十九

 母親から電話がかかってきた。仕事中にかかってくることはめったにないので、嫌な予感を抱えながら立野は電話に出た。

 果たして、嫌な予感は的中した。昨夜から明美の心臓がほとんど機能しなくなったようで、肺に血が溜り、人工呼吸器も気休めにしかならず、心不全の一歩手前らしい。明美は病院に運ばれていた。

 立野はすぐに病院へ向かいたかったが、事件の関係で少し離れた所にいたため、それもままならず、ようやく駆けつけた時には、明美は息を引き取った後だった。

 明美の死に顔は穏やかで、いつもどおりで、今にも目を覚まして、「兄ちゃん」と呼びかけてきそうだ。

「まるで、あんたを待っているかのように、最後の最後まで頑張ったんやけどな……」

 母親の声を聞きながら、立野は現実を思い知らされた。妹を強く抱き締め、そして号泣した。

「ごめんな……ごめんな、明美……兄ちゃんが……兄ちゃんが悪いんや。兄ちゃんのせいや……ごめんな……」

 いつまでも泣き続ける立野を、年老いた母親が叱る。

「いい加減にしとき! 明美はあんたのせいなんて思ってない! 男のくせに、いつまでもぴいぴい泣きな! 明美が安心して旅立たれへんやろ!」

「……」

 立野は涙を拭った。母親の言うとおりだと思った。三十年以上、明美は頑張ったのだ。頑張りすぎるほど頑張ったのだ。笑顔で送り出してやるべきだろう。

 だが、今は笑えるわけもなかった。父親が病室の片隅で涙を拭っていた。悔しいだろう、悲しいだろう、やるせないだろう。それは立野も同じだった。いや、母親だってそうだ。母親だって泣きたいはずだ。だが、気丈にも堪えている。明美のことを考えて……。

 女は強い。

「通夜は明日やな?」

 確認すると、立野は病室を出た。病室にいても立野にできることは何もない。

 酒が飲みたかった。「福」に向かう。

 フクはいつもの笑顔で迎えてくれたが、いつもと違う立野の様子に気づいたのだろう、神妙な顔になり、訊いてきた。

「妹さんに何かあった?」

 さすがフクだ。

「死んだ……」

「……そう」

 フクは黙って酒を出してくれた。立野も何も言わず盃を干していった。

 どれくらい飲んだだろう。酔っぱらったという感覚のないまま、唐突に意識が飛んだ。

 

 岬は手配師から受け取った一億円をキャリーに詰め、しずかの元に運んだ。

「元彼から返してもらった金や。受け取ってくれ」

「……」

 しずかはしばらくキャリーの中身を見つめていたが、閉じると、きっぱり言った。

「いりません」

「……いらんって……元々はおまえの金や。遠慮せんでええ」

「遠慮してない。確かにわたしは彼に騙されてお金を貢いでたけど、でも、すべて勉強料だと思ってる」

「……」

「いい勉強になったし、この町に出てきたおかげで、岬さんはじめ、色々な人に出会うこともできた。皆さんにやさしくしてもらって、お世話になって、わたしにとっては財産ができた。それで充分です」

「……」

「そのお金は、この町のために使ってください」

「……ええんか、それで?」

「うん。それに、受け取ってしまうと、いつまでも引きずってしまいそうで……」

「……そうか、わかった」

 しずかは目に涙を溜めていた。まだ、サトルに未練があるのだろうか。それとも、騙されたことへの悔しさだろうか。両方かもしれない。しずかは、この金はどうやって作ったものなのか、サトルは今どうしているのか、そういったことを訊いてこない。吹っ切ろうとしているのか。

「岬さん……」

「ん?」

「わたし、明日福井に帰ります」

「また急やな」

「出直すのは早い方がいいと思って」

「……そうやな」

 木村も一緒か? という言葉を岬は飲み込んだ。出直すというからには、まずは一人で出直すのだろう。

「じゃあな」

「岬さん、お世話になりました。本当にありがとうございました」

「無理するなよ」

 岬はキャリーを転がしながら、病室を出た。

 一抹の寂しさに包まれるが、すぐに後悔の念が湧き上がってくる。自分がしたことはおせっかいだったのかもしれない。

 騙されたしずかのために……これ以上サトルをしずかに近づけないためにしたこととはいえ、それは自己満足だったのかもしれない。

「!」

 富田のことを思い出す。岬は、富田をフクから遠ざけた過去がある。

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