第35話開幕

 夏の姿が見えて来た今日この頃。ほんの僅かの蒸し暑さを感じる気候となったこの日に、生徒一同は校舎本館の脇に位置している体育館へと集められた。

 

 無論、灰もその一人だ。これからついに始まろうとしている行事に心を脅される生徒達を横目に向かったのは舞台袖の小部屋。少し古びた扉を強引に明けて中に入ると、先に待っていた彩亜の姿が見えた。

 手元のメモ帳に目線を落として集中している様子の彩亜に灰はそっと声をかけた。


「後10分後に始まるらしいです。始まったらアナウンスがあるまで待機らしい」


「そ。蒸し暑いから早く終わらせて帰りましょう」


 ついに始まる決戦の時を前にしても彩亜は飄々とした態度だった。流石と言うべきか彼女の図太い精神には灰も感服するばかりだった。


 対して灰はというと緊張の最中にいた。いくつもの戦場を駆け抜けてきた灰だったが、緊張しているのはいつものことだった。

 今日は武器を持って戦うわけではないが、大勢の前で演説をするというのは初めての行為だったために必死に取り繕ってはいるが、内心では胃がひっくり返るような思いだった。


「…もしかして緊張してる?」


 必死に取り繕っているつもりの灰だったが、彩亜の前では無駄な抵抗だったらしく、あっさりと見抜かれる。ずっと側で灰を見てきた彩亜からすれば、彼の心の状態を見抜くことなど朝飯前なのかもしれない。

 彩亜は灰に少しだけ微笑みかける。


「緊張することはないわ。私が負けるとでも思っているのかしら?」


「そうじゃないっすけど…人前に出るのってなんか緊張するじゃないっすか」


「あら、随分と弱気なのね」


 彩亜はメモ帳をぱたんと閉じて近くの机に置くと、言い訳をする子供のような口調の灰の元へと近寄ってくる。

 そしてそっと彼の片手を握ると自らの額へと近づけた。


「えっ、ちょ…」


 突然の行動に灰はわかりやすく動揺した。

 心のどこかに存在していたキスの一つでも落とされるんじゃないかという期待と他の人に見られたらまずいんじゃないかという不安が入り交じる脳内では天使と悪魔が飛び回る。

 彼の葛藤もつかの間、彩亜は数秒後に顔を上げた。


「…ふぅ。これで大丈夫」


「何が大丈夫なんですか…?」


「勝利を祈っておいたわ。貴方と、私のね」


 鳴り止まない鼓動に灰は顔を背ける。じんわりと頬に熱が籠もっていくのが自分でも分かるようだった。


 そしてタイミングを見計らったかのように扉が開く。紅蓮が真紀と連夜を引き連れてやってきた。


「よぉお二人さん。決戦前の調子はどうだ?」


「いつも通りね。問題はないな」


「もう問題だらけだよ…」


 対象的な二人の様子に紅蓮は苦笑いを浮かべる。おそらく灰が彩亜になにかされたのだろうと紅蓮は悟ったのだ。親友の心労する姿にはいつも心を傷ませるばかりだ。

 紅蓮の隣から連夜がニッコリと微笑む。


「取り敢えず、リラックスしていこう。緊張してたら、練習してたものがでないからね」


「役無しの男が良く言うものね」


「ぐうっ、やっぱり鋭い…」


 彩亜の鋭い一言が連夜の心を突き刺す。胸を押さえて無理な笑顔を浮かべる連夜を見て、灰は自然と笑みがこぼれる。それに伴い、彼の緊張も僅かに解れた。


「出しゃばるのは良くないですよ連夜様。うざいです」


「がぁっ…真紀ちゃんまでそんな…」


「はは、酷い言われようだな連夜?いつもの綺麗なお顔が崩れちまってるなぁ?」


「なんか紅蓮キャラ変わってない…?」


 皆のやり取りを見ているうちに、灰の緊張も少しずつ解れていく。今まで必要以上に気負っていたせいか、ここに来て冷静になれたようだった。

 一人ではない。背中にはみんながついている。それを自覚した灰はまた一つ自分の中でエンジンをかけた。


(今日は負けるわけにはいかない。今日こそは彩亜に勝利を届ける。それが俺の役割だ)


「候補者のみなさーん、準備お願いしまーす!」


 係の生徒が待機部屋へとやってきた。俺達は誘導通りに舞台袖にある席へと移動する。

 俺達の反対側には七海の姿。その他にも複数名の生徒の姿が見える。

 前期成績最優秀者の七星ななほしけい

 剣道部の姉御、剣崎けんざきほまれ

 優美絢爛な裁縫部部長、篠崎しのさきみやび

 前期生徒会副会長、園崎そのさき莉々菜りりな

 見事なまでの権力者の顔ぶれに灰は思わず驚く。


(なんだアレ…強キャラ厨かよあいつ。他人のこと信用してないくせに体裁だけは立派にしやがって…)


 思わず苦笑いの灰に気づいた七海は勝ち誇ったような笑みを彼に向ける。彼女も彼女なりに裏ではやることをやっていたらしい。

 顔見知りの者もいることから灰はなんだか自分が裏切っているような感覚に陥る。本来の自分はあっちに立っていたのではないかという疑問が立ち込めてくるが、頭を振ってその疑問を振り払った。


「なんだありゃ。錚々たる面子じゃねぇか…」


「臆することはないさ。こっちだっって負けてないよ」


「顔だけの人には言われたくないですね」


「真紀ちゃん冷たくない!?」


「長らくおまたせ致しました。ただ今より、第126回、生徒会選挙の開会式を始めます」


 場内に鳴り響くアナウンスに皆が静まり返る。一時の静寂に包まれた場内には緊張感と期待が入り交じる、異様な空気だった。

 いよいよ始まる生徒会。灰は自らの頬を叩いて気を引き締めた。

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