十四
立野は殴られ屋を見ていた。でかい図体をしているため、客は大抵男よりも小さい。おまけにボクシングのグローブをつけている。だから、一発一発のダメージはたいしたことはないだろう。だが、それでも、蓄積すると大きなダメージとなるはずだ。
「そのうち死ぬど」
立野が呟いた時だった。若い男がフラフラと殴られ屋に近づいていった。こちらも顔を腫らしている。
「ん、あれは……」
この前、「福」で会った、確か木村とかいう学生だ。誰かに殴られたのか、顔を腫らしているため一瞬わからなかったが、刑事の立野は顔を覚えるのが得意というか、それが仕事だ。
木村は殴られ屋を殴る。殴る。殴る。だが、今まで一度も人を殴ったことなどないのだろう、腰も入っていなければ、腕も伸び切っていない。殴られ屋は蚊に刺されたほどのダメージも負っていない。逆に木村の方が、息が上がり、その場にへたり込んでしまった。
ギャラリーから溜息が漏れる。嘲るような声も浴びせられる。殴られ屋も心配そうな表情で木村に近づいた。
と、その時だった。木村は立ち上がると、リヤカーを引くホームレスから、護身用なのか、角材を取り上げると、それで殴られ屋を殴り始めた。滅多打ちだ。さすがに殴られ屋は頭を押さえ、うずくまった。
野次馬たちは誰もが呆気に取られているようで、誰一人として動こうとしない。立野は彼らをかき分け、前へ進んだ。
尚も角材を振り下ろし続ける木村にタックルし、取り押さえる。角材も取り上げた。ようやく野次馬の一人が駆け寄ってきて、殴られ屋を介抱し始める。
「おい、あんた、大丈夫か?」
立野も殴られ屋に声をかけた。
「……え、ええ。大丈夫です」
額や頭から流れ落ちた血で顔面真っ赤だ。大丈夫なわけなどないはずだが、男は気丈にも笑顔を見せた。
「アカン、病院行こ!」
「いえ、本当に大丈夫です。体だけは丈夫にできていますので……」
再び笑顔を見せると、殴られ屋は立ち上がった。一瞬ふらついたものの、すぐに立ち直る。タオルで顔の血を拭い、それを鉢巻きのように頭に巻いた。
野次馬の一人が警察に通報しているようだ。
「ワシが警察や。通報はいらん!」
立野は叫ぶように言うと、木村の首根っこを掴んで立たせた。続いて殴られ屋の背中を押しながら、「行くぞ」と促した。
「警察へ連れて行かれるのでしょうか?」
「ちゃうよ。いや、あんたが被害届を出すんやったら、連れていくけど」
「いえ、そんなものは出しません」
「そうか。おい、よかったな、木村!」
木村は呆然とし、立野たちの会話を聞いていないようだ。
「おい、それ返してくれよ」
リヤカーを引いたホームレスが蚊の鳴くような声で言ってくる。
「こんな物騒なもん、どないするんや?」
「寝込みを襲われた時のために持ってるんや。護身用や」
「……」
一時、ホームレス狩りが流行った。最近はそんな事件は起きていないが、その頃のトラウマがあり、誰もが警戒しているのだろう。
立野はホームレスに角材を返してやった。銃刀法にはあたらないし、心のお守りという意味でもいいだろう。ホームレスは破顔した。顔が日焼けと垢で黒いせいか、黄ばんでいる歯がやけに白く見えた。恭しい仕草でそれを受け取ると、リヤカーを引き、去っていった。
「行くぞ」
二人に言うと、立野は「福」へ向かった。
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