第一章 親友

 あの日から、学校に行くのが億劫になった。

 最近になってようやく、普通に起きれるようにはなったけど、薄水色のランドセルを背負うと、それは異様に重く感じられた。行きたくない、面倒くさい、ふつふつと現れる言葉は、みな黒い霧を纏っている。

 しかし、学校に行かない方が、私にはとても恐ろしかった。それはきっと、廃人になることを意味していて、つまりは、死者よりも酷い物になることだ。それは、親友に対して、とても申し訳ないと思う。だから、いつも結局、休んでいない。

 学校に向けて足を動かす私は、無心だった。真っ白な世界を、白という色すら認識できず、少しの情報すら入って来ない、そこにあるだけの脳みそを抱えて歩いた。

 最近、よく脳が空っぽになる。ああ、そういう意味では、私はほとんど廃人なのかもしれない。むしろ、学校に行っているのだから私は違うのだ、と、そう言い聞かせている分、たちが悪い。しかし、ひとたび脳を動かそうものなら、黒い霧の纏った言葉が際限なく溢れ出て、あっという間に私を真っ黒に飲み込んでしまって、いよいよ学校に行けなくなるので、やはり、無心でいるしかない。ごめんね、苦笑交じりに、親友に、謝った。

 ようやく教室に着いた。小学生という生き物は、とても元気があって騒がしい。朝っぱらから、きゃっきゃ、きゃっきゃと騒いでいる。私には、それが理解できなかった。

 別に、おしとやかでいたい訳じゃない。ただ、もう少しだけ静かに、もう少しだけ落ち着きをもって行動できないものかと、自然と少し引いてしまう。そうして私は、小学生というものに、馴染むことができなかった。おかげで、親友の他に友達はいない。つまり、現状、このクラス、ないしこの学校に、私の友達はいない。

 窓側から二番目、黒板から三番目の机には、白色の花瓶に、真っ赤な薔薇が一本、刺さっている。私が親友と、永遠の離れ離れになった、その次の日から、ずっと置かれている。それは、毎日毎日、必ず私の目にべったりとくっついて、次にそれを見る時まで、離れてはくれない。あの時の痛みは、日を追うごとに膨らんでいる。

 なんで、学校に来てるのかな。結論は明白なのに、考えずにはいられない。結論が出たからと言って、疑問が晴れる訳では無いらしい。とにかく、結論を言えば、無い、だ。親友がいないのに、どこに楽しみを見出せばいいのか、どこに意義を見出せばいいのか、到底わからない。この疑問は、やがて、なんで、私は生きているのか、へと変換されている。当然、この答えも、無い、だ。

 親友は、私の人生を彩っていた。なにより、人生における喜びの、受け皿だった。家族とお出かけをして得た喜びも、本を読んで得た喜びも、とにかく、私の人生のありとあらゆる喜びは、親友と共有したい、という欲求によって、初めて成立する。親友がいたから、人の色を理解し、人の暖かさを感じて、自分の心を躍動させることができた。それこそが、幸せの形だった。

 だから、今、幸せの受け皿を失った私は、何をしても、世界が灰色にしか見えない。目は色を認識して、確かに名前を教えてくれるし、脳はそれを識別できているのに、どうしても、心には、何色も落ちてこない。

 本当なら、お母さんとか、お父さんとか、代わりに受け皿となってくれる人はいたはずだった。実際、親友と離れ離れになる前は、お母さんもお父さんも、受け皿だった。特に、親友と一緒に得た喜びは、お母さんとお父さんに、沢山話した。でも、あの日以来、お母さんやお父さんと、ちゃんと話せたことは、一度もなかった。

 親友の机に薔薇が置かれてから、クラスの人たちは、私に話しかけるようになった。


 大丈夫? 可哀想だね。 辛くない?


 みんな、可哀想な私を痛んで、哀れみの言葉をかける。みんな、口も顔もそろって、泣きそうな表情で語り掛けてくる。

 私は恐怖した。この先ずっと、可哀想な女の子でい続けるのだろうか。最低でもこの学校を卒業するまでは、哀れみの目で見られるのだろうか。まるで、学校にいる全ての人間が、私を迫害しているように思えて、ぶるぶると身を震わせた。

 それを見た先生が、クラスメイトに怒鳴った。そして、私の目を見て、こう言うのだ。


 大丈夫か? っと。


 何よりも恐ろしかったのは、家族までもが、可哀想な女の子としか見てくれなかったことだ。私が何を話そうが、両親が会話をする相手は、私ではなくて、とっても惨めな女の子だった。私とは、一度だって、眼が合わなかった。

 孤独であることと、周囲に人間がいないことは、同じではないのだと、私は知った。たとえ、私に歩み寄ってくれる人がいたとしても、私を理解してくれる人がたったの一人でもいないのなら、それは、紛れもない孤独だった。

 この苦しみを共有できる人は、もう、この世界には、誰一人としていない。親友には、もう会えない。ああ、どうか、親友に会いたい、とまでは言わないから、せめて、この苦しみを解ってくれる人に、私と会話をしてくれる人に、会わせてください。うめき声を上げ、握りつぶされそうな心臓を抑えながら、ただ、願った。


 多分、そんな事をしたせいだろう。私が、あんな訳の分からないウワサを信じたのは。


 深夜一時ちょうど。家族に気づかれないよう、慎重に家を出た。真夜中でも、東京はとても明るい。昼間に比べれば格段に静かだけど、遠くで鳴っている喧騒が、ぼおー……という響きだけを、私の耳まで届かせている。ビルの合間から吹く夜風は、ちょっとだけ冷たい。

 こつ。こつ。アスファルトと運動靴のぶつかる音が、私の背中を追ってくる。そうして十分ほど歩いて、近所の公園まで来た。都心では有数の森林公園で、小さな森が残っている。おかげで、澄んだ虫の鳴き声が、体の中へと染み込んでくる。

 公園の順路を外れて、森の中へ進む。さく、さく、っと土を踏みつけ、たまに、パキッ、と枝を踏み折り、とうとう、都市の灯りも届かなくなって、そこは暗闇だった。しかし、ちょうど、木の葉の合間から月明りが差し込んで、少し明るい所が見えた。そこには、どこにでもあるような、真緑の鳥居が、ぽつんと建っている。


 まさか、本当にあるなんて。ここまではウワサ通りだった。


 今日、クラスの女の子たちが話していたウワサ。午前一時から一時半の、いわゆる丑三つ時に、とある公園の森の中を進むと、ちょうど月明りに照らされた鳥居があって、その鳥居を、月明りの当たっていない方からくぐると、天使に会えるのだとか。

 天使。それが、いったいどんなものを指すのか、あまり想像できなかった。でも、もしかしたら、その天使とやらは、私を私として扱ってくれるかもしれない。そんな、あまりにもファンタジーで、現実味の無い望みでも、今の私は、すがりたくなった。

 そして、今、目の前で、その鳥居がある。もしかしたら……。とくん、とくん、と、久しぶりに胸を鼓動させて、例のウワサ通り、月明りの当たっていない方へと回り、鳥居をくぐった。

 私は、光に当てられ、輝いた。けど、ただそれだけ。何かが起きたようには感じない。


「……はぁ」


 弱く、ため息を一つつく。まあ、想像通りの展開だ。おとなしく、光を抜けて、帰路にたつ。


「もう、帰ってしまうのですか?」


 背後から聞こえた、優しい声。慌てて振り向く。月光の下に、それは、確かに、天使がいた。それも、幼い天使が。

 私と同い年か、年下か、とにかく、とても幼い女の子。だけど、大きな純白の翼をもち、煌々と広げ、文字通り天使のような笑顔で、そこに立っている。


「あの、あなたが、ウワサの天使ですか?」

「はい。いかにも、私が天使です」


 声は落ち着いていて、でも、普通の小学生と言えば、否定できないような声質。そして、見た目には似つかない、丁寧な口調をしている。とても、人間らしい声だなと、私は思う。


「少し、座りませんか?」


 天使は、出っ張っている木の根に座り、私は促されるまま、天使の横に座る。木の根は、少し硬いような気がした。


「最近、元気にしていますか?」

「えっ……なんで、そんなこと」

「いいではないですか。私は、あなたの事が知りたいのです」

「そう、ですか。じゃあ……」


 すぅーっと息をして、自分の心を整理する。そうして、次に私が言うべきことをしっかり吟味してから、言葉を出した。そうしないと、何もかも、めちゃくちゃに言ってしまいそうだったから。


「元気かと言われれば、そうじゃない、です。何をしても、楽しくなくて」

「ずっと、そうなのですか?」

「ここ数週間は、まあ……親友と、一生離れ離れになっちゃって、それからずっとで……」

「そうですか。とても、辛い思いをしたのですね」


 天使は、哀しい顔をした。それは、まさにその見た目にふさわしい、幼い女の子の、哀しみの顔。そしてそれは、私が今、最も恐怖している表情だった。


「もしかして、あなたは、心配されるのが嫌なのですか?」


 どきっ、とする。図星だったから、というだけではなかった。おそらく私は、その言葉を、ずっと待っていたのかもしれない。今、胸が震えたのは、興奮の色が強かったと思う。


「そう、ですね。多分、私が今感じている苦しみの多くは、そのせいだと思います。みんなが、私ではなくて、哀れな女の子だけを見ているようで、それが、怖くて」

「悲しいことですね。それは、あなただけではなく、あなたの周囲の人たちにも、悲しいことです」


 天使は、話を続ける。まるで、自省をするかのように、星の無い夜空を、見上げながら。


「人は、苦しんでいる人を見れば、助けようとします。そういう親切心を持った人は、きっと、とても多いのでしょう。でも、どうしてか、ほとんどの場合、その親切心は上手く伝わらないのです。それどころか、親切でやったことが、さらに人を傷つける事の方が、多いのです。そうして、みんな、悲しんでしまいます。それはきっと、避けられないことなのでしょう」

「……じゃあ、私は、どうすればいいんですか?」


 私の苦しみが、天使にでさえ、どうすることもできないだなんて、思いたくない。この質問の応えを聞かなければ、私は絶望の底に落とされてしまう。自然と、声は震えていた。


「認めること、そして、受け入れること。それが、ただ唯一の方法です。

 残念ですが、あなたが親友を無くした哀しい女の子だという事実は、消えることはありません。そして、その事実が、周囲の人々の記憶から無くなることも、またありえないのです。これは、あなたが親友と会えない事と同じくらい、仕方のない事なのです。

 ですから、あとは、あなたがそれらの事実を認めて、そして受け入れて、哀しい女の子としての人生を、やり直すしかないのです」


 天使は、重々しく、現実を突きつける。理解はできた、と、思う。しかし、あまりにそれは、天使の口から放たれる言葉にしては、生々しい痛さを孕んでいて、私が直ぐに同意するには、近寄りがたいものだった。

 再度、天使は優しい笑顔を見せて、こんなことを付け加えた。


「少なくとも私は、あなたがそうやって、再び楽しい人生を取り戻すことを、望んでいますよ?」

「それは、どういう意味で……」

「言葉通りの意味です」


 天使というものは、等しく人間の幸福を願うものなのか、それとも、重々しい雰囲気を変えたかっただけなのか、ともかく、眩しいくらいの笑顔を見せてきたので、私も、なんとか笑顔を返すしかなかった。


「まあ、私も、また人生が楽しいと思えるなら、願ってもないことですけど。

 でも、例えば私が現状を受け入れたとして、それだけで、人生って楽しくなるんですか?私には、マイナスがゼロになるだけのようにしか、思えないです」

「きっと大丈夫ですよ。この世界は、私たちが思っているよりずっと広いのです。あなたが楽しめるものは、必ずいつか見つかります。問題なのは、いつまでも過去に引きずられ、マイナスのまま、希望を持てないことなのです。

 ですから、まずは、今の自分を受け入れてください。その後に、世界を見渡せば、喜びは、自ずと付いてくるものですよ」


 なんとも楽観的で、そんなんで大丈夫かと言ってやりたくなる。しかし、それ以前に、ひたすら俯いたまま、ひたすら現状に苦しんでいた私には、少しだけ、前を向かせる言葉だった。


「どうですか?少しは、楽になりましたか?」


 天使は立ち上がって、また、笑いかける。


「まあ、少しだけは」


 私も、ちょっとはましな笑顔で、応える。


「それは、よかったです。私にできるのは、このくらしかないので、後は、どうか、お元気でいてください」

「はい。少し、頑張ってみます」


 そう言って、天使に軽く会釈してから、鳥居を離れていく。

 天使は、最後の最後も、まさに天使らしい笑顔をしていた。



 一分くらい、森の中を歩いた後だろうか。私の背後から、

 

 ありがとう……ありがとう……


 震える声で、そう繰り返す女の子の声を、やけに鮮明に憶えていた。

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