第33話素直になるとは

 読みかけの小説を傍らに、紅茶のカップに口をつける。

 彼の淹れた紅茶の味は最近になって良くなってきている。最初こそ私が教えたての頃より酷かったものの、指導の成果もあってか腕が上達してきているようだ。


 カップを置き、キッチンに立つ彼へと目線を向ける。せっせと洗い物に尽力しているところを見ていると、よくもまぁ毎日飽きないものだなと感じる。私は愚か真紀でさえもできない料理からその後片付けまでその労力は少なからず手間のかかるものだ。まぁさせているのは私なのだけれど。

 生徒会選挙に勝った暁には食洗機でも買って上げるとしようか。


『そんな調子で私に勝てるのかなぁ?』


 彼の姿を見つめる私の脳内にフラッシュバックしたのはあの女の言葉。あの鼻につく態度の女に私は反論することができなかった。それは無意識中に自分の中で『その通りだ』と認めてしまっていたということになる。


 確かに私は素直じゃない。それは前世から私に根付いてしまっているもので、変えることは難しいだろう。

 だが、あの女に言われたままでは癪だ。私は最栄国エレナの王女、サイア・ミスリム。できないことなんてない。


 ただ一言、『好きだ』と伝えるだけだ。グレイに、彼に真正面から言ってやる。


「グレイ」


「なんすか?」


「す…」


 …?


「す?」


「…いえ、なんでもないわ」


 なぜだろうか。その思いを言葉にするだけだと言うのに、言葉が喉に詰まって出てこない。喉の調子は至って普通だと言うのに、なにかが私を咎めていた。


「…もしかして、生徒会選挙のことですか?だったらちょうど皿洗いも終わったところですし、聞きますよ」


 私の様子を見て察したのか、グレイはハンドタオルで手を拭いて私の隣へと座った。


「…そうね。残りも一週間となったところだし、少しだけ打ち合わせをしておこうと思ってたのよ」


 私はまた嘘をついた。得意の繕いで表情を誤魔化し、彼との時間を適当な話で凌ぐ。

 自分の感情に蓋をして、なかったことにする。ときには言葉で相手を攻撃することでその感情を自分の中から消し去る。既にこびりついてしまっているその行為の数々は私を『素直じゃない』と名付けるのには十分過ぎるものだった。


(そうか、素直じゃないって、こういうことか)


 心の中で私が感じたのは落胆。それも自分に対する、失望の感情。

 中身はただの小心者のくせに、ただ意地を張ってあたかも気丈に振る舞っている。ただの仮面に過ぎないものだと分かっているのに、ひどく脆いものであると分かっているのに、私にはこれしかない。


(…惨めなものね。素直になれないだけの人間っていうのは)


「…彩亜?」

 

 グレイが心配したように私の顔を覗き込んでいた。少し顔に出てしまっていただろうか。表情を取り繕うのは得意な方なのだが、少し気が抜けていたようだ。


「…ごめんなさい、少し疲れてるみたい」


「最近は色々続きましたからね。無理は禁物ですよ」


「言われなくとも分かっているわ。誰かさんみたいに鍛錬のやり過ぎで倒れたりしないもの」


 私に小突かれたグレイはいつもどおり苦いような、恥ずかしいようなな表情だった。

 そして少しして、グレイは私の前で両腕を大きく広げた。


「例にどうですか?ハグ」


「ハグ…?」


「ハグにはリラックス効果があるらしいですよ。疲れたときにはこれが一番だって、七海が」


 彼なりの気遣い、というやつだろう。自分で言ってて恥ずかしいと感じ始めたのか、少しだけ頬が紅潮している。

 随分と大胆なことをするようになったものだ。前世では手を繋ぐだけで四苦八苦してたくせに。

 どうやら彼の目には今の私はかなり疲れているように見えたらしい。じゃなければ、こんなことなんてしない。


「…私の前で他の女の名前を出すだなんていい度胸してるじゃない」


「あ”っ、いや、これは…」


「…ふふっ、鈍い人。それじゃあ少しお願いしようかしら」


 彼の腰に手を回して彼の胸の中へ顔を埋める。恐る恐る回ってきた彼の手から彼の動揺具合が分かあった。

 肌を介してじんわりと伝わってくる彼のぬくもり。ふんわりと香る柔軟剤の匂い。ゼロ距離からどくんどくんと伝わってくる彼の心臓の鼓動を聞いていると、自然と安心できる。まだ、彼は生きているのだ。


 少し抱きしめていると、心臓のあたりからぽかぽかと体が温まってくるのがわっ勝った。リラックス効果があるというのは間違いではないらしい。相手が彼だからということもあるかもしれない。


(素直じゃない、か)


 このぬくもりが得られるなら、今は素直じゃなくていい。素直じゃなくても彼と共にいられるのなら私はそれでいい。


「どう、ですか?」


「…悪くないわね。あの女の入れ知恵なのは気に入らないけど」


 この戦いに勝利して、その後に彼に気持ちを伝えよう。私にはそうすることでしか伝えることができない。

 それまでこの感情には蓋をする。どんなに辛くても、今度こそ彼を手放すわけには行かない。私はもう一人は嫌だ。

 

 神様、あと少しだけ、少しだけ猶予をください。私の最後の我儘をどうか。

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