二十一

 ふと、ガード下のカーブミラーに映る自身の姿に目をやる。

「!」

 哀しそうな目をしていた。不安げな、淋しげな、何かを怖れるような哀しげな目。

 母性。

 もしかしたら、フクに母性を感じていたのかもしれない。何があっても、何をしてでも富田を守るという、まるで母親のような大きさ。深さ。

 捨て子だった岬は、親を知らない。組長の狭間に父のように育てられたが、狭間は独身だったため、母親の存在を知らずにきた。だからだろうか、フクに母性のようなものを求めたのかもしれない。

 フクもまた、親の愛情を知らない。ある意味、岬よりも知らないかもしれない。知らないからこそ、余計に人に対して愛情を注げるのだろうか。

 あの時以来、富田は姿を現していない。フクは二十年かけて借金を完済し、店を開いた。今も富田を待ち続けているのだろう。だが、富田はもう戻ってこない。そしてそう仕向けたのは自分だ。

「?」

 突然、誰かの視線を感じた。さりげなく立ち止まり、様子を窺う。だが、誰の姿も認められなかった。ヤマト会だろうか。最近、以前にも増してこの町の土地を買い漁っているようだ。本気でこの町を牛耳るつもりらしい。そして、岬の命を奪うことが、その悲願成就の近道だと考えているのだろう。来るなら来ればいい。返り討ちだ。

「それより、富田をこの町から追い出したことをフクさんに言わなあかんな」

「福」の灯りが見えてくる。岬は今日こそ言おうと、意を決して暖簾をくぐった。だが、先客がいた。そしてその先客はカウンターに突っ伏していた。

「!」

 立野だった。

「なんかあったんか?」

 訊ねる岬に、フクは、

「妹さんが亡くなったみたい」

「……そうか……亡くなったか……でも、ここで飲み潰れててええんか?」

「お通夜は明日みたい。今夜だけは飲ませてくれって言って……」

「……そうか……また来るわ」

 岬は「福」を出た。フクは止めなかった。

 また今日も、富田のことを言えなかった。


 目が覚める。フクの姿はなかった。天井も床もグルグルまわっている。それを蹴散らすように勢いよく立ち上がると、足元がふらつき、すぐに椅子に逆戻りとなってしまった。

 ガラスの引き戸から光が射し込んでくる。もう朝のようだ。いい天気だ。今日も寒くなるだろう。フクが暖房をつけたままにしていてくれたおかげで寒くない。気づけば床に毛布が落ちていた。フクが掛けてくれたのだろう。それを拾い上げながら呟く。

「情けないな。生まれてはじめて酔い潰れた」

 今度はゆっくり立ち上がり、暖房を消した。モーター音が途切れ、狭い店内に静寂が広がる。

 ふと、昔懐かしいカセットデッキが目に入った。

「演歌でも流れるかな」

 再生ボタンを押す。テープがまわりだす。しばらく無音が続いた後、唐突に、まるで雑音のようなざわめきが聞こえてきた。

「!」

 この店の日常だった。時々フクの威勢のいい声や、岬のボソボソと話す声、そして自分のガラガラ声も聞こえてきた。

「なんや、これ……」

 戸惑いながらもしばらく聞いていた。聞いているうち、せつない気分になってきた。

「フクちゃん、ひとりの時にこれを聞いてるんやな……富田がいなくて寂しいんやろうな」

 ストップボタンを押す。

「こんなテープを聞かんでええように、もっと来なあかんな。この店に静寂は似合わん。フクちゃんの元気な声が必要や」

 立野は外に出た。

「さぶっ!」

 一気に酔いがさめそうな寒気が心地よかった。

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