトイレの入り口に立った。
「……いや、だ。」
洗面台に座らせられて涙目になっている葉佩さんと、気色の悪い笑みを浮かべる誰か。もしかしたら知り合いだったかもしれないが、私は葉佩さんしか見えていなかった。それから声を出した。大して大きく無い声だった。
「何してるんですか。」
腸が煮えくり返っているくせに、やけに冷静な声が出た。葉佩さんがこちらを見て何か反応したが、誰かの体に遮られて見えなくなった。誰かが私に近づきながら何か言ってくる。だが、私はそれは声と認識できていなかった。少しして、やっと何か言っていることに気づき、内容を理解しようとする。――しようとしたのだが。
「……あ、うが、ぐ――」
その誰かは、思い切り正面、つまり私の方に倒れてきた。重そうな体がホテルの絨毯に落ちて、小さな音を立てた。それ自体にはあまり驚かなかったのだが、その誰かの頭に――見覚えのある青いピンヒールが刺さっていたことに面食らった。
「……え、は?」
困惑した私の口から、そんな間抜けな声が出た。そっと視線を前に移す。と同時に。
「伊吹ちゃ……。ありがとう……。」
葉佩さんが、私に抱きついてきた。黒いストッキングを履いた足で、精一杯背伸びをしながら私に抱きついてきた。柔らかい葉佩さんの髪が顔に当たる。シャンプーか香水か分からない甘い良い香りで、頭が一杯になっていく。
あぁ。そういうことか。そういう、ことか。
思考放棄。私はただ、葉佩さんを抱きしめ返した。それから少し抱きしめていたが、ゆっくりと腕を離した。葉佩さんは背伸びをやめて、2、3歩後ろに下がった。――葉佩さんのワンピースには、少しだけ男の返り血が付いていた。ワンピースについた血よりも、白い綺麗な顔に付いた血の方が良く目立った。私は葉佩さんをさっきの様に洗面台に座らせると、自分のハンカチを濡らして葉佩さんの顔を丁寧に拭いた。あんな下衆みたいな男の血なんか、さっさと落としてしまおうという一心で。葉佩さんは化粧が落ちちゃうと笑っていた。私はそれにただ笑い返した。化粧なんかしなくたって綺麗なのに、と微笑みながら言って見せる。葉佩さんが珍しく照れていた。
それから私は葉佩さんの手を引きながらホテルを後にした。葉佩さんは、このピンヒールお気に入りだから履いて帰りたいのと笑っていた。私は先ほどまで人の頭に突き刺さっていたそれに対して抵抗があったが、葉佩さんに押し切られてしまった。葉佩さんは嬉しそうに私の手を握りながら、雨に歌えばを鼻歌で歌っている。私の手はじっとりと汗で濡れていた。
さっき、この人は人を殺した。それはごく当たり前の様に。顔色1つ変えていなかった。私に抱きついた時も、興奮はしていたが恐怖や不安などは微塵も感じさせなかった。相変わらず、青のピンヒールはカツカツと音を立てている。恐らくまだ少し血の跡が付いているだろう。流石に頭へと突き刺さっていたせいで洗っても中々落ちなかった。あの誰かは、トイレの個室に押し込んでおいた。後は適当に発見されることを待つだけだ。
「ごめんねー、伊吹ちゃん。」
唐突に葉佩さんが言った。私はそっと目線をやって首を傾げる。葉佩さんはこちらを見ながら微笑んだ。
「いや、私も伊吹ちゃんも犯罪者だからさ。」
私はニッコリと死んだ目で笑って、問題ないと答えた。葉佩さんは一瞬顔を曇らせたが、直ぐに私から目を逸らした。それから無言で歩いて、葉佩さんの家に着いた。さきに葉佩さんを家に上がらせて、鍵を閉めた瞬間――玄関の廊下に思い切り押し倒された。背中に鈍い痛みが走る。私はちゃんと状況を理解して、顔を顰めた。緩んでしまわない様に、全力で顰めた。
葉佩さんが私に馬乗りになっていた。さっきのピンヒールも脱がないまま、私の上に馬乗りになり私を見下ろしている。ただ黙ったまま、私を見つめていた。その表情は無感情にも、恍惚そうにも見えた。私もただ黙ったまま葉佩さんを見つめる。それから、そっと葉佩さんの頬に手を伸ばした。葉佩さんは頬に触れられることを拒むことなく、私を見続けたかと思うと微笑んだ。
「ねぇ、伊吹ちゃん。」
「……何ですか?」
「大好きだよ。」
「……ありがとうございます。私も、大好きです。」
「ふふ、知ってる。」
その時の葉佩さんの表情が、私の頭にこびりついて離れない。恐らく私は、その時葉佩さんの事を本気で愛しいと思ってしまった。
「……、ほんと、大好きです。」
私はさらに歪さの増した葉佩さんの事を見た。あの真っ白だった脚は、両方根元から切って腕と一緒にまとめて置いてある。青いワンピースの裾は脚による膨らみを無くして、1枚の布の様にしか見えない。今となっては上半身しか残っていない葉佩さんの頬を、濡らしたタオルで拭いて綺麗にした。満足気で、達成感が滲んでいる様なその表情は、あまり私が見た事の無い葉佩さんの表情だった。私はそばの血だまりに小指を付けた。血の気が失せて真っ白になってしまった唇に、そっと小指を這わせる。さながら口紅の様になった。私は少し、葉佩さんを眺めてから壁にもたれて浅い眠りについた。
いい夢を見たいと願いながら。
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