第二章 お父さん

 今日、またもや、仕事でミスをした。


「ちょっとちょっと、本当に頼みますよぉ?」


 当初こそ、まあまあ、そういう日もありますって、とか、笑って流していた上司も、いよいよ笑顔は消え、鬱陶しさを表情に現わしていた。すみません……私は、衰弱した発声しかできず、そして、上司をさらに困らせるのだ。


「とにかく、後はこっちでやっとくから。もう行っていいよ」


 鈍く重だるいため息を混じらせて、手をちょいちょいと振り、私を追い払う。はい……やはり弱々しい言葉しか出せず、よれよれと自分のデスクへ戻った。

 上司と、それに他の社員も、この会社には心優しい人が多い。それに私は、同期の中ではトップであり、いわゆる出世争いには勝ったと言えるだろう。おかげで人望もあった。そんな素晴らしい会社と、数週間前までの地位のおかげで、現状の醜い私を、誰一人として責め立てはしなかった。

 しかし、自分のデスクに座り、隣で仕事をする若い部下に、


「先輩、最近調子悪そうっすけど、大丈夫っすか?」


 などと、本気で心配されてしまうほどには、私は落ちぶれていた。先輩、先輩、と、事あるごとに質問し、そのたび熱心にメモをとり、失敗した時には尻拭いをし、人生相談にだって乗った、そんな部下に、心配をかけてしまう程度の人間だという事実が、あまりに惨めで、笑えなかった。大丈夫、心配をかけてすまないね、とだけ、思ってもない言葉を吐き捨て、自らの仕事に取り掛かった。

 私は、心が強い方だと思う。心を衰弱させた今でさえ、そう考えている。ちょうど一年前、二十年以上もの歳月を共にし、さらには一人の娘を持っていた妻から、離婚の話を出され、結果的に離婚し、妻と娘を失った。しかし、そんな時でさえ、私は想像以上に冷静だった。一人暮らしの初日こそ心を歪曲させたにせよ、二十四時間もあれば、それを正常な形へと戻す力が、私には備わっていた。

 そんな私が、数週間かかっても直せないほど心が歪曲しているのには、とても明白な理由があるのだ。

 仕事終わり、部下と共に、次の飲み会の下見に行った日の事だ。ちょうど、その居酒屋は、妻と娘の住む家の近辺だったらしい。部下と別れた後、妻と、妻に手を引かれる娘を見かけてしまった。突然に酔いは冷め、気づかれてはいけない、などと咄嗟に思ったのだが、その焦りはすぐに消滅した。というのも、妻も娘も、まるで世界が見えていない様子だったのだ。

 夜の十時頃だったが、東京の、それも駅周辺なので、むしろ鬱陶しいほど人も多く、賑わっていた。しかし二人は、そんな人々を無視するかの如く、するすると住宅地の方へ足を運んでいた。特に人を避けている様には見えず、とにかく、人々も、建造物も、まばゆい光でさえ、目に映っていないみたいに、人気の少ない方へ、足を運んでいたのだ。

 あまりに怪しく、私はこっそりと後を追った。だんだんと人の気配が薄れていき、光の眩しさも消えていき、替わりに、涼しさが増していった。そのはず、三十分ほど歩いて到着したのは、東京湾だった。

 波は穏やかに岸壁を打ち付け、その音が、冷えて密度の大きくなった空気中を、ゆっくりと振動している。二人は岸壁の端に立ち、都市のネオンを反射する海を、ただ眺めていた。


 まもなくして、妻は娘を抱いた。

 その次に、二人は海へと身を投じた。


 脳が処理を終える前に、私は走って、落下した先を見下ろす。当然、見えるのは波に揺れる暗闇だけ。冷気が、確かに肌を弄ぶ感触がしている。数分の間、目が閉じれず、体を動かすこともできず、硬直した。やっと脳が情報を処理し終わると、私は震えだしていた。

 それからというもの、仕事に身が入らない。いや、人生、とすら言えるかもしれない。事あるごとに、私の身には冷気が吹き付ける。そうして、気づけば体が震えている。集中、という語彙の意味を、理解できなくなっていた。

 だから、何か、変化を欲していたのかもしれない。もはや自分の身一つでは解決できない、そういう次元に存在する心の歪みを、外的で巨大な力が変形し直すことを望んでいたのかもしれない。それとも単純に、天使という単語を聞いて、若かりし頃の少年らしいわくわくを思い出した、ただそれだけの様にすら思える。

 何が起因したにせよ、とにかく結果を言えば、私はインターネットの馬鹿げた噂話を信じ、それを今現在、実行していた。

 この年齢になると、終電まで外出することはめったにないため、午前一時過ぎに外出するのは久しぶりだった。暗さで言えば飲み会帰りと大差ないのだが、しかし、静寂に満ちていた。なんとなく、噂が本当な気がするほどに。

 それは、確信に変わった。噂通りの公園で、噂通りに森を進むと、確かにごく一般的な真緑の鳥居が、月明りで照らされているのだ。久しぶりに、心臓が踊っているのを感じる。

 私は噂通り、月明りの当たっていない方から、鳥居をくぐった。眩しさの中、首を回転させて、ゆっくりと辺りを見渡してみる。


「こちらですよ」


 それは、私の真横から聞こえた。振り向くと、そこにいるのは、小さな少女だった。しかし、その体に不釣り合いなほど大きな翼と、丁寧で柔らかい口調が、確かに、天使たらしめていた。


「天使……本当にいたのか」

「はい。本当にいるのです」


 にこっと、見上げるように笑いかけてくる。私は、ふと、このくらいの少女と話すのは一年ぶりだったか、なんてことを思った。特に、意味は無いのだが。


「座ってお話しませんか?」


 天使は、すぐそこから突起する木の根に座り、手招きをしてきたので、私はその通りに、天使の横へと腰を下ろす。


「最近、元気にしていますか?」


 一瞬、応えに迷う。これは私の悪い癖なのだが、質問をされると、どうしてもその意図を考えてしまう。特に、こういう、大したことのない質問だと。しかし、相手は天使で、加えて容姿は小学生の少女。私は、迷いを捨て、発しようをする言葉を、そのまま声にした。


「元気とは遠く離れた生活をしているよ。仕事にも、その他の事にも、どうにも身が入らなくてな」

「少し、疲れているのかもしれませんね」

「そうだな。四六時中、疲労感がのしかかっている気がする」

「それは、とても、大変なことですね」


 声を弱めて天使は言う。まるで、自身が疲労感を請け負ったかのように。その、人の心に共感し、同調できる能力に感心しつつも、なんとも、天使というより、幼い子供らしいではないか、とも思った。


「普段なら、すぐに気を直せるのだが、今回ばかりは、上手くいかなくて。あれは、私にとって、よほど大変な事だったのだろうな」

「何か、辛いことがあったのですか?」

「ああ、それは……」


 言葉を詰まらせる。果たして、こんな幼い子供に、打ち明けるべき内容なのだろうか。

 それは、子供特有の共感能力に、関心している故の恐れだった。そして、今更ながら、お父さんとしての、怖れでもあった。そんな感情がまだ残っていたとは、あまり、信じられる話ではなかったのだが。

 いや、それ以前に、おかしな話ではないか。なぜ、今まで誰にも打ち明けていない事を、こんな小さな少女に、いとも簡単に話そうとしているのだ。思考が話す前提で始まっていることに、違和感を憶えた。そして、あまりにも自然とそうさせた少女に、文字通り怖れを抱いた。


「私なら大丈夫ですよ。辛いお話には、慣れていますので」


 きっと、心からの言葉だった。でなければ、これほどまでに屈託の無い笑顔はできないだろう。だからこそ、まず、私は、このような子供が辛い話に慣れているという事実に、胸を打たれた。次に、このような子供が大人である私の心情を読み解いたことに、深く驚いた。

 しかし、そのどちらも、やはり子供であっても天使なのだ、という事を思い知らされて、納得した。それは、おそらく、私を安心させたのだろう。


「じゃあ、少し、話してもいいか?」

「はい。ぜひ、聞かせてください」


 私は、離婚したこと、娘と別れたこと、その後に、二人が海へ落ちていったこと、そして、私の現状を、嘘偽りなく、素直に明かした。

 すると、たちまち天使は、わんわんと泣き出したのだ。


「お辛いですね。とてもとても、悲しい事です」

「いいや、泣かないでくれ。私は別に、悲しんでいる訳ではないんだ」


 と言うよりは、ショッキングだった、という言葉が近しい。恐怖、とも言い表せるかもしれない。とにかく、いつ何時であっても、私はどこか、あの時のように震えているのだ。

 第一、それがどういう言葉で表せるのか、理解できないからこそ、私は解放されないのだろう。そういう意味では、そんな自分自身に悲しんでいる、とは言えなくもないか。


「いいえ、違うのです。本当に悲しいことは、そういう事では無いのです」


 天使はやっぱり泣いたまま、その小さくてひ弱な手で、必死に目元を掻き、涙を拭いながら、言葉を続ける。


「自殺をする人間は、途轍もなく苦しいというのに、それを知ってしまった人間さえも、これほど苦しめてしまうなんて、それが、本当に悲しいのです。どうして、静かにこの世を去ることができないのか、あまりにも、悲しいのです」


 天使は最後に、ごめんなさい……と、ごく僅かな声で添え、やっぱり、涙を拭っていた。

 人間はどこまでいっても生物で、いつかは消えて無くなる存在。それは誰しもが知っている事実。しかし、それを理解していようとも、苦しいものは苦しいのだ。それもまた、生物の運命なのだろう。だから、結局は、私がどう受け止めるか、次第なのかもしれない。

 天使の涙は、そんな当たり前で、しかし難解な事を、私に教えてくれた。


「天使は、外部の影響で、人間の心が大きく変わることって、あると思うか?それも、悪い方ではなく、良い方向に」


 天使がようやく泣き止み、目元を赤くしたまま、落ち着いているのが見えた。それを確認してから、私は尋ねる。天使の声は、まだ少しだけ、震えを帯びていた。


「もちろん、あるでしょう。しかし、それには、運命と、偶然とが、合わさる必要があるのです。だから、人によっては、少し、難しいことかもしれません」

「では、私には、その運命とか偶然とやらは、起こると思うか?」


 天使は、意味ありげに、不敵に、笑って見せる。


「今、その、運命と偶然が、起こっているのではありませんか?」


 ああ、なるほど、そういう事か。つまりは、私と天使がこうして話している事が、運命であり、偶然であり、そして、私の心を変化させる大きな力であると、天使はそう言いたいのだと思う。


「ここで一つ、あなたに大切な事をお伝えしましょう」


 だから、きっと、私の歪曲した心を直してくれるような、そんな事を、天使は言ってくれるのではないかと、期待しながら、耳を傾ける。


「あなたの娘さんは、あなたに、幸せであって欲しいと、願っていると思います。だから、なるべく早く、元気になってくれると、娘さんも、喜ぶと思うのです」

「……確かに、もし本当にそうだったら、私も嬉しいことこの上ないな」


 おそらく、重要なのは、その真偽ではない。そういう可能性の存在とか、要は、想像力の問題とも言えるだろう。そういう意味では、人間というのは、思いのほか単純な生き物なのだと、そう思った。


「今日は、どうもありがとう。君と話せてよかったよ」


 私は立ち上がり、少量だけの笑顔で、天使にお礼をする。


「もういいのですか?」

「後は自分で何とかするよ」

「そうですか。それは、なによりです」


 最後も、天使はやはり、その容姿に似つかわしい、柔らかい笑顔をしていた。



 帰り際、森の方から、幼い少女の震える声で、


 ありがとう……ありがとう……


 そう、繰り返すのが、とても印象強く、記憶された。



***



 後日、ニュースで報道していたのだが、どうやら妻だけは、発見されたらしい。


 娘は、未だ行方不明とのことだった。

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