十六

 土井垣は半年前までガードマンをしていた。妻と小学生の娘の三人家族。仕事は主にテーマパークの施設警備だった。

 その日、妻と娘は、土井垣が勤務するテーマパークに遊びに来ていた。仕事柄、日曜日にはなかなか休みが取れないことと、娘に仕事をしている父親の姿を見せたいという妻の想いから、二人だけでテーマパークでの休日を過ごすことになったのだ。

 土井垣は園内を巡回しながらも、時々二人の様子を眺めていた。楽しそうな笑顔、そして、土井垣を見つけた二人の嬉しそうな顔に土井垣も満足していた。

 だが、突然悲劇が襲った。土井垣に気づいた娘が手を振ってよこしたが、その娘を誰かが突き飛ばしたのだ。いや、突き飛ばしたと思ったのは間違いで、通り魔が背中を刺したのだった。倒れる娘。異変に気づいた妻が娘に覆いかぶさる。犯人はその妻の背中もメッタ刺しにした。逃げ惑う客たち。気づけば土井垣は二人に駆け寄っていた。本来なら、犯人を取り押さえないといけないというのに……。

 娘は大量に出血していた。全身を痙攣させ、助からないのは明白だった。妻はまだ息があった。涙を流していた。何か言いたそうにしていたが、何も言えないようだった。だが、命の火が消えかかっていることくらいはわかった。土井垣は、妻と娘を抱き締めながら咆哮をあげていた。間もなく二人とも息を引き取り、土井垣は妻子を同時に失った。

 犯人はその後、十数名の命を奪った。もし、土井垣がすぐに犯人に向かっていれば、被害の拡大は防げたはずだ。

 世間は土井垣を非難し、そして同情した。土井垣は職を辞した。

 ガードマンの自分が同じ空間にいたというのに、妻子を守れなかったことと、ガードマンの職責を全うせず、被害を拡大させたことで、生きていくのが嫌になったのだ。何度も死のうとした。電車に飛び込もうとした。ビルの屋上から飛び降りようとした。首を吊ろうとした。だが、できなかった。二人の元へ行こうとするのだが、何かが心にブレーキをかけるのだ。土井垣は、それを自らの怖れだと考えた。同時に思った。自分に自殺は許されないのだと。妻と娘は、無惨にも殺されたのだ。目の前にいた自分に救われることなく……。それならば、自分も殺されるべきだ。そう思った。それも、一瞬で殺されるのは違うと考えた。

 しかし、ボロボロになるまでいたぶられた末に殺されるのもなかなか難しい。考えた末、殴られ屋を思いついた。お金を取って殴られれば、傷害にならないと思ったし、死んだとしても、不特定多数の人間に殴られた末のことだから、最後に殴った客に責が及ぶことはないと考えたのだ。

「勝手な言い草やな」

 ずっと黙っていた岬が口を開く。

 土井垣が顔を左に向け、岬を見る。

「たとえ金を取ってても、あんたを殴ってあんたが死んだら、殴った客は殺人か傷害致死の罪に問われるかもしれへん。もちろん、無罪になる可能性もあるけど、でも、人を殺したという心の傷は一生消えへん。あんたは、金さえ払えば客やから、客に罪はないみたいなこと言うたけど、それはある意味傲慢や。何様や、あんた! あんたは結局、自分で死ぬのが怖くて、他人にそれを背負わせようとしているだけや!」

 土井垣がうな垂れる。

 岬が続ける。

「ほんまに死にたいんやったら、俺が殺したるよ。ボクシングのグローブなんか着けんと、素手で殴り殺したる。グローブなんかつけてチンタラやってたら、いつまで経っても死なれへんぞ」

 岬が席を立つ。

「おい、どこ行くねん?」

 問う立野に、「どこでもええやないか」と呟くように言い、引き戸に手をかける。

「変なこと考えるなよ!」

 尚も言う立野に、「変なことってなんや!」と言い返し、岬は出ていった。

 立野はしばらく引き戸を眺めていたが、やがて口を開いた。

「土井垣さん、あんた、迷ってるんやろ?」

「えっ?」

「最初はほんまに死のうとしたんやと思う。ボロボロになって死んでいこうと思ったかもしれへん。せやけど、今は迷ってるんとちゃうか?」

「……」

「ほんまに死のうと思う人間は、自殺は許されへんとか、いたぶられて殺されるべきやとか、そんなこと考えへんもんや。本気で死のうと思ったら、何も考えんと死ぬもんや」

「……」

「ワシの妹は、昔レイプされてな。ビルから飛び降りて自殺しようとした。結果、死なずに今も植物状態やけど、本気で死のうとする人間は、余計なこと考えずに、死ぬことだけを考えてそれを実行するもんや」

「……私は弱い人間です。卑怯な人間です……色々と言い訳を自分自身にして……さっきの方がおっしゃったように、他人様に背負わせようとしたのかもしれません」

「そやろな……せやけど、グローブなんか着けさせたら、なかなか死なれへんぞ。ましてやあんたはでかい。客はあんたより軽量級やろ? そら死なんわ」

「……はい」

「自殺しようとしたあんたを止めたのは、死を怖れるあんたの気持ちではなく、あんたの奥さんや娘さんや」

「えっ?」

「二人は、あんたに死んでほしくないんや」

「……」

「あんたには生きてほしい。だから、死のうとするあんたを止めてるんや」

「……」

「だから、死ぬな。殴られ屋なんかやめてしまえ。死ぬためにボロボロになるんやのうて、ボロボロになっても必死で生きて、生きて、生きて、生き抜いたらええ。それが、二人の願いのはずや」

「……」

 土井垣の目から大粒の涙が流れ落ちる。

「大丈夫やな? もう大丈夫やな?」

「……はい」

 土井垣は深く頷き、立ち上がった。ボストンバッグを担ぐ。

「そのバッグの中に、奥さんと娘さんがおるんやろ?」

 立野の言葉に土井垣は驚き、

「はい、そのとおりです。一緒に死ぬつもりだったので……二人の遺骨をいつも……でも、二人のお墓を建てます」

「そうやな。それがええ」

「ありがとうございました」

 土井垣が深々と頭を下げる。

 フクは言った。

「女は強い生き物やから、寂しさに負けんと、向こうの世界で気長に待ってると思う。だから、生きてください」

「……ありがとうございます」

 土井垣は再び深く頭を下げると、引き戸の向こうへ消えた。

 しばらくの間、「福」に静寂が広がった。だが、立野のガラガラ声が静寂を掻き消す。

「忘れもんや!」

 そう言いながら、真っ赤なボクシンググローブを頭上に掲げる。

「まだ、間に合うんちゃう?」

「そやな」

 立野がグローブを持って出ていく。

 しかし、すぐに戻ってきた。

「アカン、おらんわ」

「……預かっとこか。もし、必要ならここに取りに来るやろ?」

「そやな。まあ、でも、もう必要ないやろ。そう願うわ」

 立野がグローブを差し出してくる。

 フクはボクシンググローブの紐を水屋のフックに掛けた。

「ええがな。勇ましいあんたによう似合う」

 立野がそう言って笑った。

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