第10話欲

「グレイ、お風呂先に入ってもいいかしら?」


 晩御飯を食べ終え、食器の片付けをしていると先程まで生姜焼きを幸せそうな表情で頬張っていた彩亜がリビングのソファから問いかけてきた。その片手にはティーカップ。今回は35点だった。


「いいですけど…俺に聞く必要無いんじゃないですか?」


「なんで?」


「なんでって…ここ彩亜の家じゃん」


「同居人なんだから一応聞いておいたほうがいいと思ってよ。…あぁ、私が入った後の浴槽で悶々としたいってこと?」


「なっ!?そ、そんな事するわけ…」


「主人の残り湯を狙うなんて目ざとい男ね…貴方、そういう趣味だったっけ?」


 彩亜はニヤついた顔でわざとらしく俺に問いかけてくる。無論、俺にはそんな趣味は無い。勝手な妄想を広げるのはやめてほしいところだ。

 この人の加虐体質には困ったものだ。前世でも俺のことを散々弄り倒して恥をかかされたっけ…


「…からかわないでくださいよ」


「ふふ、ごめんなさい。つい、ね?」


 そう言って彼女は風呂場の方へと消えていった。

 …全く、何が『つい、ね?』だよ。こっちがどんな気持ちで世界を超えて仕えてるのか知らないくせに。苦労の連続で困ってるんだぞこっちは。


 皿洗いを終えた俺はリビングのソファへと腰を下ろした。ふかふかのソファが疲労で重くなった俺の体を受け止める。


 今日は大波乱の一日だった。まさかの彩亜との再会があり、さらには召使いにされ、そして今ここにいる。どう考えても神が仕組んだとしか思えない。神様、俺前世では結構頑張ったほうだと思うんですけど。


 それにしてもこの家にいるとなんかむずむずしてくるな。なんかこう、心の底がざわついている感じだ。

 こういう高級感に溢れた空間にいると自分がいてはいけない場所なような気がしてきて心が落ち着かない。あの城にいた時もいつもこんな感じだったな。


 俺は戦争孤児だ。騎士になるまでしばらくは孤児院で過ごしていたこともこのざわめきに起因しているだろう。

 俺が育った孤児院は決して余裕のある場所ではなかった。自分の部屋なんてものはなかったし、食事だって満足にできない時の方が多かった。それでも、俺にとってはあそこが一番安心出来る場所だった。

 

 そんなことを考えていると俺に眠気が襲ってくる。今日の疲労感によるものだろう。色々とやることが多すぎたし、ついていくので精一杯だった。

 もうこのままここで…


「グレイー?髪を乾かして頂戴」


「っ、ひゃ、ひゃい!」


 俺の意識を無理矢理引きずり出してきたのはやはり彼女の声だった。急な呼びかけに俺は変な声で返事を返してしまう。今の聞かれてたらちょっと恥ずかしいな…

 なにがどうあれ呼ばれたからには行かなくては。待たせるとまた何を言われるかわかったものじゃない。


 ソファから立ち上がり、廊下を進んで脱衣所の前まで来たところで俺の脳裏にある考えが過った。

 

(…彩亜って今どんな格好をしてるんだ?)


 風呂上がりということもある。まさかとは思うが裸なことは無いだろう。

 …いや、待てよ。彼女は前世から風呂上がりは裸族だったよな?部屋では風呂上がりのときは立ち入り禁止とかになっていたのを覚えている。ということは今も…

 俺の脳裏で様々な考えが交錯する。ここは一度待ったほうがいいのか。それとも覚悟を決めて入るべきか。ぶつかり合う思念の中で俺は立ち止まる。


ガチャッ


「あっ!?」


 不意に目の前の扉が開いた。俺は思わず両手で顔を覆う。

 少ししてその先から不服そうな声が飛んできた。


「…何をしているの」


「な、なにって…」


 顔を両手で覆ったままの俺の腕に細い指が絡みつく。そのまま勢いでぐいっと俺の両手は顔から引き剥がされた。思わず狼狽えてしまうが、恐る恐る視線を彼女の方へと持っていくと見えたのは彼女の肌ではなく白い布だった。


「…あれ?タオル?」


「…何を期待しているのよ貴方は。そんなところで突っ立っていないで早く私の髪を乾かして」


 俺の予想に反して彼女はタオルを纏っていた。裸族の属性は転生した時に剥がされたらしい。良かった。タオルでも目のやり場には困るのだけれど。

 

 鏡を前に座った彩亜の後ろにドライヤーを持って立つ。乾かせとは言われたけど…この長髪ってどう乾かすのが正解なんだ?


「何をグズグズしているの?早くして頂戴」


「えっと…これってどうやるのが正解?」


「貴方、そんなことも知らないの?私に出会う可能性を鑑みて覚えようとは思っていなくて?」


 思ってるわけねーだろ。むしろ出会わないように願ってたわ。

 心の中では文句を言いながらも、表情は申し訳無さそうに取り繕う。彩亜はそんな俺を見て一つため息をついた。


「はぁ…いい?まずはタオルドライからよ。そこのタオルで私の髪の水分を拭き取って」


 言われた通りにタオルを使って彩亜の髪の水分を拭き取る。彼女の気に触れないように丁重に、ガラス細工を扱うように拭き取る。


「次はドライヤー。根本から強めの風量で乾かして」


 彼女の指示通りにドライヤーを使いながら髪を乾かしていく。その際、俺は座っている彩亜の後ろに立っているため彼女を見下ろす感じになるのだが…俺の視線を惹くのは彼女の胸元だった。

 風呂上がりだからか少し火照っているように見える肌。まだ水滴が残っており、肌を伝ってその二つの間へと入っていく。

 あぁくそ、目を離さなくちゃいけないのに離せない…これが思春期の恐ろしさなのか…!


 俺は自分の欲に抗いながら手元のドライヤーを動かす。できるだけ何も考えずに、無心でいることを心がけて。


 もはや明鏡止水の境地にたどり着きそうなところでちょうど彼女の髪を乾かし終えた。彩亜は乾かし終えた髪を触りながら鏡でしきりに確認している。


「…ふん、まだまだね。初めてならこんなものかしら?」


「精進します…」


 軽く頭を下げた俺の顔を鏡越しに見た彩亜は意地の悪い笑みを浮かべた。


「それにしても貴方、さっきから私の胸元に熱烈な視線を向けてるわね」


 びくり、と体が跳ねたのが自分でも分かった。女性はそういう視線には敏感というのは聞いたことがあるが、鏡の前だった事を忘れていた自分の失態のせいもあるのだろう。

 俺はどうとも言うことができずに顔を青ざめていると、彼女がくるりと俺に向き直った。そして、


ドン


 俺は彼女の手によって突き飛ばされた。普段ならこのぐらいは反応して受け止めることが出来るのだが、動揺していたせいか注意が散漫になっていた。

 床に寝転んだ俺に覆いかぶさるようにして彩亜が迫ってくる。彼女の紺色の髪が俺の視界を制限し、俺の視界には彼女だけが広がった。そして、俺の胸元には彼女の特に柔らかい部分が押し付けられる。


「ねぇグレイ?このままシてしまってもいいのよ?」


「な、なにを…」


「ふふ、分かってるくせに…私に言わせようとしてるの?意地悪な人…」


 意地悪なのはどっちだ。こんなことをして…

 不覚にも俺の体は正直だ。反応するなと言われても反応してしまう。本能には抗えないのだ。

 ふわりと香る花の香り_きっと彼女の使っているシャンプーのものだ_が俺の花をかすめる。その甘くて柔らかな香りは俺の思考を遮って理性の崩壊を促してくる。頼む、持ってくれ俺の理性…


 迫る彼女の甘い声に俺の脳が溶かされそうになったその時、彼女の体は離れた。


「なーんてね。…ふふっ、すっかり真っ赤よグレイ?のぼせてしまったのかしら?」


「…っ」


「貴方もお風呂に入っちゃいなさい。風呂掃除は任せたわよ。その代わり、私が入った風呂でをしても構わないから」


 そう言い残して彼女は脱衣所を出た。俺は一人、天を仰いだまま取り残される。


 …さっさと入ろう。

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