二十

 三十年前、富田がヤマト会のシャブを持ち逃げし、その分の金を肩代わりするため、フクは女郎になった。そして十年後、富田はこの町にフラッと帰ってきた。見つけたのは岬だった。富田は帽子を目深にかぶり、ボロボロのロングコートに身を包み、冬だというのに素足にサンダルを履き、まるでホームレスのような風体をしていたが、岬はそれが富田だとすぐにわかった。

 富田は写真が嫌いだったらしく、フクは、富田と撮った一枚の写真しか持っていなかった。今の時代なら簡単にコピーできるのだが、当時はそんな発想がなく、かといって一枚きりの一緒の写真を貸してくれとも言えず、岬は富田の顔を脳裏に焼き付け、時間を見つけては、その行方を捜していたのだ。

 そんな時、富田の方からこの町に現れた。写真でしか見たことがなかったし、おまけに写真を撮った時から十年以上の年月が経過していたが、直感が富田だと告げていた。

 富田は、おそらく十年も過ぎれば、ほとぼりが冷めているとでも考えたのだろう。

 富田はあてもなく歩いているようだった。おそらくかつてフクと暮らしていたアパートに行ったものの、すでに引き払われていたため、途方に暮れているようだった。

 富田をフクに会わせるわけにはいかない、岬は思った。富田はみすぼらしい格好をしていた。おそらく、フクから金をせびろうと思い、やって来たのだ。

 JRの高架下に差し掛かった時、岬は富田を捕捉した。コンクリートの橋げたに、富田の背中をぶつける。

「おまえ、富田やろ?」

 富田は小さな目を大きく見開き、驚愕の表情で岬を見上げてきた。体は小刻みに震えている。シャブ切れのためか、恐怖のためか……。

「あ、あんた……ヤマト会の……」

「ちゃう。誰でもええやろ。おまえ、何しに戻ってきた?」

「……」

「ヤマト会のシャブを奪って逃げたやろ? 三億や。その三億の肩代わりをフクさんがしてるんやぞ!」

「……」

 富田はしばらく唖然とした顔をしていたが、すぐに狡猾そうな目になり、

「ほな、もうヤマト会から逃げ回らんでええんやな?」

 と上目遣いで訊いてきた。

「おまえ……ほんまもんのクズやな」

「う、うるさいわ。なんや、さっきから、偉そうに。おまえ、なんや! フクの男か?」

「……」

「あ、おまえ、フクに惚れとるな?」

 岬は黙って富田を睨みつけた。

 図星だった。いや、惚れているのとは少し違うのかもしれない。はじめてフクに会った時、富田のために自ら体を張って金を返すと彼女は言った。それを聞いた時、凄い女だと思った。他人のために、そこまでできるのかと、正直最初は疑った。隙を見て逃げるかもしれないとさえ思った。

 いや、それ以前に、岬はフクを説得していた。そもそも違法な薬物を奪ったからといって、ヤマト会は被害届も出さないし、そんなものの代金を肩代わりすることなどないと。

 しかし、フクはきっぱり言い放った。物が何であれ、人様のものを奪ったことにはかわりはない。そして身内がそういう悪事を働いたのだから、返済するのが当たり前だと。

 岬は、フクを狭間組が経営している遊郭「はんだ」で預かることにした。ヤマト会に、この件は預からせてくれと言った手前、きちんと返済させる義務があるし、何より「はんだ」だとトラブルに巻き込まれることがない。フクの取り分をピンハネすることもない。ヤマト会にフクが連れ去られてしまうこともない。

 フクは女郎として働き続け、金を返済し続けた。そんなフクに、岬は神々しささえ感じた。そして、フクの心を掴んで離さない富田という男に嫉妬していた。

「フクの最初の男は俺や。痛みを堪えて歯を食いしばってたと思ったら、すぐに喘ぎ始めてな、ひいひいよがり始めたわ。好きもんや、あいつは。あ、おまえ、もうフクとやったんか?」

 一歩前に出る。富田の目に怯えの色が走った。

「!」

 その表情を見た瞬間、どこかで見た顔だと思った。だが、思い出せなかった。そして思い直した。富田の写真を脳裏に焼き付けたせいだと。

「ま、待て、落ち着け。なあ、フクの居場所知ってるんやったら、教えてくれへんか?」

「何のために?」

「……」

「金か?」

「う、うるさい、自分の女に金を借りて何が悪いんや!」

「借りてどうする? シャブでも買うんか?」

「ど、どうでもええやろ!」

「奪ったシャブはどないしたんや?」

「もうない。全部売った」

「……売った金は?」

「そんなもん、とっくに使ってしもた……なあ、教えてくれや、フクの居場所を。自分の女に金を借りるのが悪いんかい!」

 目が血走り、斜視のようになる。おそらくシャブが切れかけているのだろう。

「早よ、教えんかい! 何をしてるんか知らんけど、三億もの大金を返そうとしているくらいや、稼いでるんやろ!」

「……」

「まさか、おまえもフクの金をせびってるクチか?」

「……」

「なあ、早く教えてくれ。前に暮らしてたアパートへ行ったら、もう取り壊されとってな、フクを探すのに往生しとったんや。で、どこや? フクはどこにおる?」

 卑屈な目。不快だった。いや、不快を通り越して吐き気がした。

 気づけば富田を殴り倒していた。続けざまに顎を蹴り上げる。

 口から下を血だらけにした富田が許しを乞う。既視感が岬を襲う。

「や、やめてくれ……ゆ、許して……」

「立て!」

 ノロノロと富田が立ち上がる。卑屈な目を向けてきた。

「フクさんは体を張って、おまえがヤマト会から奪ったシャブの代金を返済してるんや。そんなフクさんに会う資格はおまえにはない」

「……せやけど、俺のために頑張ってくれてるということは、まだ俺に惚れてるということやろ? 俺には会う権利はある」

「消えろ」

「なに!」

「二度とこの町に近づくな」

「そ、そんなもん、俺の勝手やろ!」

「ええんか? ヤマト会におまえが戻ってることを伝えても」

「……金を返済してるんやったら問題ないやろ」

「ヤクザ舐めるなよ。仮に全額返済したとしても、おまえは見つかれば殺される」

「……」

「ヤクザはメンツで生きてるんや。金が戻ったとしても、素人にブツを奪われた屈辱の事実は消えん」

「……」

「生命保険かけられて、殺されるだけやぞ。生まれてきたことを後悔するくらいの拷問を受けてな」

 富田の怯え切った表情。やはりどこかで見た気がした。いや、どこかで会っている気がした。だが、思い出せない。

「消えろ。今度この町で見かけたら、ヤマト会に連絡する前に俺が殺す」

「……う、うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 岬が凄むと、富田は足をふらつかせながらも逃げていった。

 複雑な心境だった。本来なら、富田をヤマト会に突き出すべきだろう。そうすると、フクは女郎という仕事から解放される。いや、違う。奪ったシャブを持たない富田を、ヤマト会に突き出したところで、ヤマト会には利用価値がない。フクはそんなことは百も承知だから、富田が戻ってきても、今までと変わらず女郎を続けて金を返すに違いない。結果が同じなら、富田をフクに近づけない方がいい。

 自分のやったことは正解だったと、自身を正当化しようとしたが、そんな深いことまで考えずに行動したことは自分が一番よくわかっていた。

 嫉妬だ。嫉妬から、富田をフクに近づけたくなかったのだ。

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