三十六


 青ざめた顔で玄を見下ろしている富田の姿を目の当たりにしたフクは、何とも表現しようのない感情に襲われていた。

 怒りのようでそうではない。情けなさかもしれない。あきらめなのか……いや、それとも少し違う。やはり怒りか。富田ではなく、自分への怒り。

 立野が救急車を呼ぼうとするが、岬が制する。

「救急車待つより、担いでいった方が早い」

 そう言うや、岬は玄を軽々と肩に担ぎ、歩き始めた。

 富田はそれを呆然と見送っている。理由はわからないが、おそらく岬を殺そうとしたのではないか。それがどうなったか、玄を刺してしまった。

 玄と一緒にいた売人らしき男は、やはり富田だったのだ。

 それにしても……老けた……。元々、体が小さく、見栄えがいい方ではなかったが、それでも勢いがあって、男っぽい部分があった。今の富田は……ガリガリに痩せた体を薄汚れたコートでくるみ、坊主頭、そして何より目に生気がなかった。みすぼらしいという表現がぴったりだった。

 大阪へ出てきたばかりで、右も左もわからないフクの面倒を見てくれたという恩もあったし、はじめての男ということもあった。まともな仕事に就かず、稼ぎもなかったが、それでもフクは富田に愛情をもっていた。心でつながっていると信じていた。だからこそ、富田がネコババした覚醒剤の代金を、文字通り体を張って肩代わりしたのだ。

 しかし、よくよく考えてみると、世話になっている組の覚醒剤を持ち逃げするような男だ。そして何十年も連絡を寄越さず、フクを放っておく男だ。

 なぜ、そんな男を長年待ち続けてきたのか。まるで、洗脳から解けたように、フクは自問自答していた。

 立野が富田を取り押さえることなく、じっとフクと富田を見ている。富田に、逃げる様子が見られないことと、フクに決着をつけさせてやろうという親心だろう。逮捕された後では、そのチャンスもなくなるからだ。

 フクは、店に戻り、殴られ屋の土井垣が置いていったボクシンググローブを手にした。これで殴ってやろうかと思ったが、すぐに元に戻した。今の富田をこれで殴るなんて、土井垣に失礼だ。

 表に出る。富田がフクを振り返る。その目が、助けてくれと言っていた。情けない目だった。

 頬を平手で叩きたかった。殴りつけてやりたかった。罵声を浴びせたかった。だが、フクは何をすることも、何を言うこともなく、黙って富田に背を向けた。これで富田に伝わるだろう。もう完全に終わり、もう待つことはないという意思が。

 背後から、立野が富田を連行する様子が伝わってきた。

 店に戻り、コップや皿を洗った。涙が自然に溢れてきた。とめどなく、それは溢れ出てきて、止めることができなかった。鼻水も出てくる。思わず嗚咽がもれた。涎も出た。

 生まれてこの方、これほど泣いたことはない。幼い頃両親を亡くし、天涯孤独になった時だって、富田が覚醒剤を奪って逃げた時だって、女郎として富田の尻拭いをしている時だって、富田を待ち続けている時だって、これほど涙を流したことはなかった。

 三十年間、富田を待ち続けた。冷静になって考えてみると、常軌を逸していると言っても過言ではないだろう。

 いや、そもそも、自分は本当に富田を待ち続けていたのだろうか。

 富田を待つという行為に身を置くことで、自分の人生を、自分自身に納得させてきたのではないか。ある意味、富田を利用して。

 幼い頃から抱え続けてきた孤独から逃れるため、自分は独りじゃないんだと思い込ませるために、富田を待ち続けていたのかもしれない。

 結局、自分は、富田の幻影に翻弄されていたのだ。もっと言えば、田舎娘の盲目な初恋物語を、五十を過ぎても続けていただけなのだ。

 そう考えると、涙が一層溢れてきて、もうどうにも止められなくなった。

 ただ……自分への怒りの感情は薄れ、もうほとんどなくなっていた。富田への感情も、相変わらずぼんやりしたままだ。しかし、もはや執着心もこだわりもなかった。

 それでも、なぜか涙が止まらなかった。

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