子宮を辿る

@haino0217

子宮を辿る

「──このように前世記憶は重要な個人情報であり、子を出産した際には前世を調査し転生届を役所に提出することが保護者に義務づけられています。」

 現代社会を担当する教員の声は無機質で午後の眠気を誘う。クーラーの効いた教室、締め切られた窓のすきまを縫ってうっすらと聞こえる蝉の声もひどく心地よかった。前に座る男子生徒も例外ではないようでうつらうつらと舟を漕ぐように頭が揺れている。吉永夏美は眠気を振り払うように「前世」について思いを馳せていた。

 誰しもが前世の記憶を持つ世の中で混乱や争いが生まれぬように「転生記録」として個人情報化されるようになってまだ間もない。産まれた時に産院にて脳波や心臓の検査などをする中で前世では何者であったかを調査できるようになり、その結果を出生届とともに転生届を役所に提出をする。この情報の取り扱いについては住所や出自と同じような扱いで、むやみやたらに開示するものではないという認識が暗黙のルールとして存在している。しかし、前世で名を挙げた偉人だった人物がYouTuberとなりその当時のノウハウなどを発信して人気を獲得するという事例もある。

 吉永夏美の前世は農村で暮らす農民の嫁であった。名を“よね”という。与吉という男のもとに嫁いだ。与吉という男は穏やかで「大丈夫だから。」が口癖の無骨で優しい男だった。貧乏な暮らしではあったが子を5人設けた。ささやかながらよねにとっては幸せな生活だったのだと、夏美は思う。浮かぶのはいつも乳飲み子をおんぶ紐で背負いながら農作業をこなすよねの姿。無骨ながらも優しい旦那と暮らす日々。特記することもない平凡な前世の記憶。ただひとつ、よねにとっても夏美にとっても忘れられない記憶があった。

 それは薄暗い夜のこと、くすんだ布に包んだあたたかい何かを腕に抱え息を切らしてよねは走る。与吉は前を走っていた。迷いがある背中を懸命に追いかける。辿り着いた先は川だった。ごうごうと音を立てる川をしばらく眺めた後、思い切ったようにその包んだものを水に沈める。冷たい水に抗うように布の中身がモゾモゾと動いて、布がはだける。のぞいた赤ん坊の顔に手を伸ばして上がってこないように奥に沈めた。更にはだけた布から腕が飛び出てジタバタとしたあと、動かなくなる。水面に揺れてどんよりと滲んだ赤子の瞳と確かに目が合った。赤子の瞳はゆがんで、なにかを訴えるかのようにちいさな口がうごく。「ごめんね」小さな声が川のせせらぎにかき消される。ぶるぶると震える両の手をみつめる。そっと重なる手。肩と背中に温かい感触。与吉はよねを抱きしめて、「大丈夫だから。」とだけ言った。この人とならこんなに悲しい出来事もきっと乗り越えて行ける、乗り越えていかねばならない。重ねられた手をぎゅうと握りしめる。2人は朝が来るまで川辺にうずくまって泣いた。

 この記憶は夏美が物心ついた頃からあった。小学校へ上がり歴史の勉強をしていく中で、それが貧困による「間引き」であることを知った。食べることに困り胎児や嬰児を人為的に殺す人口制限の手段である。きっとよねと与吉も生活がどうにもならなくなって子を殺してしまったのだろう。夏美はその日“よね”として侵した罪よりも、罪を犯すという重たい枷を共に背負いあえるような、与吉という心の底から信頼できる伴侶と寄り添う姿が胸に残っていた。夏美は恋愛をしたことがなかったが与吉のような人に出会うことができたら、と夢見ることをやめられなかった。

「──では、授業を終わりにします。」

 チャイムをBGMに現社の担当教員が授業を締め、そそくさと教室を出ていった。休み時間がはじまったという安堵や期待がざわめきとなって教室に広がる。夏美が教科書を机にしまったと同時に前に座る男子生徒が話しかけてくる。

「やべー、俺寝ちゃってたわー、吉永さん、なんの授業だったか教えてよ」

 前の席で堂々と居眠りをこいていた彼は前田という。下の名前は知らない。夏美は男子と仲良くするのが得意ではない方なのにも関わらずこの男はやけに絡んでくるのだった。

「…前世記憶の取り扱いについてだったと思う。」

「前世ねー!俺よく覚えてねんだよなあ。てか次の授業ってなんだったっけ?」

「美術。美術室からスケッチブックとってきて外で好きな風景を描くんだったと思う。」

「あーあれねー。じゃ、吉永さん一緒にいこー。」

 正直嫌だった。前田という男は誰とでも仲良くできて付かず離れずの友人が多く割に人気の高い男であり、いわゆる陰気と呼ばれるような夏美のような人間にも変わらず話しかけるところも人気の所以の一つだった。とはいえ、夏美はそういうところが苦手だった。ただ、断ることもできない。本当であれば数少ない女友達と一緒に美術室に向かってその後適当に会話をしながらああでもないこうでもないと風景画を描きたかった。しかし前田がくっついてくることでその数少ない、──陰気な仲間というと失礼ではあるけれど、──女友達が夏美に近寄ることができない。いつしか女友達の1人に「前田くんと付き合ってるの?」となんとも冷めた目で聞かれたことがある。可もなく不可もないがそこに属するとわかるじっとりと湿った空気感を纏う女のグループに属する以上、余計な嫉妬の的になることは避けたかった。だがしかし、断れなかった。断れない何かが前田には確かにあったのだった。

 前田と2人、美術室でキャンバスを取り、校庭へたどり着く。夏美は前田に向かってもごもごと口を動かし、裏庭へ向かう女友達のグループの方へ足を運ぼうとしたが前田が遮るように夏美に話しかける。

「吉永さん、プールサイドから見る校舎がめっちゃいいの知ってる?午後のこの時間だと西陽がさして超いい感じになるの。」

「あ、ああ、そう。」

「行こう、俺の目に間違いはないから。ついてきて!」

 この押し切るような空気感が断れない理由の一つでもあった。ちらりと女友達の方に目を向けると一瞬目が合うも即座に逸らされた。もうあのグループにはいられないかもしれない。心臓がひんやりとする。どうしてこの男を振り切れないのだろう、自問自答を繰り返しながら前田の後を追った。

 プールサイドは夏美と前田の2人しかいなかった。前田は見学者が座るすのこの上にどっしりと座り、夏美を手招きする。

「俺プールサボりまくってるんだけど、だからこそ気づいちゃったわけ、この美しさに!」

夏美は手招きされるがままにすのこのうえに座って校舎を眺める。西陽が差しオレンジ色に染まる校舎は確かに美しく素直に感嘆した。

「…確かに綺麗だね。」

「っしょ?やっぱ俺美術センスとかあんのかなあ、アーティストとかになろうかな。将来。」

 前田は軽口を叩きながらキャンバスに鉛筆を走らせる。夏美も描こうとキャンパスに向き合いながら、校舎だけを描くのではなく、せっかくならプールの水面も描くのはどうだろうと思いついた。それこそ自分の“美術センス”にワクワクしながら、プールにギリギリまで近づき、屈んで構図を定める。

「プールの水面を描こうってわけね。吉永さんもなかなかセンスあるね〜。」

「はは、ありがとう…。」

「もしかして前世、画家だったりして?」

「いやいや、全然そんなことなくて。ただの農家の嫁だったの。」

 俺も水面描こうかな、なんて言いながらも前田が近寄ってきた空気を背中で感じる。

「昔の農家の嫁って旦那に逆らえなくて、ただ働きさせられるみたいなイメージあるけど大変だったの?」

「いやいやそんなことはなくて……優しい旦那さんだったみたいで。愛されてたんだなあって、記憶を辿るとそう思うよ。」

「へえ、珍しいねー。」

「確かに家のことも子育ても農作業もやらなきゃならなかったから大変だったんだけど、旦那がいたから頑張れたって言うか。」

「そんなにいいやつだったの?」

「いつも「大丈夫だから。」って前を行く人だった。その背中を追っていけば間違いないってずっと思ってたの。」

 こんなことをべらべらと喋るのは夏美らしくない、と夏美は自分ながらに思っていたが止められなかった。本当はずっと、誰よりも愛していた与吉のことを誰かに話したくてたまらなかったのかもしれない。

「雨が続いて農作物が思ったようにとれなくて不安だった時も、辛いのはあの人、与吉だって同じなはずなのに、大丈夫だからって私の手を握って安心させてくれた。そう、そういえばあの日も、川で、我が子をーーー」

 こんな話を聞かされて、前田は一体どんな表情をしているのだろう。言葉を止めて、ちらりと横目で前田を見遣り、息を呑んだ。

前田は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。どうして。まさか。

「与吉、」

 夏美の声はひどく掠れ震えていた。まさか、与吉だったひとなの。あなたなの。私、あなたみたいなひとに出会ってみたいって、恋愛してみたいって、そうおもってたの。まさか与吉そのものだったひとに出会えるなんて。

「ねえ、前田くん、もしかしてあなたの前世って、」

「……ずっと捜してたんだ。」

喉の奥から絞り出すような声だった。歪められた瞳にうつりこむ夕焼けの橙がゆらゆらと揺れていた。前田が両手を伸ばす。抱きしめられるんだ、夏美は目を瞑った。わたし、あなたに抱きしめてもらいたかったの、魂が前世を超えて、自分となってからも、ずっと。

 

 パシャリ、と後頭部のあたりで音が弾けた。ひんやりとした冷たさが頭の後ろ、首筋、背中の上半身を襲う。理解が及ばなかった。プールサイドに下半身を残し、夏美は前田にプールの中に押し倒されていた。耳、顔を水が覆う。なに、どうして、なぜ。前田くん、いや、与吉……。

 前田の瞳はくらく澱んでいた。薄く小さな口が動く。

「あの日の川辺は暗かった。川の水はおそろしいほどつめたかった。くるしかった。それだけは覚えている。…もっというなら、それだけしか覚えていないんだ。」

 水の中に沈む。水が鼻に入り激痛が走る。足と手をバタバタと動かし懸命に抗う。くるしい、くるしい、どうして、どうして、あなたは。

「……ずっと捜していたんだ。」

前田の声はもう夏美には届かない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

子宮を辿る @haino0217

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る