「腕」

 この人はよくこのワンピースが似合うよな、なんて考えながら。私はその7分袖を捲り上げて、剥き出しになった白くて細い腕に鋸を押し付けた。

  ギュリ ギュリ

 そういう気味の悪い音が鼓膜を震わす。さっきあんなにも首から吹き出していたのに、腕から少し血が流れた。太めの血管を切ったらしく、私の頬に血が飛ぶ。その人の右の手首をぎゅっと握りながら、鋸を前後に動かしていく。

『今日午前、◆◆ホテルの1階トイレにて、××出版の――さんが遺体で発見されました。遺体には頭部を棒状の物で傷つけられた跡が残っており――。』

 さっき付けたばかりのラジオからニュースが流れて、私は手を止めた。それを聞いて、意味を理解してから溜め息をつく。それからまた、鋸を動かした。


 私がこの人出会ったのは、さして昔の事じゃない。つい最近――ここ半年から7か月ぐらいの事だ。

暇つぶしによく訪れていた本屋でこの人はレジ打ちをしていた。あまりにも私が頻繁に行くものだから、すっかり顔を覚えられてしまって話すようになった。連絡先も交換して、ちゃんと友人と呼べるような仲になったのが半年ほど前という事になる。

「え、作家さんなの?」

「まぁはい。一応は。」

 初めて飯を一緒に食べに言った時の事。仕事の話になり、私はその人に自分の職業を告げた。この人は目を丸くして物凄く驚いていて、それがなんとも面白かったなと思う。

「へぇえ、良いなぁ。私も昔は書いてたんだけど、やめちゃってさ。」

「そうなんですか。」

 伏し目がちに、恥ずかしがりながらそういう彼女がどうにも可愛らしかった。今度読んでみたいと本心から呟くと、この人はブンブン首を横に振って言う。

「やだよー。作家さんに読んでもらうなんて。」

「はは、自分なんてそんな大したもんじゃないですから。」

 とは言ったが、割と本を書くことだけで生計を立てられているというのも事実だ。私は、読ませてくれたら自分の小説についても教えると交渉した。この人はそれを快諾した。

「でも、あんまり面白くないと思うよ?」

ミステリー同好会という物に所属していた、とその人は言った。活動の一環として、会員全員がミステリーを書いたときの物だという。来週にまた約束を取り付けて、その日は終わった。

 それから1週間。約束の日、私は彼女の家に初めて訪れた。

率直に言うと物がない、というか生活感の無い家だった。無機質で少し圧迫的な部屋だというのが第一印象だ。それ故に、感情豊かな彼女がこういう家に住んでいることが不思議だった。

 白いリノリウムの床に、明るい蛍光灯。ステンレス製で統一されたテーブルセット。リビングにあるのはそれだけだった。変わった家だと思いつつ、その冷たいステンレスの椅子に座って彼女のミステリーを読んだ。当時大学生の彼女が書いた力作だという。

「……。」

 読了。その人は私の方を不安そうに見ながら私の感想を待った。そして私はただ一言だけ言った。というか、それしか言葉が出てこなかった。

「何で――何で書くの辞めたんですか。」

 そのミステリーは驚くほどに面白かった。伏線の散らばりようが緻密で、起承転結ごとに驚きがある傑作だ。物書きをしている立場から言わせて貰っても、私の文章力を軽く超えていた。

「いやぁ、ちょっとね。」

 恥ずかしそうにそう言って笑うその人に、私は少しだけ苛立ちを覚えた。その「ちょっと」がどれだけ重いものなのかは知らないが、この人の作品が日の目を浴びないで居るのが嫌だった。

私はただ純粋に出版を進めた。あの人は決して首を縦に振ろうとはしなかったが。

「じゃ、じゃあ代わりに君が出してよ。」

 挙句の果てに、彼女はそんなことを言い出した。自分の作品を基にお前がより良くして、小説として形にすればいい。そう言った。本気でその人に怒鳴りかけてしまい、私はやりきれない気持ちを溜め息にして吐いた。そんな私の事を、彼女が不思議そうな目で見てきたせいで私は低く舌打ちした。

「一応、出版社の人に見せても良いですかこれ。」

「えぇ、やだよ。」

「いやでも、これ軽く新人賞取りますよ。」

「まぁた大げさな。」

 ニヤニヤ笑いながらその人は私を茶化した。私はただ力無く笑って見せる。――これが単純な世辞ならどれだけ楽だったか。これでも一応作家の端くれなのだ。ただただ悔しかった。

 私はひとまず自分のペンネームだけ教えてその無機質な部屋を後にした。彼女から預かったミステリーの原稿を胸に抱えながら。

「――なにこれ。めっちゃ面白いじゃん。」

 翌日、担当編集の西谷にしやさんに彼女の原稿を読ませた。友人が書いたものだと前置きしてから。思った通りの反応だったので、私はただ肩を竦めて事情を話した。

「あぁなるほどねぇ。……うーん、絶対売れるよねこれ。」

 ワクワクしている。というのがこの人は本当に分かりやすい。目がキラキラと輝いているのだ。私はちょっと泣きそうになりながらも西谷さんに告げる。

「西谷さんから誘ってみてくれませんか。今度の集まり。」

「え、僕が?」

集まり、というのは出版社主催の作家の集まりだ。意見交換、近況報告、あとは単純に飲み会だ。私はそういうのが嫌いだったから今まで駄々をこねてさっさと帰ることが多かったのだが、今回ばかりは仕方ない。とはいえそれはきっと彼女もそうだから、西谷さんが頼むことで圧を掛けようという作戦だ。我ながら安直だとは思うが。

「これ連絡先です。頼みましたよ。」

「え、あちょ待っ――。」

 用は済んだので私はさっさと帰る。西谷さんと2人で占領していた会議室を出て、エレベーターホールに向かう途中に給湯室がある。そこでキラキラした女子社員が何か話しているのが耳に入った。

伊吹いぶきさんの新作、読んだ?」

「読んだよぉ、相変わらず暗いよねぇあの人。」

「うん。気持ち悪いっていうかね。」

 伊吹、というのは私のペンネームだ。ということは西谷さんの取り巻きの女子達か。あの人モテるし、私の原稿の扱い軽いから。まぁ、今に始まったことじゃ無い。私の文体が暗い事なんかデビューした頃からずっとだし。気にすることなく、私は給湯室を通り過ぎた。

 人間が小さく、暗い奴が書いた文章なんてそんなもんだ。文章というのは恐ろしいまでに書き手の趣味嗜好、癖、性格、価値観が反映される。書き手によって文体や雰囲気が違うのは、当たり前だがそういう物のせいなのだ。だからそれを歪ませて文章を書けというのは酷な話である。そんな器用な人が居るのなら会ってみたいというものだ。

 デビューしたのはおよそ3年前。新人賞で優秀賞に選ばれ、一時注目を浴びた。ミステリーやサスペンスを主として書き、その特徴的な文体やおどろおどろしい雰囲気から一定層からの人気がある。――というのが小説家である私、伊吹いぶき緋色ひいろについての説明文だ。デビュー当時高校生だったことにより、覆面作家として活動しており今もそれは続いている。もっと俗っぽく言うなら、ただの頭のおかしい作家だ。

「あ、来た。」

 その人のペンネームは葉佩はばきと言った。適当な文字遊びで付けたと、その人は笑っていた。右手に少し年季の入った万年筆を握って、いつもはかけない眼鏡を掛けながら、葉佩さんは原稿用紙とにらめっこしていた。それがなんとも作家らしくて笑ってしまう。

「久しぶりに書いてみようと思ってね。伊吹ちゃんも何か書く?」

「あぁ……そうですね。」

 伊吹緋色は勿論ペンネームだが、名字は本名だ。葉佩さんは私に1枚原稿を手渡し、ボールペンしかないやと言った。私はそれでいいと断り、葉佩さんの隣に座った。カリカリと筆を走らせる音が隣から聞こえる。私は名のない何かに気圧されていた。正直逃げ出したかった。

 この人はどうしてこう――こんなにも絵に描いたみたいな綺麗さを持ってるんだろう。初めて存在を認識した時から思っていたが、この人は綺麗なのだ。顔だちも人形かと思うほどに整っているし、所作や言動が教科書のお手本みたいだった。そのせいで友達が居ないんだけどね、なんて嬉しそうな顔で笑いながら私に言ったことを少し思い出す。隣に目をやると、真剣な顔をしながら眼鏡のレンズ越しに原稿に文字を書く葉佩さんが見えた。私はただ目を細めて、そのまま閉じた。


  ピシャッ

 閉じた瞼に血が飛んだ。思わずビクリと体が跳ねる。瞼を手でこすって目を開けると、その人の左腕は綺麗に切れていた。最初に切った右腕の隣にそれを並べて溜め息をつく。

「……ははっ。」

 喉から乾いた笑い声が漏れた。切り始めてどれぐらい経っていたのか分からないが、鋸にべったり血が付いている。また泣けてきたと思うと、鋸が濡れて血が滲んだ。

「ぐっ、うぐぁ……ぎっ。」

 奇声を上げながら涙をこらえる。両手についていた血は乾き始めていて、暗い茶色っぽくなっていた。その汚れた手で顔を覆ってただ泣いた。少し泣いた後、何かが吹っ切れて突然涙が出なくなってしまった。あぁ、そうだよ。もう死んでるんだよ。今更体が欠けたところで泣き喚いててもキリがない。――落ち着くんだ。ちゃんと考えろ。今お前がしないといけないことは何だ。

「――くっ、ふ、ふはははっ、あははははっ!」

こんなだからきっと、ずっと半端者のままなんだろう。一呼吸おいて、私は脇に置いた切断済みの両腕を見た。軽く溜め息をついて、葉佩さんの左手に自分の指を絡めてみる。すぐに葉佩さんの左手から指を解いて、歪になった葉佩さんを見つめた。

「あぁ……いっそ狂えてたら、楽なんでしょうね……。」

 この人の笑顔が好きだったなと今更気づいて、私は葉佩さんの髪を撫でた。

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