第7話 涙は「悲しい」から?
「シグリッドさんっ! だ、大丈夫ですか」
イーターは噛みついてはならない相手の血を流してしまったと気づいたのか、そそくさと茂みに逃げてしまった。
シグリッドはそんなイーターに目を向けることなく、血の滴る腕を振り払うと「問題ない」と言ったが、そうもいかない。
「ご、ごめんなさいっ、僕が、適当なことをしたから」
慌ててシグリッドの腕をつかみ、袖をめくる。そこには痛々しい牙の痕と流れ出る血。あんなかわいい見た目でも魔物だ、油断するんじゃなかった。
「こ、こっち!」
傷のない反対の手を引っ張り、再び泉の元へ。シグリッドを座らせ、水を手ですくって血を洗い流した。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……」
傷つけるつもりはなかった、それが魔物であってもだ。痛いのもつらいのも嫌だ、自分が味わって嫌なのだ、魔物だってそんなの、味わうのは嫌なはずだ。
「何を焦っている、大したことない」
「でも、こんなに傷が、血が」
痛い、絶対に。それとも魔物に痛みはないのか?
焦る自分を無表情で見ているシグリッドだったが彼は目を閉じると深呼吸をした。
すると一瞬にして腕の傷は消えた。
「あ、あ……治った?」
そうだ、彼は魔王の息子。魔法も使える。傷を見て混乱して忘れていた。
「だから大したことはない。なぜ血が出たぐらいで慌てる」
「そ、そりゃ、あんなに血が出たらっ、痛いだろ。痛くないのかっ?」
「痛みはある。だが気にしてない」
気にしなきゃ、いいのか。痛いのに気にならないのか。魔物だから? それとも何にも興味のない彼だから? ……本当に変なやつだ。
「……それでも、悪かったよ。僕のせいだ……かばってくれてありがとう」
なんだか気が抜けた。シグリッドにとっては無駄な心配だったのかもしれない。それでも大したことにならなくて良かった。
そう思ったら目頭が熱くなった。
「……泣いてるのか」
シグリッドは無表情だが赤い瞳をジッと向けている。
「涙とは悲しい時に出るものじゃないのか」
なんでそんなことを、誰かに教えてもらったのか。
そんなことはないよ……涙には色々な意味があるんだから。そう伝えたいが今は言葉が詰まって話せない。
するとシグリッドは怪我をした手を動かし、指で涙を拭ってくれた。その優しい動作にますます言葉が出なくなる。
魔物なのに、なぜこんなにも。こちらが『優しいな』と感じて安らぐ行動をするのだろう。
「……お前、人間の世界には戻れないのか」
シグリッドの声に抑揚はない。それでもその声には“あわれみ”が含まれているような気がする。
「……今のところは、ですね」
戻っても自分に待つのは死か、もしくは国外追放、安寧は望み薄だ。
「そうか、仕方ないな」
あっけらかんとした返事をしてシグリッドは立ち上がった。
「お前、何か探していたのか」
イーターに怪我を負わされたことなど、もうないことになっているので、自分も息を整えてから泉を離れた理由を告げた。
「大きな葉が欲しかったんです。森で生活をしていくのに寝床は作りたいと思って」
「寝床? 岩じゃダメなのか」
「岩……身体が痛くて。シグリッドさんは痛くならないんですか」
「別に、ずっとそうだからな」
その返事に(さすがだ)と感心してしまう。無頓着なのか、魔物ゆえの頑丈さか。自分も慣れればいいのかなと考えてみるが、腰のジワジワした痛みを感じてみると、やはりつらいなぁと思う。
「葉なら、この奥にお前の背丈ほどの葉がある。行くか」
「あ、え? でもシグリッドさん、忙しいですよね」
「別に、俺は何もしていない。お前が望むなら連れて行く。イーター以外にも魔物はいる、喰われるぞ」
それは心配してくれているのか。シグリッドの善意に(本当に魔王の息子なのか)と思ってしまう。
ギャップが全部不思議で妙で……嬉しいが。
じゃあお願いします、と言うとシグリッドは歩き出した。長身の彼の後ろ姿をジッと見ながら自分も歩いていた時、急に彼が立ち止まったので思い切り背中にぶつかったが、シグリッドはビクともしなかった。
くるりと無表情が振り返る。
「お前の話し方、長い」
「は?」
「俺の名前に“さん”はいらない。あとかしこまる必要もない。魔王に仕えていた奴らが俺を“さま”つけて呼んだりしていたが気に食わないから消したことがある」
……消した、と。それは“さま”を消した? それとも存在を消したのかな? ……ちょい、苦笑いになってしまった。
「つまり、シグリッドって呼べばいい、のかな? 敬語もなしで」
「あぁ、その方がいい」
そう言うとシグリッドはまた歩き出していた。顔には態度が現れないけど『食べたい』や『こうしたい』という思いはあるようだ。
(何もかも不思議すぎ……考え方もわからない……でも嫌じゃない)
そこから会話はしばらくなかったが、シグリッドは森の中を進み、湿気の濃いエリアに連れて行ってくれた。そこには確かに大きな葉を生やした植物が群生していた。触ってみると硬い質感で重ね合わせれば立派なハンモックになってくれそうだ。
「いいね、これ」
いい寝床になりそう。そんな思いに胸が踊り、自然と口角が上がる。
そんな自分を見て「笑ったな」と無機質だが、興味深そうな声がした。
「人間は笑ったり泣いたりだな。笑うのは、どんな時にするんだ」
その言葉に葉をつかみながら唖然としたが納得もした。シグリッドが無表情なのは、きっと“感情というもの”がわからないからだ。
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